4-37:救済の光
光の中で、モノはふと優しい風を感じた。懐かしい風でもあった。脳裏を、密林の景色が過ぎっていく。
(これって)
故郷である、魔の島だった。
ずきりと胸が痛む。砲撃の跡地や、焼けた木々は生々しい。島はマクシミリアンが放った海賊により、荒らされていたのだった。
(ひどい)
タカラ貝を拾った浜辺や、サンティと共に駆けた密林は、見る影もない。覚悟して目にしても、心が凍り付くような情景だった。
(島の、みんなは?)
思った時、モノは懐かしい声を聞いた。
多くは故郷の島の声だった。なまりのある亜人の言葉だから、モノはそれが故郷の人なのだと分かる。
(ここには、心の力が集まってきているんだ)
鐘が鳴った時、帝都の祈りがいっせいに集まった。今は、それよりもずっと範囲は広い。帝国全土はおろか、魔の島からさえも、人の声が集まってきている。
――モノ。
サンティと共に、周囲を見回す。とても聞き覚えのある声だった。
「……オネ、なの?」
遠く遠く離れた島から、育ての親の思いだけが伝わってきた。
(ここが、河口や、渦のような場所だって言ってたけど)
多くの人の意思が、集まってくる。
だからこそ、この土地は亜人やゲール人にとって重要な場所となったのだ。神話の舞台となったというが、大勢の心の力が集まるからこそ、大きな現象が起こるのだろう。
「島は? みんなは、大丈夫なの?」
まずその言葉が口をついた。
オネからのいらえはない。こちらの言葉が届いているのかどうかさえ、判然としない。
「オネは」
それでも、モノは言った。
地下に隠されていたこと。モノがやってきたこと。
その全てを、育ての親に聞かなければ済まなかった。自分の足下を崩すようなことだとしても、聞かずにはいられない。
「……オネは、このことを知っていたの?」
オネは地下にいた亜人のはずだ。
父親が遺した遺言にも、そう書いてある。島の母としてモノを育てながら、彼女はモノに事実を伝えはしなかった。
「分かっていたの? きっといつか……ひどいことが起こるって」
島も襲われた。モノも今、戦っている。
オネはその元凶と繋がりがあったということなのだ。
モノは応えを待つ。
――私は、知っていた。
その言葉が鍵となったようだ。モノの頭に、すさまじい量の声が流れ込んできた。
堕精霊のものとは違う。人間の声だ。
(亜人の、言葉……?)
エゼノか、あるいはマクシミリアンの記憶だろうか。マクシミリアンと同じように、エゼノの意思も、まだこの場に漂っているのかも知れない。
まず見たのは、誰かの古い記憶だった。
――その子を隠せ。
地下の亜人達が話し合っている。
――ゲール人から生まれた亜人の子。
やってくる知識が、理解を産んだ。
――この子は、永遠に薄まらない亜人の血を持っているかも知れない。
亜人の血は、代と共に薄まっていく。爪も、獣毛も、長い時間の中で失われつつあった。ゲール人から亜人が生まれてきたということは、亜人の血が、ゲール人の血に勝ったことになる。
地下の亜人達は、期待をかけた。
――探究には、精霊術が、つまりは亜人が必要なのだ。
だからこの子を、亜人の集落へ。
そうしてモノは魔の島に送られた。フリューゲル家の父母には愛情があったかもしれない。が、亜人達の思惑は違っていた。血を残すという目的があった。
異民族閉め出し令で、亜人とゲール人の交わりを断った理由も、そこにこそある。
地下の亜人達は、自分達の姿がだんだんと変わっていくことを、恐れていた。
(それで、オネは外へ出れたんだ……)
オネ自身は、猫耳と褐色の肌を持つだけだ。いわば地下の外へ出しても問題がない、血の薄い亜人だったと言える。
(……オネ)
次いでやってきたのは、きっとオネ自身の記憶だろう。
最初は、モノを受け取った日だった。フリューゲル家の母親から、猫耳の娘を預かった。オネの気持ちは、必ずしも明るいものばかりではなかった。
諦めと、打算がある。
氏族を抜けたオネに、拒む権利はない。ゲール人が産んだ、亜人の子供。その貴重な血を残すため、オネは隔絶した孤島で、モノを育てることを義務づけられたのだ。
「なら、どうして、私に……」
声が出た。
「私に、色々なことを教えてくれたの?」
精霊術や、言葉や、狩りを教えたのか。強くなるよう、教えてくれたのか。
問うてから、急に怖くなった。
モノが恐れたのは、それさえも打算の産物ということだ。南の日差しの下で、モノは明るい女の子になろうとしてきた。それは猜疑心の裏返しでもあった。
好かれる子でいなければならないと、分かっていたのだ。
答えは思わぬ形でやってきた。
精霊術師同士の共感が見せる、昔の光景。モノが物心つく前の、オネだけが知っている光景だった。
銀髪で、猫耳で、褐色の肌を持った女の子が、拙い足取りで歩いて行く。
氏族も、歴史も、関係がない。
太陽と風を浴びて、生きる一人の娘がいるだけだ。育ての親の心に、愛情が芽吹いていた。
見届けよう、と。
だってこんなにもまっすぐに、一生懸命に、生きようとしているのだから。
――すまない。
オネは言った。遙かな距離を抜けて、オネの心と繋がった感覚がある。
――私では、すべてを教えてやれなかった。
オネは自分の知識が、あのエゼノとそう変わらないことを知っていた。
地下の亜人のことも。呼び出されなかった精霊のことも。
「どういうこと?」
――お前が、己で気づくしかなかった。
――地下のことも、精霊のことも、私達には見えない何かがあるはずだから。
見届ける、ということはその点だった。
オネが教えられるのは、断片的で、不完全な情報ばかりだ。それも地下の亜人達の間でばかり交わされていた、偏見に満ちたものばかりだ。
オネは知識と強さを授けることで、モノが新しい答えを見つけることに賭けたのだ。
母と呼ばれなくてもいい。かつての同胞から、裏切りを指弾されてもいい。
成長と才能に、全てを賭していた。
「どうして?」
オネの影がゆらぐ。かすかに微笑の気配が漂った。
島の母が想起したのは、島の太陽と風を受けて、必死に生きようとする娘の姿だった。
応えはない。永久に来ないのかもしれない。
記憶の中で、ゲール人と亜人の間の子はいつだって笑顔だった。かつて地下にいた亜人を母に変えたのは、愛すべき子の姿だった。
それを母性と呼ぶのなら、理由などつけようがない。
――お前はきっと見つける。私達では、見えなかったものさえも。
帝国の南下は終わっていた。身を焼く憎しみも、祖霊への執着も、すべて過去のことにできる。
引きずることなど、何もないのだ。この子は『これから』を生きるのだから。
モノは、不意に暖かい風を感じた。
島の南風に似て、モノを優しく包み込んでくれる。
――子供でいる時間より……大人でいる時間の方が、大人として生きていく時間の方が、ずっとずっと長い。
大人になったモノが、自分で見つけ出すことを、信じていたのかも知れない。
「お母さん……」
決して呼ばなかった名前でオネを呼んだ時、モノは強い力を感じた。
堕精霊の声は、相変わらず聞こえる。けれど、同じくらい強く、別の声を感じた。
荒れ狂う恨みや憎しみが溜まっているのだとしたら。その正反対の、喜びや幸せの感情も、この空間のどこかに留まっているのではないか。
マクシミリアンは代償と言ったが、それは常に『反対のもの』があるということだ。
「こ、この子達を……」
モノは夢中で叫んだ。
今まで誰も気づかなかったそれらに、向き合い、呼びかける。
「この堕精霊を、元に戻すのに、力を貸して!」
嘆きや怒りがあるならば、その反対もあるのだろう。
五十年分、蓄積されていた心の力が流れ出す。押し込められてきた精霊と共に、光が広い世界へ渡っていく。
(マクシミリアン……)
この状況をもたらした神官へ、モノは思った。
(あなたの企みは、阻止します)
光の精霊を挟んでも、いがみ合う種族は元のままだ。
モノは自分の思いで行動する。
たとえマクシミリアンのやり方が、彼の望んだ理想だとしても。地下の亜人と、神官の望みを永久に潰すのだとしても、モノは止まらなかった。
(私は、こうしたい)
魔の島と、帝都、二つの場所からの声が、モノを支えていた。
公女として、己の意思で、みんなを導く覚悟を決めた。
――アア。
堕精霊が、声をあげる。
五十年間、同じように溜まっていた正の感情が、堕精霊を象る負の感情を洗っていく。
◆
帝都から離れて、砦にこもった亜人の軍勢は、まだ光の方向を見詰めていた。
「見ろ」
彼らは目を見張る。帝都から伸びる光の柱は、空に向かって広がり、遠くから見ると巨大な枝を持つ大樹に見えた。
頂上に、一際大きく光が集まっていた。
「なんだ」
光の玉はどんどん膨れていく。
「実のようだ」
大鷹族の長は言った。
「光の実が、落ちるぞ」
光は膨らみ、弾けた。
その瞬間、膨大な数の輝きが、空を渡っていった。帝都の地下から、光が全世界へと散っていく。
空一面を流星が過ぎっていくようだ。目をこらすと、その一つ一つが動物だった。
中には地面に降り、喜びに満ちた足取りで駆けていくものもある。
「最初の実……」
最初の実が落とされた時、種を取り出した。
亜人達は彼らに伝わる神話を思い出す。
帝都からそびえる光の柱は、遠くから見れば、輝く大樹に見えた。弾けた光の玉は、樹になった実を思わせる。
「最初の実の、神話……」
それは、歴史の最初で、初めて亜人が精霊を得たのと同じ光景だったかもしれない。
もう一つの世界と結びつき、精霊達がこちらの世界へやってきた。
「実とは、この光の玉のこと。種とは……精霊のことだったか」
自然と、亜人達は頭を垂れ、祈りを捧げた。
亜人と聖教府の神話は、確かに同じものだった。認識が違うのは、見える距離によるものだった。




