4-38:戦士の黄昏
状況は、すでに変転していた。
帝都の戦いで、亜人達は大聖堂を奪われた。すでに鐘は帝都中に鳴り響いている。どよめきと祈りの声が、そこら中で交じりあっていた。
(負けた)
ラシャは運河から這い上がった。
濡れた全身が、鉛のように重い。氏族の装束に、運河の汚れがへばりついている。
「ラシャ」
仲間が呼んだ。
ラシャは気力をかき集めて、立ち上がる。
「どうした」
「空が」
見上げた時、ラシャは圧倒された。
上空を、光で象られた生き物が駆けていく。光は一筋、一筋と流れ星のような軌跡を残していった。
「なんだ、これは」
誰も応えない。というより、全員が声を失っていた。
いつの間にか雲は晴れている。青空を、光の動物達が、喜びの足取りで駆けていくのだ。
(モノリスか)
ラシャは確信した。
あの公女が、何かをやっている。ラシャ達には思いもつかない、何かを。
現に帝都には、公女を呼ぶ声が満ちている。
「どうなっちまうんだよ」
仲間が震えた。
その時、強い風が吹き抜けた。遠くからの風は、南の気配をはらんで、白狼族の間を抜けていく。
すると、一瞬だけ、見えたものがある。
焼け焦げた密林。島に群がる船。略奪された村。
(これは……?)
ぞくりとした。
白狼族の戦士達は、それぞれ顔を見合わせた。極彩色の仮面の穴から、見開かれた目が見詰めあう。
見慣れた景色だと、誰もが訴えていた。
「魔の島、だ」
震える声が、ラシャの喉から漏れた。
一瞬だけ見えたのは、故郷の島の変わり果てた姿だった。
――代償のないものは、ありません。
神官の言葉が突き刺さる。
風は次々とやってきた。まるで帝都へ呼び寄せられているように。
平衡感覚がおかしくなり、気分が悪い。槍を杖にして、なんとか耐える。それでも悲惨な光景は、容赦なくラシャ達の脳裏に焼き付いた。
風が吹く度に、ラシャの心には次々と島の光景が投影されていく。
(これは、魔の島なのか)
荒らされた広場や、砲を打ち込まれた海岸は見る影もない。
主にやられたのは、山猫族の集落らしい。けれど、白狼族として見慣れた場所もまた、破壊の憂き目にあっていた。焼かれた密林や、踏み荒らされた畑は、容易には戻るまい。
「ラシャ、神官殿は、魔の島に海賊を送ると言っていたそうだな」
仲間の一人に、ラシャはぐっと気持ちを飲み込んだ。
「ああ、そうだ」
ラシャは自分に言い聞かせた。
今さら慌てるまでもない。この光景の全ては、予想の範疇なのだ。
モノリスを追い詰めるとは、育った島を破壊することで、住民を人質に取ることにある。
分かっていても、ラシャは言いしれぬ息苦しさを感じた。
「ラシャ?」
仲間が問うた。苦しさは消えない。
「……土地を、取り戻す」
うわごとのように呟いても、かつてのように奮い立つことはなかった。
信じられない気持だった。
あれほど自分を昂ぶらせた言葉が、今は石のように冷えている。
「土地を、取り戻す……!」
もう一度呟いても、結果は変わらない。
むしろ、胃の辺りに杭のような痛みが走った。
己の故郷を破壊されてようやく、ラシャは行為の残酷さに向きあっていた。
「俺は」
現実を思い知ってもいた。
ゲール人の街を破壊し、亜人の集落を襲った。どれも必要なことだと思えたからこそ、戦士は戦士でいられたのだ。
耳のないラシャが亜人として生きるには戦果が必要なのだ。
だが、本当のところはどうだ。
土地を取り戻す。叫び全力で働いたところで、待っていたのは、新たなる亜人同士の策謀だ。
地下の亜人達を見ろ。血統に拘り地下に籠もった彼らが、外の亜人を、果たして対等に扱うのか? まして、獣の耳がないラシャを。
光の柱の前で、彼らは早速ラシャに情報を伏せていたではないか。
「土地を……!」
それが最後だった。
心に残った最後の火さえ、消えてしまったようだ。
破壊された島の景色が、ラシャを責め立てた。
代償は払った。だが得られたものは、代償に見合うものだったのか。
叫べればよかった。鬱積した気持をぶちまけられれば、どんなによかったか。しかし胸の奥は冷え冷えとしていて、頭は無感動にも運河を流れる亜人の死体を数えている。
からん、と槍が転がった。支えるものがなくなり、白狼族のラシャは地面に座り込んだ。
土地を取り戻す。
それがなんだというのだ。
ゲール人が取り戻しても、亜人が取り戻しても、同じことが延々と続くだけはないのか。奪い取られたものを取り返したところで、年月は取り戻せない。損なわれたものは、損なわれたままなのだ。
取り返しのつかない、ラシャの耳のように。
(マクシミリアン殿……)
ラシャは祈った。だがすべての答えを持つ巨体の神官は、すでに近くにない。もう会えない、という漠然とした予感さえあった。
また風がやってきた。俯いたラシャを、仲間が気遣う。
「大丈夫か?」
はるか遠くの景色が見えた。
密林だ。そこに並び、山猫族の集落を見下ろす極彩色の仮面達。
(白狼族か……)
疲れていた。勝ったことなど一度もない。
せめて、とラシャは遠くに向かって祈る。
同じタイミングで、空を一つの生き物が駆けていった。光に象られた姿は、狼の群にも見える。確かに、解放の足取りだった。
「……ああ」
返事を返しながら、ラシャは認めた。
俺は弱い男だった。
結局、強い戦士にはなれなかった。
◆
世界を膨大な光が渡っていった。魔の島の危機が去ったわけではない。むしろ侵略者の海賊達は、船を壊され、退路を断たれた。
もとより追い詰められた獣ほど、凶暴になるものだった。
「貴様」
海賊は、まさに獣の表情だった。
目が血走り、手に持った曲刀は血に濡れている。
その前を横切るのは、火でできた蝶だ。蝶を操る精霊術師、オネもまた傷を負っていた。
「大丈夫かい」
後ろに向かってオネが叫ぶと、女達は震えながら頷いた。
オネは島の民を庇っていた。
「早く逃げな!」
火の蝶がさらに集まり、海賊の腕を焼く。生まれた隙から、別の戦士が斬りつけた。
「オネ、あなたも早く森へ」
光の槍が降り注いでから、形勢が五分に戻っていた。船と砲を喪った海賊は、島に上がるしか術はない。
山猫族の村で、亜人同士の斬り合いが起こっていた。
戦えない者は密林へ逃げ込もうとしているが、中にはけが人や、老人もいる。ために未だ多くの戦士が、村で海賊を食い止めていた。
「形勢は?」
オネが尋ねても、他の戦士は首を振るだけだった。
敵は続々とやってくる。元々、村は包囲で弱っていた上に、敵の数もかなりのものだ。道の先から、延々と海賊達がやってくる。
「こっちを!」
声があった。オネ達が駆けつけた時、怪我をした母親が、子を抱いていた。どうやら逃げる途中に、背中に矢を受けたらしい。
「……この子だけでも」
オネは素早く背中に傷を看て、微笑んだ。
「馬鹿をいうな。助かるよ。いっしょに逃げるんだ」
しかし、状況は悪化の一途を辿った。
道の先から、亜人の叫び声がした。山猫族のそれではない、別の氏族の方言だ。
傾いた夕日が、うごめく影を壁に投じる。
母親がひっと息を吐いた。
敵は多い。数十名はいるだろう。
「ここまで逃げ込んできたか」
大柄の灰熊族、鋭い目つきの大鷹族、そして同じ血を引いた山猫族。熱帯だというのに、黒い布を羽織った者もいた。
地下にいた亜人だ、とオネは察する。
「……オネ」
地下の亜人は言った。
「残念です。あなたが娘に教育をほどこさなければ、もっともっと、楽に進んだのに」
オネは応えない。火の蝶を繰り出して、きっと相手を睨みつける。
「終われ」
海賊が一歩を踏み出した。振り上げた剣が、夕日の色を宿す。
不意に音がした。太鼓の音。
気づいたのは、オネと山猫族の戦士だけだった。
(白狼族の太鼓)
屋根から小さな影が飛び降りた。亜人の動体視力が、正体を見る。
狼だった。
数頭の狼は、海賊達の腕に食らいつく。
海賊達が悲鳴を上げる。狭い路地では、小さく素早い生き物は優位だ。
生まれた隙を塗って、槍が降った。槍は海賊を遮るように、オネの達の前にも突き刺さった。
「こちらだ」
極彩色の仮面達が、屋根からオネ達を見下ろしていた。
(こんな時に)
白狼族とは、一度争った仲だ。警戒し、火の蝶を呼び出す。
彼らは笑い声で応じた。
「山猫よ。助けて進ぜる」
狼の戦士が続々と屋根から駆け下りた。
太鼓の音が響き、剣と槍が舞う。
村中で連動する気配に、オネは悟った。密林の中に一族を伏せていたのだろう。一度攻めたことで、山猫族の村の地形も覚えていたに違いない。戦士の雄叫びが村に満ちた。
「久しぶりだな」
オネの近くに、男が降りてきた。仮面を、外す。亜人の血が濃い老人だった。獣毛が全身を覆っており、装束も豪華だ。
白狼族の長だった。
「……なぜ?」
山猫族の親子を抱き起こしながら、オネは尋ねた。
「懐かしい声を聞いたのでな」
長は、大陸の方向を指で示す。時折、流星のような光がやってきていた。
戦いの激しさと裏腹に、老人は静かだった。
「山猫族の村を、助けろと。そう請うてきおったわ、今更にな」
白狼族の長は、ひどく昔のことを思い出すように目を細めた。
「……息子だ」
長は言葉を探すように喉を鳴らした。やがてゆっくりと首を振った。
「……強い男だった。が、馬鹿なやつだ。情けを見せるなど」
長く息を吐く。引きつった口元は、諦めたような、救われたような、不思議な笑みを結んでいた。
「お前は向いておらなかったのだ」
オネは眉をひそめる。神官と共に大陸へ向かった者の中に、長の血縁がいたのかもしれない。
「氏族になれぬ者は、己の道をゆくがよい。それが荒野であっても」
謎めいた警句は、やがて戦いの騒音にかき消された。
「オネ!」
建物の陰から、山猫族の戦士が増援に現れる。彼らは白狼族の姿を見て、動揺した。武器を向ける者もいた。
「おやめ」
オネは制したが、白狼族の長は肩を揺らして笑うだけだった。
「よい。この戦いが終われば、我らは島を出る。どのみち、灼けた密林では、いずれかの氏族が島を出ねばならんだろう」
白狼族の長は、どこか清々しい口調で空を見上げる。
「我らは土地を諦めない。神官が失敗したなら、我々がやるまでのこと」
戦いの太鼓は続いていく。山猫族の村には、斬られた海賊と戦士の死体が、すでに折り重なるように倒れていた。
母親は娘をかばっている。娘は震えながら、母親にしがみついていた。
オネは胸が締め付けられるような気持だった。
「復讐が我らを昂ぶらせるなら、我々はいつまでも一つの氏族だ。我々は血や言語にのみ住んでいるのではない。一族の物語に住んでいるのだ」
老人は声を張った。
「我らの父君に」
白狼族は唱和する。
長は極彩色の仮面を被り直した。戦士が、次の海賊を求めて移動していく。
オネは叫んだ。
「島を出て、ゲール人と戦うのかい!」
「我らは恩も恨みも忘れぬ。恩により助けてやったまで」
長は亡霊のように笑った。
狼の遠吠えが黄昏に消えていく。
「さらばだ、山猫の民。百年後にでも、また会おうぞ」




