4-33:大聖堂の戦い
遠くで、鐘の音がする。
薄く目を開けた。景色は真っ白で、上下の感覚も、時間の感覚もない。
なんだろう、と心が疑問を浮かべる。
途端、思考を塗りつぶすように、大勢の声が頭に入ってきた。考えることを許さないとでも言うように。
(……何?)
深い水から浮き上がるように、意識がゆっくりと浮上していく。
ごうごうという、無念の叫びは相変わらず響いている。しかし、やってくる鐘の音が、彼女を守っていた。
呼ばれている気がしたのだ。
(ここって)
景色が晴れていく。空には、薄桃色のもや。
周囲から、光の粒が昇っていった。光は一つ一つが輝いて、まるで逆さまに降る流れ星だ。
(……聞こえる)
どこかで、名前を呼ばれている。
まどろみで見る、不確かな夢。それでも、猫耳は確かに、人の声を捉えていた。
モノを呼ぶ声を。
◆
イザベラは耳を澄ませた。唇に人差し指を当てる。
「静かに」
長女達は、混乱の帝都を進んでいた。
逃げ出そうとする人で通りはごった返している。人の熱気で、絶えず汗ばむほどだ。
石壁に挟まれた空から、かすかに鐘の音が聞こえる。
「鐘よね?」
イザベラが問うと、背後で白塗りの顔が頷いた。
「はい。ですが――」
地鼠族の亜人、テオドールの顔は歪んでいた。
「小さすぎます」
鐘の音は、かろうじて聞こえるかどうかというものだ。
先ほど聞こえた、フランシスカ修道会の鐘よりも、さらに小さい。混乱の最中、これに祈ろうとする市民はいないだろう。
「別の修道院かしら?」
「いいえ。確かに、大聖堂の鐘が、揺れたように見えました」
テオドールは、遠めがねで大聖堂の鐘を見詰めた。
イザベラは手袋の指を、顎に当てた。
「聖堂で、まだ戦ってる? それとも、鐘自体にすでに細工が?」
考え込んだところで、イザベラははたと気づいた。自信がなさそうな顔をするわけにはいかない。
すでに広間や商会で足を止め、民の一人一人を誘っていた。胸を反らし、自信に満ちた態度で、フリューゲル家に任せろと言ってのけていた。
こんな顔では、作戦に自信がないと言うようなものだ。
(鐘と共に、帝都中でモノに祈る……か)
とはいえ。改めて考えると、目眩がするような作戦だった。
形のない思いだけで、あの光の柱をなんとかしようという。おまけに、鍵となるのは、たった十五才の少女モノリスなのだ。
それでも人が動くのは、祈りと奇跡という仕組みに、誰もが慣れているからだろう。聖教府の鐘と、その奇跡に、ゲール人は五十年以上も守られてきた。
祈りに対する信頼は、それ自体がもはや信仰的だ。
(それとも……)
イザベラは宮廷の方角を見やる。光の柱が、天を突くように伸びていた。
もはや祈りしか手がないほど、民は追い詰められているのかもしれない。
「いずれにせよ、猶予は長くありません」
テオドールは言った。
「混乱は加速していくものですから。今はまだ、兵士も民も作戦に耳を傾けるでしょうが……」
商会の若手や、宮廷の兵士が、道や運河を使ってフリューゲル家の作戦を伝達しているはずだった。
イザベラは口を結び、頷いた。
「……ええ、そうね。その通りよ。さぁ、行きましょう」
再び進み出した。足早で進む長女に、紙を載せた荷車が追随する。
その脇から、細身の姿が追いついた。
「次の目的地を、教えてはもらえぬか」
王太子マティアスは、地味な修道士の装いで顔を隠していた。熱気のせいか、金髪が額に貼り付いている。
「また商会へ向かうのか。こちらは、余の宮廷の方向だが」
「もう宮廷前の、大通りへ向かいます」
イザベラは言った。
「宣伝は、商会の若手や、兵士に任せましょう」
一行は足を早める。
賭けとなる時間は、刻々と迫っていた。
◆
アクセルはワイヤーを引き、鐘を鳴らす。
「ぬぅううううう!」
ギシ、と金属が軋んだ。
機構が作動する。ワイヤーの先にある滑車が回る、手応えがあった。
白銀の鎧は、頭から爪先まで、全身を覆っている。大男の体重と、金属の全重量が、鋼の握力でワイヤーにかけられていた。
「ぬぉぉぉおあ!」
さらに力を込めた。ワイヤーが悲鳴を上げ、階上から鐘の音がする。ただ、小さな音だ。機構に細工があるのか、取っ手を引いても、きちんと音が鳴らない。
(罠か)
背後に気配を感じて、アクセルは振り返る。
兜の視界に、敵の切っ先が迫った。
「ぐっ」
咄嗟に、槍を剣で防いだ。
周囲に敵が降りてくる。色合いは、大きく分けて二つあった。
極彩色の仮面が三人と、黒いローブが三人。どちらも警戒し、遠巻きに囲う。アクセルは壁を背負って戦う形になった。
「なんという、馬鹿力だ……」
ローブの一人が、呻いていた。フードを外せば、あんぐりと口を開けているだろう。
「力任せに、あの鐘を鳴らすとは……!」
やはり、すでに鐘には細工がされていた。
納得し、鼻を鳴らす。本来であれば、聖堂の大鐘はこの部屋のワイヤーを使って操作するはずだった。
「罠に飛び込んだな」
極彩色の仮面の一つが、前に出た。槍使いの若者だった。
「……白狼族のラシャ、と言ったな?」
問うと、ラシャは槍の切っ先を向けてきた。
「互いに顔を見飽きたろう?」
ラシャ以外の白狼族は、両刃の剣を得物としていた。
黒いローブの亜人達は、影のように身を低くする。武器は湾曲した短刀だ。
敵の人数は、六人。破ってきた壁から、ひょうと風が吹き込んだ。
(死地だな)
階下から、剣戟の音がする。家令のヘルマンが兵士を率い、アクセルの階層を目指しているはずだった。
到着まで粘れば、一挙にこの大聖堂の中心である部屋を確保できる。敵陣の真裏に拠点を作るようなものだった。
「不足なし!」
兜の中で、目がぎらりと輝いた。
熱血公と呼ばれる男にとって、劣勢の挽回はむしろ誉れだ。
ラシャが動いた。三つの仮面が、三方向から殺到する。
まさに、狼の狩りだ。
立て続けの攻勢。
槍を剣で受けつつ、籠手の先から火を噴いた。
ひるんだ隙に、素早く体を入れ替える。
鎧の板金を、後続の剣が叩いた。骨に響く痛み。が、かえって戦士を高ぶらせる。
(囲もうとしてくるか)
アクセルは散らばった調度を踏み抜きながら、足を使った。
ぞくりと足の腱に寒さを感じたのは、四歩進んだ時だ。
跳ぶ。
踵のすぐ下を短剣が通った。
ローブの男達が、低空から肉薄し、板金の隙間に刃を入れようとしていたのだ。
「今のは惜しかった」
笑いながら、調度の椅子を炎で燃やす。
そのまま、投げつけてやった。砕けた破片が、亜人達に降り注ぐ。
「戦士よ、集まれ」
極彩色の仮面が、亜人の言葉で何かを命じた。白狼族の三人が、さっと距離を取る。
取り出したのは、細い筒だった。
(吹き矢かっ)
身を翻して避ける。続けざまに三射。
教台を遮蔽にして、なんとかかわす。
モノリスから話を聞いていなければ、食らっていただろう。
「こしゃくな」
アクセルは再び、燃える血液を使った。
目の前に炎の壁を立ち上げる。小さな針など、一瞬で消し炭にしてしまう熱量だ。
このまま進めば、空気ごと敵を焼き尽くす。
「馬鹿め」
炎の先で、ローブの一人が、不気味な笑みを見せた。
「ぬぅっ」
何かが、背後からまとわりついた。
猛烈な重さに、鎧が軋む。咄嗟に剣を杖にしなければ、膝を突いていただろう。
「これは……」
「俺達の精霊は、土と水だ」
ローブの男達が、言った。
石壁の隙間に、精霊が隠れていたのだろう。泥のような土塊が無数に重なり合い、アクセルにまとわりついていた。
「……土と水。なるほど」
粘土のようなものだ。
黒いローブの二人は、互いにアクセルに向かって手をかざしていた。それぞれが、おそらくは精霊の名を口ずさんでいる。
土と水を組み合わせることで、粘りを与えているのだ。
「くそっ」
足が使えない。全身が、底なしに沼に浸かったようだ。
(これが、地下の亜人か……!)
帝国を影から作り上げた、技術と知識。
(なるほど、隠したくもなる……!)
体の熱を上げた。心の力――マナによる炎が、精霊を引き剥がす。
後ろ目に、土でできたトカゲがボロクズとなって砕けていくのが見えた。
「ラジク……!」
それが精霊の名であったのだろう。ローブの一人が呻いた。
しかしアクセルは、すでに失敗していた。足を止めすぎたのだ。
「ラシャ!」
敵が飛んでいた。炎の壁をゆうに飛び越え、アクセルに迫る。
槍の切っ先。
剣で弾こうとしたが、左肩をえぐられた。
「ぐぅ……!」
灼けるような痛みだ。
強力な奇跡と魔法に守られた鎧である。ゆえに、作りは古い。板金の下にある鎖帷子では、刺突は防ぎきれなかった。
体勢が崩れ、背中から倒れた。
「終われ、ゲール人」
ラシャが槍を振り上げた。
背筋を使う。肩甲骨のあたりから、炎を噴射した。
バネ仕掛けのように身をねじると、矛先が床を叩いていた。
「終わらぬ」
起き上がる。
渾身の脚力で踏み込み、ラシャの鼻先に頭突きを入れた。今度は、ラシャが吹き飛んだ。
傷口は深い。空気に触れた血液が、溶けた鉄のようだ。
「囲め」
崩れた本棚から、ラシャが身を起こした。
「手負いを狩り取れ」
そこからは、アクセルは夢中で剣を振るった。防ぎ、跳ね上げ、斬りつける。精霊術師は後退したようだ。
残った力で、アクセルの体力を奪うことに集中する。床を水と泥が這いずり、アクセルの足に絡みつこうとした。
「これしきの、こと……」
光の中にある、モノリスのことを思う。
救わねばならない。騎士の魂が、進めと萎えた肉体を面罵した。
どれほど戦っただろうか。
戦況という現実は、残酷だった。
階下から足音する。ゲール人の、鎧の音はしない。
「同志よ」
階下から現れたのは、黒いローブ姿だった。敵の増援である。
「下にいる敵は、退けた」
「よし。では……この鎧だけだな」
アクセルは歯を食いしばった。
聖堂は、砦と同様だ。攻めるのは難しく、元々高所にある敵は有利となるばかり。
だからこそ、アクセルは奇策と知りつつ、敵の背後を突く作戦に出た。砦を短時間で落とすというのは、難事なのだ。
それでも、敵の布陣を崩し得なかったらしい。
階段から、さらなる増援がやってくる。聖堂のあちこちに罠として散っていたとはいえ、動ける敵は五十はいるだろう。
(これまでか……)
アクセルはゆっくりと腰を落とす。最後の手段は、仕切り直しだ。
全力で誰かに突撃し、運河に身を投げる。運がよければ、敵を道連れにしつつ、助かるだろう。
アクセルはぶち抜いた壁の位置を確かめた。ちょうど真正面の位置である。
急がねばなるまい。
「こちらも、上がるぞ!」
またしても敵が上がってくるようだ。
アクセルから見て右の階段から、大勢が駆け上がってくる音がした。
鎧の音はしない。やはり、敵だろう。
アクセルは身構えた。しかし――
(なんだ?)
奇妙だった。
音だけなのだ。
いつまでも現れない姿に、眉をひそめる。
(敵が来ない、だと?)
大勢の敵が階段を上ってきているはずなのだ。少なくともその音はする。しかし、一向に姿は見えなかった。
「……どうした?」
一人が階段を覗き込んだ時、その喉に矢が突き立った。
部屋の注意がそちらへ向く。アクセルは、階段の隅に妙なものを見つけた。
一匹の、ネズミだった。
アクセルは即座に反応した。包囲に鉄靴の蹴りをたたき込む。
「今だ!」
階段から騎士団が駆け上がってきた。
「敵だと」
亜人達は目を丸くした。
「どこから」
「鎧の音は、聞こえなかったぞ」
三階の広間は、片方の端にアクセル、もう片方の端に騎士団がいる形となった。挟撃である。一室というごく局地で、戦況が逆転した。
「重装兵!」
アクセルは叫んだ。
「一列になって、前進せよ!」
全身鎧の騎士達は、一列に並ぶ。まるで城壁が進軍するようだ。
騎士達の圧力に、三階の亜人達は劣勢を強いられた。階下に撤退するか、別の玄室へ逃げ延びた。運河へ落ちた者もいたようだ。
「到着が遅れて、申し訳ありません」
気づくと、アクセルは床に膝を突いていた。
見上げれば、老戦士ヘルマンである。盾の家紋で、貴族同士は相手を識別する。
「……お前達だけか」
老戦士は兜の面を上げた。
「はい。我々だけが、先に抜けて参りました。音の魔術を、有効に活用しましたので」
ヘルマンは咳払いをする。
「では、まだ敵が優勢か」
「おっしゃるとおりです。南半分を取り返した、というところがせいぜいかと存じます」
下の階では、まだ敵が抵抗をしているという。要は、三階に上がる階段が一つ確保されたに過ぎないということだ。
建物の横に展開したのではなく、縦に展開したというわけだ。これは戦術的には、あまりうまくない。
「……待て。今、魔術と、言ったか?」
問うと、ヘルマンは頷いた。
「それについて、ご報告が」
「いや、紹介なら、やはりいい。それより、鐘をもう一度……!」
アクセルは身を起こす。壁に寄ると、渾身の力で、再びワイヤーを引いた。
仕掛けを解除しようという発想は、熱戦で抜け落ちている。
「ぬぅぅぅうあ!」
ぶつん。
音を立てて、ワイヤーが切れた。千切れた取っ手を、アクセルは不思議なものでも見るように観察する。
「おい、切れたぞ」
「……閣下」
「切れたんだ」
ヘルマンが嘆息した時、階下から新しい顔が上がってきた。
「なに、やって、るんだい」
黒いローブの男だった。金刺繍は宮廷魔術師のローブである。一瞬、亜人学派と見間違うのは、フードをすっぽりと被っているためだ。おかげで顔も見えない。
肩で息をしている。
「し、失礼」
ぐぅうう、とすさまじい勢いで、腹が鳴った。宮廷魔術師は、胃のあたりを押さえて声を震わせた。
「話すと長い。論文になる。ち、縮めていうけど、今は、と、冬眠から醒めた生き物と、同じなんだ。少なくとも、三ヶ月は飲まずくわずだったから……うぅ」
「貴殿が、魔術師か?」
アクセルが問うと、魔術師は驚いた。
「……貴殿だって? ずいぶん、他人行儀じゃないか」
◆
モノは変わらず、不確かな夢の中にあった。
すでに鐘の音は止んでいる。
それでもモノを呼ぶ声は、耳を澄ますと聞こえた。
気を抜くとまた自分の心を失ってしまいそうだが、その度に耳を澄ますと、モノは思い出すことができるのだ。
自分は、モノリスなのだと。
(きれいな、場所……)
周りは光の粒に満たされている。
きっと一つ一つに、人の心が詰まっているのだろう。心の力――マナを、輝きの一つ一つから感じるのだ。
目をこらすと、さまざまな生き物の姿が見える。
ネズミ、鷹、熊、馬――そして人。
生き物は死んだら、こちらの世界に来るのだろう。
だとすれば、モノはまさに境界にいることになる。
――モノリス。
光の粒の一つから、そんな声がした。あの神官の声に似ていた。
(……あなた、死んじゃったの?)
相手は応えない。他の多くの光と一緒にたゆたい、上へ昇っていくだけだ。
モノは神官と信じて、問いかける。
この場では、言葉は音でなく、思いとしてそのまま届いていく。
(あなた、亜人とゲール人に、同じ力を与えたんだね)
神官の思いを宿した光は、周囲をたゆたっていく。もしかしたら、エゼノや、あの場にいた精霊術師の魂も、この中にただよっているのかもしれない。
あの座は、この空間に近しい場所だというから。
(同じ力を持てば、虐げられることはなくなる……)
光の精霊は、周りの願いを聞き届ける。祈りには、大きな力は要らない。兵力も、お金も、魔術の知識も、何も要らないのだ。
誰もが、相手を滅ぼす力を持つ。
モノは今、光の精霊の一部となっている。膨大な量の心の力が通る度、マクシミリアンの考えていたことが、実感として少しずつ分かってきた。
(祈りが、多い……)
亜人だけではない。
ゲール人の貧民。親からはぐれた子。そうした弱い立場の人は、亜人だけではない。
亜人はゲール人に差別されている。貧民は、貴族から辛い扱いを受けている。
でもこれからは、祈れば、誰もが、光による裁きを受ける。
貴族も皇帝も、弱い立場の人に配慮するようになるだろう。
なぜなら、祈ることは誰にでもできるからだ。
(争いがない世界……)
マクシミリアンが描いたそれは、争いの当事者が即座に『報い』を受ける世界だった。
(こんなの……いやだよ)
モノは荒涼とした気分になった。
心に痛みが走る。
モノもきっと、同じことを考えていた。亜人というだけで、猫の耳があるだけで、家族と暮らせない世界なんて、残酷だと。
でも、なんでこんなに寂しい気持ちになるのだろう。
やがて神官の魂は、他の光と混ざり、見えなくなっていく。
――公女よ。あなたは、私にも共感するのですね。
一瞬、神官の思いが、モノに流れ込んできた。
それは微かな、憐憫の情。互いに対する共感を通して、モノは神官の心をさらに感得する。
やがて微かな、恐怖を感じた。
(私に?)
モノの何かを恐れていると言うことだ。
(私に、まだ何かできるってこと?)
不意に、モノは思い出した。光の精霊を呼び出した時から、まだ、マクシミリアンが語っていないことがある。
薄桃色のもやにつつまれたこの光景は、初めて精霊術に触れ、サンティと出会った時と同じだった。
モノが思い出したのは、亜人の神話。
聖教府の物語と対となる、氏族に伝わる『最初の実』の物語だった。
(私にできること……)
モノは考えた。精霊術師として、公女として、モノができることを。
今に対して、モノがやりたいことを。




