4-28:光の精霊
モノの故郷、魔の島は二度目の乾期を迎えていた。
いつもの年であれば、島が賑やかになる季節だ。
翼を休めていた渡り鳥たちが、風に乗って島を去っていく。人々は空の旅人に別れを告げ、収穫したヤムイモでささやかな祝いを開くのだ。
しかし、この年は様子が違う。
誰もが沈んだ顔をしている。渡り鳥を送り出す風にも、焦げついたような臭いがあった。
「今日はどうだい?」
「……分からん。動きがないんだ」
賑わうはずの広場にも、活気はない。
人々からは、挨拶さえ消えていた。代わりに交わされるのは、戦況の話題である。
村人達は、ため息を吐き合う。季節風のせいか、寒々とした風が吹いていた。
「もう二週間か……」
島が包囲を受けてから、二週間が経とうとしていた。
敵の船は、同じ亜人の軍船だった。彼らは一切の呼びかけに応じることなく、淡々と攻撃を続けている。
島は潮流と崖に守られた天然の要害だ。それでも包囲が続けば疲弊する。島のほとんどの集落は、防衛を諦めて、とうに山猫族の村へ逃げ込んでいた。
唯一、陥ちたという噂を聞かないのは、かつて山猫族を襲った『白狼族』の集落だけだ。
「頼みの密林にも、火が放たれたというじゃないか……」
年配の山猫族が、言った。褐色の肌をして、頭には緑色の布を巻いている。
「恐ろしいことだ……」
自然と生きる亜人にとって、精霊の元となる自然は、大切なものだ。
非情な侵略に、島は抵抗を続けたが、じわじわと状況は厳しくなっている。漁に行けない今、頼みの密林に火を放たれては、まず食料が欠乏するからだ。
「あの、異常な嵐は何だ!」
広場の隅から、怒鳴り声が聞こえてきた。
人々は、身をすくませる。
「あの嵐か……」
誰ともなく、呟く。
震えるのは、風のせいだけではない。
三日前、海上では嵐が起こっていた。味方の船は、あっという間に引きちぎられ、海の藻屑と消えたという。島の最高齢の老人さえ見たことがない、強力な嵐だった。
後に、小舟で流れ着いた精霊術師が村で保護されたが、嵐との関係は分かっていない。
ルイファ――穢れた精霊という言葉を、数語聞き出せたのが、せいぜいのことだった。
「オネはなんと言ってる?」
「長の家にいるよ」
広場に隣接する長の家では、島の有力者が集まり、日夜話し合っていた。
村の医者であり、精霊術士――オネもまた、今は知恵者として長の屋敷にいるはずだった。
「どいとくれ!」
戦士が報告にやってきた。顔には泥を塗り、戦の化粧が施してある。
村の遠くから、太鼓の音が聞こえてきた。
「敵の使者が来る……!」
ほどなくして、割れた人の間を、黒いローブの人影が歩き去った。色を除けば、少し前にやってきた、聖教府の人間をほうふつとさせる姿だ。
ローブの隙間から見える肌は、褐色である。
「我らの父君に」
そう挨拶して、使者は遠慮無く長の家へ踏み込んでいく。
中では、島の有力者達が車座になっていた。昔からの習いで、全員が頭に布を巻いている。絶望的な戦況のせいか、誰の目にも生気はない。
香も尽きたのか、汗のすえた臭いがした。
「降伏なされよ」
使者は端的に言った。
しわがれた声が応じる。
「その前に、応えられよ」
山猫族の長が、立ち上がった。皺の中で、細い目が震えている。
「なぜ、我々の島を襲う?」
声には怒りが満ちていた。
「望むものなら出そう。争う意思もない。我らは静かに暮らしてきただけだ。だが……!」
長は言葉を詰まらせる。島のすべての生き物の魂が、長の喉を詰まらせたかのようだった。
「お前達は、集落や森を、焼いて回っているそうではないか。奪うべき品さえ、一緒に破壊するとは、本当の獣の仕業だぞ……!」
壊された家や、いなくなってしまった住人は、土地さえあればいずれ戻る。
しかし火を付けられた密林や、塩を撒かれた畑は、もしかしたら永遠に戻らないかもしれない。土地自体をダメにしてしまうからだ。
使者は腰を折った。
「あなた方は、犠牲にならなければなりません」
聞き分けのない子供を叱るような口調だ。
「どうするつもりだ」
「ゆっくりと、この土地を更地にします。畑に塩を撒き、家を壊します。それでもこのまま争い続けるよりはマシでしょう。少なくとも、死ぬ人はずっと少なく済む」
なぜ、と長の家だけでなく、広場からも動揺の声がした。
暴動が起きなかったのは、そんな活力さえ失われて久しいからだろう。
「むしろ栄誉なことです。この島は、歴史上の重要な場所となるのですからね」
使者は、ちらりと女性に目を向ける。
精霊術師オネは、じっと耐えるように、広場の中央を見つめている。
◆
「島を……襲ってる?」
投げ込まれた言葉は、モノの心に波紋を生んだ。突きつけた短剣が揺らぐ。
必死に動揺を隠しても、猫耳が動いてしまう。
「そ、そんなの、信じません」
「では確かめてみればいい」
マクシミリアンは、穏やかな言葉でモノの心を導いた。
「この場所は、特別な場所です、エゼノ師の声があなたに届いたように、心の力を遠くまで伸ばすことができます」
神官は柔和な笑みで、促した。
「あなたほどの才能と力があれば、遠く、魔の島の情景さえ、目にすることができるでしょう」
モノはなんとか冷静になろうとした。しかし、呼吸が上ずって、うまくいかない。
(島が?)
あり得ない、とは思う。より正確には、『あってほしくない』という気持ちだった。
耳元でオットーが囁いた。
「モノ。誘いに乗っちゃだめだ」
それでも、モノは自分を抑えることができなかった。モノを育ててくれた人達が、たくさんいる場所なのだ。
ゲール人と亜人、二つの種族の間に立つモノは、どちらも無視することができない。
モノは精霊術師の力を、起き上がらせてしまった。どこまでも遠くまで伸びる、共感の力を。
「公女よ。その目で見るといい」
精霊術師エゼノの声が、遠ざかる。頭がぼんやりしていく。
(島まで、戻ってる……?)
今までの旅路を逆走し、モノは海を越えていく。大陸の道を飛び、ウォレス自治区を眼下に、海路を越えて。
目にした光景は、瞬時に心を凍り付かせた。
「そんな……!」
故郷の島が、燃えていた。
周囲には、軍船が群がっている。まるで獲物に集まる蟻だ。そこら中で略奪が起き、家が破壊されている。火を放たれたらしい密林には、まだ炎がくすぶっていた。
「ゆっくりやれと、言っておいたのですが……」
マクシミリアンの声がする。同じ情景を見ているのだろうか。
「少し早急に進めすぎたようです。あなたが、この光景を見なければ意味が無いのでね」
モノは呆然と変わり果てた島を見下ろした。
胸の内で、さまざまな思いで去来した。サンティと駆けたこと、島の市場に行ったこと、なによりもまだそこにいるはずの、育ての親オネのこと――。
「……哀れだな」
エゼノの声がした時、飛翔の感覚も消えていた。モノの意識は、洞窟の中に戻っている。
モノは地面に手を突いた。涙が滲んでいた。
「これほどの才能がなければ、こうまで苦しまなかっただろうに」
サンティが前に出て、モノを庇う。
精霊もまた、故郷の危機を感じ取ったのかもしれない。
天井に向かって悲しげに吠える。
「モノ」
オットーに、モノは応えることができなかった。
「……お兄様」
「何を見たんだ」
「島が……」
さっと、悲惨な光景が過ぎる。燃える密林から逃げ去っていく、渡り鳥たち。
「魔の島が……!」
「モノ、逃げよう」
オットーが素早くモノの肩を降りた。マクシミリアンとエゼノに、気づいた様子はない。
「でも」
「モノ、落ち着いて。今は、順を追って悩むしかない」
オットーはそう言い残して、草の間を駆け抜けた。今は行動するしかないと、自身の行動で示すみたいに。
すぐに、木の陰で音が鳴った。まるで鎧を着た人が、大勢で走っているような音だ。
モノ達を取り囲んでいた、黒いローブがざわめく。
「まさか」
「本当に援軍が?」
モノは動揺する心を抑えて、よろよろと短剣を握り直す。
(泣いてちゃ、だめだ……!)
きゅっと口を結ぶ。破れかぶれに、水の塊をエゼノとマクシミリアンに投げつけた。
「ぬぅ!」
予想もしない反撃だったのだろう。マクシミリアンが、錫杖を振って水を払う。エゼノは風を起こして防御した。
生まれた隙を突いて、モノは水の虎へまたがる。
だが直後、突風が吹き付けた。
「逃がしはしないぞ……!」
エゼノが言った。次に彼が生み出したのは、炎だった。
二、三度、火打ち石で火花を起こすと、みるみる内に巨大な炎へ成長する。
オネの火の蝶など問題にならない、火の怪物だ。
――グオオ。
サンティが主人を守った。熱風がモノの目や鼻を痛めつける。
「サンティ!」
火と水、二つの精霊の力は、互角のように見えた。しかし、サンティを構成する水は、みるみる蒸発していく。火と争うほど、水の虎は蒸発していくのだ。
「だめっ、サンティ! 退いて!」
火勢がいっそう強くなった時、ついに水が焼き尽くされた。手元には、水筒に入れた僅かな水が残っている。でもそれで太刀打ちできる相手とは思えなかった。
「才能はお前が上だ。だが、私はこの場を知っている」
エゼノが手を振ると、火の怪物は姿を消した。消える直前、熊らしき影が見えた気がした。
マクシミリアンが頷き、黒いローブの一人に合図する。
オットーが去って行った方角へ、数名が駆けだした。
(お兄様の方だ)
エゼノがせせら笑った。
「この場で魔術を使う者が、隠れられるわけがなかろう。マナが動くのが、よくよく見えておったわ」
モノははっと息を呑んだ。
オットーが消えた先が、騒がしくなる。しかしそれも、すぐに止んだ。死んだような静けさだった。
ほどなく、ネズミが捕らわれて戻ってきた。心臓が止まりそうになる。
「まだ生きています。少し、切りましたが」
黒いローブの一人が、オットーを無造作に掴んでいた。きれいな紫のトサカが、今は赤黒く染まっている。
「これは……このような小動物に、まさか魂を入れ込むとは」
傷ついたネズミに、エゼノが目を細めた。
「高位の魔術師でしょう。恐らく……」
マクシミリアンが、オットーのネズミを受け取った。傷は深いらしい。離れていても、血の臭いがした。
「……オットーだ」
兄は、自分から名乗った。声には痛ましい雑音が混ざっている。
意識が朦朧としているのか、音の魔術がうまく使えていないのだ。
「モノには、手を出すな」
「……魔の島での公女の奮戦が、ようやく得心しました。家族が心を支えていたのですね」
神官は錫杖を鳴らした。
毛が逆立った。やめて、と小さく声が出る。
「では、その支えを取りましょう」
光が、散った。電撃の光だった。
「え……」
呆然と呟く。モノを導いてくれた兄のネズミは、地面に置かれた。もう、ぴくりとも動かなかった。
モノは状況も忘れて、立ち尽くす。
よろよろと、這い寄るように近づいた。
「……モノ」
生き物が吐く末期の吐息だ。彼は何か言いかけて、そのまま沈黙した。
小さな体からは、生き物が灼けるいやな臭いがしている。
精霊術師の感覚が、魂の剥離を伝えた。
兄は動かない。
もう助言をしてくれることもないし、モノを叱ってくれることもない。黒々とモノを見つめた瞳は閉じられたままだ。
島での情景が、蘇った。同じく雷で、サンティを失った時のこと。
(同じだ……)
頭を強く打たれたみたいに、感情がうまく沸いてこない。
故郷と、家族。今までで手にしたものの一つ一つが、次々と手から滑り落ちていく。
「公女よ、これがお前の決断の結果だ」
モノは、自分がいかにこの小さな兄を大事に思っていたかを、今さらに思い知った。
地下に飛び込む決断をした時から、この結末は決まっていたのかもしれない。
死なせてしまった。
その事実がモノを打ちのめした。
(どうして……?)
家族と暮らしたい。ただそれだけの、願いだったのに。
頬が冷たい。モノは泣いていた。表情が全く動かないのに、涙だけは流れてくる。
「サンティ、お兄様……」
モノの胸を、言葉にならない声が、何度も突き上げた。十年も前の、島娘に戻ってしまったようだ。自分を責めても、悔いる言葉さえ思い浮かばない。
天井から、水がこぼれてきた。どうやらこの洞窟の上は、池か、水路であったらしい。
開かれた穴から、一条の光が差し込んだ。雲の間から注ぐ、曙光のようだった。
「仕上がったようですね」
マクシミリアンが錫杖を突いた。
クスクス、クスクス、と何かの笑い声がモノの周りに渦巻いていく。何度も聞いた堕精霊の声だ。
「帝国の各地に放った堕精霊は、すべてこの場で生まれました。この特別な場所は、使われたマナが流れていく、すぐ隣の世界に近しい場所なのでしょう。川で言えば、『河口』ということになりますか」
マクシミリアンはもう動かないオットーを見下ろした。跪き、小さな声で何かを祈る。
「兄上様。あなたのおかげで、手間が省けました。公女は、堕精霊を呼ぶ、最も大切なものを、むしろあなたから得たようです」
しかしもう少しだけ、お許しください。
囁き声は続いていく。
地の底から、何かが這い出ようとしている。モノの心に反応して現れる、何かが。
「公女よ!」
エゼノが語った。
「敵はここだ! さぁ、太古の精霊を呼べ!」
洞窟の中に、言葉がわんわんと響く。
エゼノの足が、モノの目の前で、ネズミの骸を踏みつけた。飛び散った血が頬を濡らす。
胸がかっと熱くなった。途方もない憎しみと怒りで、体が弾けてしまいそうだった。
「島を救う! 敵を討つ! お前の心の成就に、光の精霊が手を貸すだろう!」
モノは決して強い子ではない。人より長く、我慢ができるだけの子だったのかもしれない。
だってこんなに、一人が苦しいのだから。
――一緒にやろう。
優しげな声に、視界が白く染まっていく。
モノは一瞬、強い憎しみに我を忘れた。
◆
魔の島では、淡々と島を焼き尽くし、解体する作業が行われていた。
「やめて!」
母親が子供を庇う。しかしそれも蹴倒され、引き離される。戦の習いだ。負けた者は奴隷になる。
大陸を追われた亜人には、そのような商いに手を出すものもいた。
「邪魔だよ、これが俺の商売だ」
海賊は歯をむいて笑った。
その時、水平線の彼方に光がひらめいた。
光はすさまじい速度で飛来し、槍となる。そのまま、一艘の船を貫いた。破片が飛び散り、マストが折れる。百人が乗れるはずの船が、あっという間に横倒しになろうとしていた。
「なんだ!」
次々とやってくる光が、沖にある軍船を貫いていく。
光の槍は、水平線の遙か先からやってくるようだ。
「……あれは」
山猫族の長が、村の高台からうめいた。
「大陸からだ」
精霊術師オネは、海の向こうを見つめた。モノ、と小さく娘の名を唱えていた。
それが神話に昇る力を持つ、光の精霊だった。




