4-36:復活の意思
――公女の猫耳にかけて!
世界が揺れた。少なくともモノはそう感じた。
声が大きな波のようにやってきて、モノの周りを駆け抜ける。
あいまいな夢を、鐘の音が打ち破っていく。
(これって)
手足の感覚が、完全に復活していた。目も、しっかりと見える。猫耳を動かすと、ぴこぴこと揺れる重さがあった。
「みんな……」
声は聞こえ続けた。
膨大な光に襲われて、モノは一人で戦っているような気がしていた。兄を喪い、故郷の密林も喪った。寂しさと苦しさが、モノを苦しめていた。
今だって、気を抜けば、また泣き崩れてしまいそうだった。
――公女の猫耳にかけて!
みんながモノを呼んでいた。
今を生きる、生き物の温もりがやってきた。幼き日に打ち込まれた孤独を癒やせるとしたら、それはモノ自身が勝ち取った、現在の声しかない。
冷たくなった体が、暖められていく。
(私……)
モノは思った。
(したい。なにか、私にできること……)
さっきまでは、翻弄されるだけだった。
でも今のモノなら、何かを発することができる。
何度でも、そうしたいと思った。季節の歩みと共に、また草木が芽吹くように。何度でも、何度でも――!
「んに!」
あえて声を出してみる。着地するイメージで体を動かすと、すたっと体勢を決められた。
強い意思がひらめけば、夢のような世界はかえって動きやすかった。
不確かな空間に、踏ん張るべき地面を得たようなものだった。手を振って、足を前に出して。モノは体の全てを使って、この異常な空間へ立ち向かう。
それでも元の世界に帰りたいという意思が、今や公女の足を支えていた。
(まだ、助かったわけじゃない)
ごうと風が吹いた。下から眩しい光が噴出して、猛烈な叫びが耳を貫く。
――イカナイデ。
――クルシイ。
堕精霊の声だった。
モノは、自分がその中に深く取り込まれていることを悟る。
マクシミリアンは、強力な堕精霊を呼び出し、それを光と結びつけることで、『光の精霊』とした。
精霊が現れるのに、この世の何かを使うのは当然のことだ。サンティが水の虎であるように。たまたまそれが、『光』であったというだけだった。
――グオオ。
頼もしい吠え声が聞こえた。
「サンティ!」
振り向くと、光の中を駆けて、虎が寄ってきた。
「お前、そこにいたの」
どうやらモノと一緒に、光の精霊に取り込まれていたらしい。
寂しかったのか、額を一生懸命にすりつけてくる。こちらも踏ん張り返してやらないと、転んでしまいそうだ。
「――よし!」
モノはぐっと手を握った。
耳の先をつまんで気合を入れ直す。
怖いのは、本当だ。やれるかどうかも、分からない。
でも聞こえてくる声が、モノの胸を熱くする。モノが決めて、歩んできた道が、優しい声となって背中を押していた。
――イカナイデ。
――クルシイ。
耳を塞ごうとする声に、モノは腕を組んで立ち向かった。
「聞いて!」
勢いで、言ってみる。ぴしゃりと声をぶつけてやると、相手は少し静かになった。
これには、モノも驚いた。
(聞いてくれた?)
モノは精霊術師だ。
この空間が心の力に満ちた場所で、今、モノが精霊達に翻弄されているとしたら。精霊術師として、精霊と心を通わせることもできるかもしれない。
(……ひとまとまりで、見ちゃだめなんだ)
堕精霊は荒れ狂っている。
しかしその元は、一つずつの動物であるはずだった。
帝都を歩いたことを思い出す。最初は、ゲール人が群衆となって怖かった。でも勇気を出して行進してみれば、一人一人の顔が見えたものだ。
「あなたは――」
モノは目を細める。
眩しい光の中に、一瞬、生き物の影が見えた。
(……これって)
えいや、と思い切って掴んでみた。生き物を掴む感触がある。そのまま、引っぱった。
「この子は、犬だね!」
光の中から引きずり出された犬は、ちょっときょとんとした顔だった。やがて、サンティと一緒に、モノの後ろに並ぶ。
「ちょっとそこで、大人しくしてて」
犬はしばらくそこにいたようだ。
やがて、ふと顔を上げて、臭いをかぐ。何かに呼ばれるようにして、ふっと消えてしまった。
「いくよ」
モノは、光の粒の一つ一つを見つめた。
最初はモノも怖くて、落ち着いて見ることができなかった。でも、注意してみれば、確かに大勢の動物の集まりなのだと分かる。
草原の鷲がいた。帝都で飼われていた山羊がいた。オットーと共にあったネズミもいたし、騎士団に仕えた馬もいた。
驚くほど古い動物もいて、驚いた。
(五十年前……?)
まだ亜人がいた頃だ。その頃の動物がまだ、この空間に残されているのだ。
亜人が大勢いなくなり、精霊になることができなくなった。正しい流れが淀み、その結果、今がある。堕精霊とは、表に出てこれなかった精霊の叫びでもあるのだ。
「ん、んに。ご、五十年分か……」
モノは精霊術師として、生き物との対話を続けた。
「よし……!」
意を決して、新しい生き物を掴んだ。
畑から野菜を引っこ抜く要領だ。
歴史に残る戦いの陰で、人知れぬ原始的な作業が始まろうとしていた。
◆
帝都の街には、鐘が鳴り続けていた。
「おい!」
一人が空を指さす。
光の柱から、一本の筋が放たれた。しかしそれは、かつてのような、光の槍ではない。
流れ星のように、光の柱から生まれて、やがては空へ溶けていった。
目がいいものが見れば――消えていく時に、光と共に四本足の動物のシルエットが見えたかもしれない。
「流れ星……?」
一筋、また一筋、と光の柱から、次々と生き物が生まれていく。
光の攻撃とは違う、喜びに満ちた足取りに、さらに多くの人が祈った。光で象られた生き物が、解放の足取りで、世界中に散っていく。
◆
「モノリス――」
次女フランシスカは、教会で祈りを捧げていた。信徒達と共に、末っ子の無事を祈る。
「モノ」
長女イザベラは、帝都に満ちる声に、作戦の成功を感じていた。
光の柱からきらめきが生まれる度、空に音が響く。
「公女よ――」
フリューゲル公子アクセルは、天を仰いだ。流星が生まれいくスペクタクルは、騎士達をも圧倒していた。
「モノ、そうか」
次兄オットーは、事態を正しく認識している一人だった。
彼はサザンの街でも、魔の島でも、最も近くからモノを見ていた。妹が何をしているのか、何を思うのか、なんとはなしに察することができる。
「混ざって、荒れ狂う精霊を、一つずつ元に戻しているのか」
抑圧され、無視されてきた精霊が、偉大な精霊術師の元で、ひとつずつ正しい流れへ帰っていく。
光が一筋生まれる度、帝都にどよめきが満ちていく。この光景は、帝都の数十万どころか、帝国全土の数百万人が見ているに違いない。
(これは)
ぐらりと、よろめく。
強い心の力を――マナを感じる。心の力は、光の柱に向けてどんどん収束していくようだ。強い風が姿勢を崩すように、強い心の力が帝都へと渡った時、オットーは膝をついていた。
「オットー様?」
周囲の騎士が問う。その騎士もまた、ぐらついた。
気づくと鐘楼の戦士の全員が、姿勢を崩していた。みんな壁や床に手を突いている。
(なにか、見える)
それは遙か遠くの海だった。草原も見えれば、険しい山も見える。
(帝国全土の、光景か)
オットーは一瞬、木々に覆われた密林の光景さえ目にした。モノの故郷、魔の島の光景だった。
「なんだ、これは」
アクセルが呻いていた。気分が悪くなるようなものではない。
が、頭の中を、見たこともないはずの景色が次々と過ぎっていくのだ。
「モノに、もっと遠くからも、心の力が集まってる」
「なんだと?」
「帝都でみんなが祈ったように、世界中で、この現象に祈っている人がいるんだろう」
オットーは喉を鳴らした。
冗談ではなく、巨大な現象が起きようとしている。ゲール人は、大勢の心の力をまとめて、奇跡を放つ。それだって、せいぜいが都市人口数万人といったところだ。
(これはそんな数じゃないぞ)
その百倍、千倍、あるいは万倍かもしれない。
光の柱は輝きを増していく。天に向かって広がり、枝の見事な大樹のようだ。
(最初の実)
ふとオットーは、亜人の神話を思い出す。
「モノ」
妹の無事を祈りながらも、次々とやってくる心の力に、オットーの思考は再び薄れ始めた。
所用で一日遅くの投稿となりました。
次回は、8月29日(水)の予定です。




