4-35:鐘
アクセルは階段を駆け上がった。
石造りの階段は狭く、人がすれ違えるという幅しかない。騎士達は長い列となって進み、アクセルはその先頭をとっていた。
「オットー、お前は後ろにつけ」
アクセルは言ったが、弟は首を振った。
嘆息するが、足は止めない。
「ヘルマン」
「承知しました。オットー様、私めと離れないように願います」
モノリスを迎えにいってからというもの、この弟は驚くほど意地を張るようになっていた。
「最上階には、誰か、残ってるのか?」
オットーが話を逸らした。
「うむ……」
塔の最上階にはゲール人の残党が残っているはずだ。亜人達が鐘を破壊するという選択肢を取らなかったのは、おそらくは彼らを警戒してのこともあるだろう。
(まだ残っておればいいが)
一度のろしで連絡を試みたが、応答はなかった。
事実、アクセルがまず聞いたのは仲間の声ではなかった。
(なんだ)
外からだ。
壁の向こうから、何かが這う音がする。それも、無数に。音は下から恐るべき速さで近づいてきた。
「まさか……!」
言った時、窓から黒いローブが躍り出た。
「止まれ、ゲール人」
フードの影から、褐色の肌が見える。焦りか戦意か、目がこうこうと光っていた。
「さすが、亜人か。外壁を上るとは」
弱音を、獰猛な笑みで隠す。アクセルは胸を張り、戦意を肩で示した。
「押し通るべし」
階段は戦場になった。
まずは剣を振るうまでもない。
アクセルは鉄拳を叩き込み、道をこじ開けた。しつこい相手は、出てくると同時に炎で焼きだし、運河へ叩き落としてやる。
だが倒しても倒しても、黒いローブは窓から次々と沸いて出た。
「きりが無いな」
「我らを足止めし、その間に鐘を破壊するつもりでしょう!」
ヘルマンが言った。老戦士は、亜人の肩に剣を叩き込んでいる。
「急ぎましょう」
騎士達は、階段を駆け上がる。しかし重たい鎧を身につけ、しかもすでに激戦を経た後だ。どうしても息が上がる。
一方、亜人達は武器一つの身軽さで、外の壁を這い上がっていく。鐘を目指す速度は、相手に分があった。
「くそっ」
進もうとした時、アクセルは左足に痛みを感じた。
鉄靴の甲に、崩れ落ちた亜人が短剣を突き刺していた。獣毛に覆われた口元が、にやりと笑う。
「兄さん!」
「大事ない」
先行した亜人がところどころで窓から飛び出して、妨害する。少しでも焦れば、窓の外から短剣が伸びてきて、のど笛を掻き切ろうとした。
「連中、階下の防御を捨ておったな」
アクセルは今の聖堂を想像して、鳥肌が立つ思いだった。
白亜の聖堂。そこに、黒い虫のようなものが無数にたかっている。その虫こそ、半世紀近く地下に潜っていた、亜人達なのだ。
「我らの父君に」
「我らの父君に」
「我らの父君に」
亜人達のかけ声が満ちていく。まるで地下から這い出した亡者の群れだ。
階上から、悲鳴。ついに鐘楼にも、亜人達が辿り着いたらしい。
窓の外に、投げ飛ばされて落ちる、神官の姿が見えた。
「急ぐぞ……!」
あと、一階だ。踏む足に力を込めた時、上から何かが転がってきた。
壁に寄って避ける。が、後続の騎士が向こう脛に金属の一撃を食らい、悶絶した。
転がってきたのは、外された鐘だ。すでに破壊の作業に移っているのだ。
「まずい!」
急ぐ。
黒とは違う、鮮やかな色が行く手を塞いだ。
極彩色の仮面。
「ラシャかっ」
先手は向こう。
突き出された槍を絡め、跳ね上げる。左肩に激痛が走った。
「しゃがめ、オットー!」
炎を吹き出し、周囲を焼いた。窓の外にいた亜人が、炎に顔を焼かれて落ちていった。
断末魔の悲鳴が耳に残る。階段には、すでに血と臓物の臭いが満ちている。
「ここはお任せを!」
ヘルマンが駆けてきた。短刀を投げて、ラシャを牽制する。こじ開けた防御に、剣を見舞った。
踏み込みには鎧の重さと、老戦士の忠義が載っていた。
「は、早く、階上へ……!」
老戦士はラシャを壁へ押しつけた。窓が近い。どちらも相手を落とそうと、体を入れ替える。
「行くのです! 早く!」
もう一つの鐘が、階上から転がってきた。
金属が割れる音。
「鐘を、壊していますぞ!」
窓の向こうを、金具の塊が落下していった。
「走れ、オットー」
兄弟は鐘楼に出た。
部屋は二層構造になっており、吹き抜けになった中央部分に巨大な鐘が設置されている。アクセルよりも、きっと背が高いだろう巨鐘だった。
連動して鳴るべき小さな鐘は、すでにいくつも脱落し、床に転がっている。
うめき声が耳についた。
「上だ」
鐘楼には先客がいた。最後まで抵抗していたであろう、ゲール人の兵士と神官が倒れている。
「来たかっ、地上の蛮族め」
亜人が気づき、向かってきた。アクセルは一刀のもとに切り捨てる。
それは先ほど交戦した、水の精霊術師だった。恐らく、すでに精霊を喪っていたのだろう。
「ワイヤーは、切られてる」
オットーが鐘を分析した。宮廷魔術師は、帝国の技官だ。
鐘を固定している軸を調べて、首を振った。
「力尽くで回すしかないぞ」
「こいつか?」
「ああ、軸に車輪がついてるだろう。そいつを、回すんだ」
わっと、入り口が騒がしくなった。
階段から騎士団と亜人が、一緒くたに駆け上がってくる。極彩色の仮面が見えた。ヘルマンの姿はない。
猶予なし。
アクセルは命じた。
「俺の部下は、鐘についた車を回しに来い! 船乗りのように! 面舵いっぱいだぁ!」
ラシャが槍を振りかぶる。血走った目が、アクセルの頭を捉える。
が、直後、ラシャは耳を押さえてへたり込んでいた。
「どうした」
「耳がっ」
剣戟の音に、ラシャの呻きが埋もれる。
極彩色の仮面が、壁際でへたり込む魔術師を見つけたようだ。
「音の魔術……!」
貴様がネズミか。俺はまた届かないのか。
ラシャが咆哮を放った時、混戦の中、数名の騎士が抜け出した。アクセルに加勢する。車輪に手がかかった。
「回せぇっ!」
アクセルの声が轟いた。
「公女の猫耳にかけてぇ!」
大鐘が、真横に降られた。軋む音を立てて、揺り戻す。
ゲール人の快哉と、亜人達の慟哭を、鐘の音がかき消した。
◆
合図があったのは、王太子マティアスが何度目か分からない深呼吸をした時だった。
「来た」
イザベラは、音が来る前に悟っていたようだ。
鐘楼台から、赤い炎が見えたからだろう。
「殿下、ご用意を」
マティアスは頷く。
場所は、宮廷前の大通りである。マティアスは三階のベランダに立ち、往来を見下ろしていた。
銀行や省庁といった重要施設が集まる通りである。帝都を脱出しようとする人々が、いっせいにこの地点で合流するため、深刻な渋滞が起こっていた。
都会人らしいせわしなさで、あちこちで言い合いや喧嘩が起こっている。不安は人心を荒廃させる。
鎮めるとしたら、彼らの信じる音だけだった。
鐘。
大聖堂の頂から、澄んだ鐘の音が響き渡る。
光の柱に見下ろされ、重厚な響きを感じれば、敬虔な信徒ほど進んで膝を折るものだ。何度も、何度も繰り返される鐘に、ざわめきが止まる。
マティアスは、はっと顔を上げた。高鳴る心臓だけは、王太子が命じても思うようにならない。
「余の声が聞こえるか!」
脱ぎ忘れていた修道士のローブを脱ぐ。汗ばんだ体に、気持ちのよい風を感じた。
涼やかな風が、鐘の音を運んでいく。
「よ、余は、聖ゲール帝国、王太子マティアスである!」
マティアスは精一杯に、声を張った。これが自分の声かと思うほど、よく届いた。
「聖教の徒は、この鐘と共に祈ってもらいたい!」
また鐘の音が来る。
きらびやかな王太子の服装は、人々の目を引いたようだった。
「我らと、さる公女は、今の帝都を救うべく、戦っておる!」
近くにいた者は、すでに膝をついていた。波が渡っていくように、同じ姿勢が増えていく。
鐘の威力に、マティアスは空恐ろしいものを感じた。祈りは、鐘と共にある。それはすり込まれた習慣だった。
(この因習の中に、余もずっといたのか)
王太子自身も、亜人への恐れをずっと抱いていた。モノリスと出会わなければ、この場で膝を突く側にいたかもしれない。
(モノリス)
思った時、胸が熱くなった。
どうしてこんなに会いたいのだろう。
あれほど亜人を嫌っていたのに。
馬鹿な思い込みでいい。もう一度会いたいという気持ちは、きっと本当なのだから。
「こ」
とはいえ、言いかけて、止まってしまう。
次に言わねばならないのは、恐らくは耳慣れない言葉だからだ。覚悟より、常識が足を引っ張った。
ちらと見ると、フリューゲル家の長女イザベラは、余裕の笑みだ。マティアスは思い出す。そう言えば、彼女も政略結婚をはねのけて、己で恋を勝ち取った手合いだ。
静かな笑みは、王太子を促していた。
好きな子の名前くらい呼べるでしょう。
「こ、公女の猫耳に、かけて!」
しんと間があった。市民の視線が王太子に集中する。
静かになられてしまうと、これほど恥ずかしいかけ声はない。細面に朱が走った。
「い、今、最も強く戦っているのは、皆も知る、あの公女モノリスなのだ!」
言葉が自然と口をついた。
「奇跡への祈りを、彼女に向けて欲しい。この鐘と共に!」
マティアスは、それこそ祈るような気持ちで待った。なかなか声は生まれない。
自ら声を張ろうとした時、確かに聞こえた。
――公女の猫耳にかけて!
聞こえてきたのは、行列の端からだった。子供の声だ。
目をこらすと、貧しい身なりで、家財一式を背負って逃げるところのようだ。工房の一家というところだろうか。
子供に先を越された悔しさからか、親方らしき大柄が声を張っていた。
「みんなもう忘れちまったのか。帝都を歩いた、あの女の子だよ!」
耳を澄ますと、聖教府の島からも、同じかけ声が聞こえてくる。恐らく聖堂を囲う騎士達も、同様に叫んでいるに違いない。
「公女の猫耳にかけて!」
王太子が叫ぶと、声はさざ波のように広がった。
ついには、荷車や馬車を率いた貴族も唱和し始める。王太子に追随する、やけくその泣き笑いが各所に見えた。
それよりなお目立つのは、ごく普通の市民が声を張る様である。
(そうか……)
きっとみんな覚えていたのだ。モノリスが水の生き物を引き連れて、帝都を練り歩き、亜人とゲール人の調停をうたったのはつい四日前の出来事だ。
王太子が口にしたことで、人々は気づいたのかも知れない。
亜人公女の戦いは、まだ続いているのだと。
――公女の猫耳にかけて!
声と祈りの姿勢が、帝都に広がっていく。
「やめろ!」
三階の足下で、声が上がった。黒星のしるしをつけた柄の悪い男達だった。
どうやらマティアスを王太子と気づかないらしい。あるいは、迷信的な恐怖が、彼らを駆り立てていた。
「演説を止めろ……!」
建物の中にもすでに侵入していた。商会の建物なのだが、守衛はとうに逃げていた。
三人の男が、鎌や斧といった雑な武器を手に、マティアスを見詰めている。
テオドールが天井から現れて、マティアスをかばう位置についた。
「黒星の自警団ですね。今さらですが……」
帝都で組織されていた自警団の、最後の抵抗といえるだろう。
「ナジカ」
テオドールが土の蛇、ナジカを向かわせる。
その脇を抜けて、一人がイザベラへ駆けだした。
「乱暴ね」
長女は長女で、すでにしっかりと自衛の武器を持っていた。
どん、と低い音がして、自警団の腹がへこむ。イザベラは懐から細長い筒を取り出して、口に蓋をはめ直した。
「それが試作の、携行できる魔砲というわけですか」
「新しいものは試さないとね」
最後の一人も、テオドールが取り押さえてしまう。
騒動の間にも、モノリスを呼ぶ声は高まっていく。
――公女の猫耳にかけて!
満ちる声に、仕上げとばかりに、空をさっとグライダーが駆け抜けた。大鷹族のギギが操る、グライダーだった。翼は大通りを低く飛び、紙をまいていく。
フリューゲル家が以前に撒いたパンフレットの他、商会が臨時で印刷をかけたものも混ざっていた。
公女がんばれ。
猫耳万歳。
ついでに王太子も万歳。
やかましい市民の声が、帝都に満ちていく。
今を生きたいという思いは、いつだって一つだ。
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