1-7:水の虎
余所者のモノは、よく密林で遊んだ。
その時、虎の子供と仲良くなった。母親は狩られたか、病気で死んでしまったのだと思う。
「お互い、今は一人だけど。一緒に頑張れば、大丈夫だよ」
そう言って、モノは小さな虎の前足を握る。『サンティ』と、勝手に名前を付けた。
実は、モノがとても豊かなマナを持っていたせいで、それはごく初歩的な魔術――「使い魔」の契約に近いものになっていた。モノはオネに指摘されるまで気づかなかったが。
モノはサンティにあまり命令をしない。サンティもモノに懐いていた。
孤独を埋め、狩りの生業を助け合う。二人はうまく行った。
森を切り開き、畑を作り、実りを得るように。
モノはサンティと共に、村に自分の居場所を拓いていった。
(サンティが、死んじゃった)
モノは苦しんだ。
家族に、故郷、そして友達。失っていくばかりのような気がした。
(いかないでよ。どうして、みんな……!)
いつしかモノは、夢の中でもサンティの側でうずくまっていた。
夜とも昼ともつかない、奇妙な時間だった。
周りの情景は、先ほどの広場だ。けれど、空には薄桃色のもやがかかっている。空の上を、たくさんの光が昇っていく。まるで逆さまに降る流星群だ。
モノ、と呼ばれた気がした。
モノは上を見上げる。
サンティの最後の心が、モノに流れ込んできた。
――いずれ、また、会える。
――すぐ隣の世界に、行くだけだから。
◆
「荒療治だ」
オネが腕まくりした。モノの頭に手を当てる。
モノはオネの家に運び込まれ、寝台に寝かされていた。
「治るのか」
オットーのネズミが囁いた。
モノは、サンティの死を看取った後、高熱を出していた。神官の雷のせいとも思えたが、容体は病に近い。周りには熱病と言ってあった。
「一時的なもんだよ。大丈夫だ」
「外傷はなかったはずだけど」
「あんた、魔術師なら分かるだろう。これは、心の問題だよ。健康な体には、健康な魂が宿る。逆もそうさ」
「……虎の死で、彼女の心がバランスを崩した?」
「そうだね。才能の問題さ。先天的に共感能力が高すぎる」
話しながら、オネはてきぱきと準備をした。
部屋の中には、数人の白狼族の戦士がいる。オネが属する山猫族の人間も部屋にいた。
どちらも目的は、オネの見張りのためだった。情にほだされてオネがモノを逃がさないよう、見張っているのだ。山猫族にとって、モノはもはや相手に渡す戦利品である。
(可哀想な話だよ)
オネは目を閉じた。
モノが、これまで村で活躍してきたのは、偶然ではない。彼女はそうしなければいけなかったのだ。余所者は、自らの価値を証明し続けなければ、居場所を確保することはできない。
明るく、よく笑い、腕が立つ。
そういう『いい子』でなければならないことを、モノは知っていたのだ。それは悲しい強さだった。
この氏族に、今、心からモノを案じている者はどれだけいるだろう。
オネは色々な子供たちを見てきた。みんなそうした。そして、モノ程見事にやってのけた子供はいなかった。
「安心しな。この子は死なせない。私の、娘だ」
「頼む。……ああ、治癒にも使える魔力が、僕にも残ってたら」
見張りは、二人の会話を聞きとがめない。
オットーは使い魔を通して、音の魔術を用いていた。『完全防音』の魔術を用いれば、例え人混みの中でも密談ができる。音の魔術は、逆にありもしない音を生むこともできた。昼間、モノを音で助けたのも、オットーの魔術だった。
「亜人には、動物と心を通わせる能力がある。そして亜人にマナがあった時、魔術とも、神官の奇跡とも違う、能力が発現する」
オットーのネズミは、首を傾げた。
「それが、精霊術。イファ・ルグだ。向こう側へ行ったはずの、生き物の魂に、火や水、風の実体を与えて使役するのさ」
「向こう側? まさか」
オネは調合用の匙を置いた。
モノに近づき、薬を飲ませる。
「いつか力が目覚めるとは思っていたけれど。まさか、今日とはね」
最後に、オネはネズミにお願いをした。それは、裏の丘にある大砲を偵察することだった。
◆
マクシミリアン神官は、丘の上に作った野営所で、じっと村の様子を伺っていた。
松明の灯りが、ぽつぽつと見える。
山猫族の村は、完全に武装を解除され、マクシミリアン達の支配下にあった。男達は、すでに手枷を嵌めて一か所に集められている。奴隷として出荷するためだ。
女も、同様だ。こちらはより厳しく管理させている。開放すると別の問題が発生するためだ。
「この豊かな村が、我々のものになるとは」
白狼族の長は、極彩色の仮面を脇に置いて、角杯で酒を飲んでいた。
獣毛に包まれた、皺だらけの顔だ。目は酔いに濁りつつも、しっかりと村で蠢く松明の灯りを凝視していた。
「マクシミリアン殿には、感謝の言葉もありませんぞ」
マクシミリアンは笑った。
「こちらこそ。それより、モノリスの監視は、問題ありませんか?」
「はい、数人がかりで見張っています。蟻の子一匹、見逃しますまい。なにより、あれはエチュですよ」
エチュとは、島では熱病を指す。
大陸の公用語と混ざりつつも、古い言葉があちこちに残っているのが、この島だった。
「熱病、ですか」
「ああ、そうともいうようですな。あれは恐ろしい病。近づかぬ方がいいでしょう」
「健康な娘という話でしたが」
「さて。あれは突然来ますからな。あのオネという女も、まさか娘同然の女の病に、嘘は吐かんでしょう」
白狼族の長は、勝利のせいかひどく楽観的になっていた。しかし、と長は言葉を切った。
「しかし、不思議ですな。あの娘に、それほどの価値が?」
「ええ。なにせ、大陸の大貴族の娘です。相続権もある。というより……」
そこで、地面が揺れた。
地震だ、と陣地の中で声があがる。魔の島は火山が近い。地震は珍しくもないのだ。
だが次の光景は、マクシミリアンはおろか、白狼族でさえ見たことがないものだった。
「水が」
村の至る所から、水が噴き上がっていた。
「何ごとだ」
「分かりません」
次の瞬間、マクシミリアンは信じがたいものを目にした。
集落の裏側には、滝がある。島には高い山があり、そこから海岸線に向けて流れる川が村の近くを通っている。その水が、流れを変えていた。雨季に入って水量も増している。
「村に、水が流れ込んでいるぞ」
噴き上がった水は、雨のようになっていた。長が悲鳴をあげた。
「大砲をしまえ!」
遅かった。村のあちこちに置かれていた大砲は、丸ごと水に飲まれていた。大砲には、触媒として火薬を用いている。水に濡れた薬剤は、使い物にならない。
「どうします、長」
背後で、ドン、と凄まじい音がした。陣地のごく近くからも、水が噴き上がり始めていた。湯気が立ち上っている。熱水なのだ。
「これは、間欠泉か!」
マクシミリアンは、この現象の名前を知っていた。
「なんですか、それは」
「地下で温まった水が、地上に吹き出す現象です。火山では、稀に発生します。しかし……」
マクシミリアンは思う。
この陣地の近くにそんな兆候はなかった。熱水が噴き出す地点は、草が生えていなかったり、そもそも熱水が溜まっていたりするものだ。
嫌な予感がするのだ。この辺りの水に、なにか重大な変化が起きている。
「くそ、この陣地の大砲を撃て!」
「で、ですが」
白狼族の戦士は、戸惑うばかりだ。
長も苦々しく口を歪める。
「……そうだった」
「やむをえまい。降りて、我らも戦いましょう」
マクシミリアンは錫杖で、地面を突いた。
「……甘く見ていましたな。亜人とはいえ、貴族のマナか」
「マクシミリアン殿。マナ、とは」
「奇跡や魔術を使うのに必要な、貨幣のようなものです。持つ人間と、持たない人間がいます」
マクシミリアンの雷の奇跡も、オネの火の蝶も、マナを消費して発現させている。
いわば、この世の物理法則を飛び越えるための貨幣が、マナなのだ。
マナをどれだけ持つかは、残酷な話だが、才能で決する。全く持たない者もいれば、豊富に持つ者もいる。大きな財布を持つ者と、小さな財布を持つ者がいるように。
マナの使い方は、精霊術、魔術、奇跡の三種類。これは、マナという貨幣を持った者が、どの店でその貨幣を使うかという話だった。
一番体系化されているのは魔術だ。専門に学ぶ学院もある。宮廷魔術師は都市の技官、つまり官僚としての地位を確立している。
一番強力とされるのは奇跡だが、強い信仰心が要る。
亜人はなぜか精霊術になりやすい。精霊とはマナでできた獣というべきもの。動物と親しむ亜人とは、相性がいいのだろう。
「しかし、仮に奇跡でも、これほどの威力は……」
マクシミリアンは、息を呑んだ。
村に水が流れ込む。悲鳴と、歓声があがっていた。恐らく反乱が起きたのだ。捕らえていた男達が解放されるのも、時間の問題だろう。
「何が起こったのだ。マナ、ですと?」
「あなた方の流儀で、ことわざを用いるのなら……」
マクシミリアンは言った。
「虎の尾を踏んだようですね」
マクシミリアンは、白狼族の本隊を村へ進ませることに決めた。
仮面を被った若者が、坂を上ってきた。
「長、夜です。水害で混乱もしています。一度、全員を丘の上に引き揚げさせましょう」
「ラシャか。だが、そうすれば」
長が、マクシミリアンを見やる。
心配は分かる。
水害で集落が大混乱に陥った今、モノリスの身柄を確保することは急務だった。
モノリスが本当に病だった場合、水に呑まれて死んでしまう可能性がある。また、母代わりのオネが、モノを隠そうとする危険もある。
けれど、何より恐ろしいのは、
(シモーネ・モノリス・フォン・デア・フリューゲル)
マクシミリアンは、心の中で彼女の名を唱えた。
この水の異変が、自然なものであるとは考えにくい。こうした不思議を起こすのが、魔術や奇跡、そして精霊術だった。
マナは血統に依る。それは古来の司祭から始まる。より強いマナを持つもの同士が、血を濃くし合うことで、今の貴族階級が作られていた。
(これほどの水害)
起こせるとしたら、誰だろう。これほどのマナを持っているのは。
マクシミリアンは、長を見やる。その視線で、長は全てを察したようだった。
「大陸にあった、あなた方の故地。ええ、ちゃんと覚えています」
だから安心して、命を危険にさらすといい。
長には、その意味が十分に伝わったようだ。老いさらばえた貌に、生気が蘇る。白狼族は、かつて故郷から閉め出されたのだ。
「全員だ! 全員で、村へ下るのだ。わしも行くぞ。もう一度、山猫族の長と話す。連中に、モノリスを差し出すよう申し渡すのだ」
一方で、マクシミリアンは側近を呼び出した。
「船の準備をしておきなさい。すぐに、出航できるように」
お読みいただきありがとうございました。