4-26:光の座
ごうごうと、流れる水の音が響いていた。
気がつくと、モノは冷たい地面に倒れていた。
狩人の習慣で、自分の体を点検する。全身が濡れている。流される間にどこかでぶつけたのか、左肩の節が痛んだ。
(ここは……)
急な移動のせいだろうか。まだ視界がぼんやりとして、はっきりしない。
こんな状態で下手に動けば、衣擦れを起こしたり、石を転がしたりして、自分の位置を知らせるだけだろう。
モノは猫耳だけを、ピンと立てた。水音の反響の他にも、聞き耳を立てていく。
(大丈夫、かな……?)
だんだんと、闇に目が慣れてくる。
安堵したのも、つかの間のことだ。腕に、あれほど大事に抱えていた兄がいない。
「お、お兄様はっ?」
「静かに。ここだ、モノ」
岩の影から、ネズミが顔を出す。モノは飛びついた。
「よかった……!」
「君が起きないから、少し様子を見ていたんだ」
モノはオットーを抱きかかえると、改めて周囲に目をこらす。
どうしてか、夜明け前のように明るい。亜人の目に、不自由はなかった。
モノが運ばれてきたのは、水路を持った小部屋らしい。
がらんとした四角い部屋で、モノの後ろには水が流れている。水は右の方から流れてきて、左の闇に向かって消えていた。
(きれいな水……)
上の装置で浄化されたか、それとも予めきれいな地下水が通っているようだった。手を入れると、とても冷たい。
壁に触れると、石から掘られたかのように、ごつごつしていた。
「モノ、周りの壁をよく見てごらん」
オットーが、壁の一つを示す。明るさの原因が分かった。
「壁が……光ってる……?」
周りは、照らされていたのではない。壁や床自体が、淡く光っているのだ。
「ウォレス自治区の外灯と、同じ原理だ。その原石かもしれない。この壁には、マナに反応して光る、鉱石が含まれているんだろう」
ネズミは腕を組んだ。
「でも、これが自然に光るとなると……この場所には、常に心の力が集まっているということになるね。河口に水が集まるように」
改めて、モノは身震いした。
「本当に、特別な場所ってことか」
「もう大丈夫かい?」
「ん、んに」
気丈に笑って、天井を見上げる。地下は狭いのかと思えば、意外に高い天井だった。
「どれだけ深く、潜ってきたんでしょう?」
「分からない。水と一緒に、横穴を移動してきたと思うけど……正直、感覚は当てにならない」
オットーは、自信がなさそうに言いよどんだ。
「君も感じただろう? 途中で感覚が、ゆっくりになった気がした。時間が緩やかになったというか」
モノは潜っていく感覚を思い出す。確かに、感覚が広がり、自分がほどけていくような気がした。あれはウォレス自治区で堕精霊と戦ったときや、嵐となったギギを鎮めたときと、同じ体験だ。
何か大きなものの中に、取り込まれ、溶けあわされてしまうような。
「マナは心の力、それが強く作用する場だから、感覚にも影響したんだろうと思う」
「精霊術は、使えそうですけどね」
水が近いせいか、部屋中に水の精気が満ちている。
名も、存在も知らなかった、亜人にとっての特別な場所。
精霊術師の感覚が、それを感じ取っているのかもしれない。
「最も遠くまで行ける者は、最も遠い帰り道を行くことになる」
オットーが呟いた。
「え?」
「フランシスカの言葉だ。君の精霊術師としての才能は、確かにずば抜けている。でも……」
それは、何度目かの忠告だった。
「高すぎる共感能力は、災いにもなり得るってことだ。慎重にね」
「……はい」
モノ達はしばらくの間、流れ着いた部屋の周りを観察した。
水路以外は、ここは通路に続くだけの行き止まりになっているようだ。援軍を待つなら、ここでじっとしていればいい。
ヘルマン達と地鼠族が、昔の地図からこの場所への至り方を見つける可能性はある。
(でも……)
地上では、今も戦いが起きている。それに、モノをここに招いた精霊術師が、入り込んだモノを見逃すとは思えなかった。
モノはあくまで、戦うためにここに来たのである。
「サンティ!」
モノは水路から、サンティを呼び出した。
水の虎はモノの方へ体を寄せる。何度も、冷たい舌でなめてきた。
「お前、ちょっと甘えん坊になったね。しばらく出してなかったから?」
苦笑すると、少し緊張がほぐれた。
「待ってて。準備するから」
モノは少し考えた末、裁判のために着ていた、丈の長い緑色の服を破ってしまった。
短剣でスカートを切り詰めて、膝の上の高さに。下にショースという長靴下をはいているため、裾を切り詰めても、岩場で素肌が露出することはない。
靴も、しっかりと靴底があるものを履いていた。
次いで、小物入れから水筒を取り出す。葡萄酒を入れるような、革製のものだ。水を入れると重くなるが、とっさの防御に水が使えるのは大きい。
「よし、進みましょう」
モノ達は通路へ出た。
道幅は、地下とは思えないほど広い。馬車が通れそうなほどなのだ。両脇には岩をくりぬいた建物があって、まるで地下にできた都市だ。
分岐のようなものはない。長い道が、緩やかに伸びているだけだ。時折開いている横穴も、他の部屋や建物の入り口というだけで、迷わせる意図は感じない。
「居住のための場所だな」
オットーが囁いた。
上へ目を向ける。似たような構造が、何層にも渡って重ねられていることが察せられた。通路の上を、ときおり橋のようなものが横切るのだ。
「これが、五十年前までは、まだ地上にあったんでしょうか?」
あまりの規模に、驚いてしまう。ときおり、帝都の街を歩いている気分になった。
石の建物に挟まれた道は、高層建築に挟まれた帝都の路地と、区別がつかない。
「いや……どうだろう。建物は、岩や壁と一体化しているし……この区域は、最初から地下にあったのかもしれない」
モノは建物を覗き込む。内部はぼんやりと光っており、石でできた寝台が見えた。
木でできたテーブルや、食器も放置されている。
「オネも、ここにいたのかな」
モノは呟く。
(でも今は、人の気配が全然しないよ)
つまりは、遺跡だった。亜人の生活が、その痕跡だけを残している。
あるいは、土に埋められてしまった、歴史と記憶の墓場だ。
「モ……ノ……?」
不意に、頭がぼうっとなる。オットーの声が、急に遠ざかる。
(まただ)
一歩が百歩にも感じ、一瞬がとても長い時間に感じる。
彼方から、悲鳴のような声が聞こえた。ぞっとしたのは、それがオネのものに聞こえたからだ。
「モノ、しっかり!」
「は、はい」
モノはオットーとサンティを抱きしめて、自分を強く持った。深い闇の中で、それでも一人じゃない、と。
表の世界で、家族と暮らす。
これは、そんな当たり前を取り戻す戦いだった。
もう家族を失うのは、嫌なのだ。
「……向こうが、青く光ってる」
耐え抜いて歩くと、通路の先から光が漏れていた。
サンティが唸る。モノは意を決して、穴の向こうへ飛び込んだ。
瞬間、モノは圧倒される。
光に満ちた場所だった。天井はそれ自体が空のように、青の光をたたえて広がっている。地面には草花が咲いていた。むっとするほどの、緑の匂い。
「すごい……これ、木なの?」
壁際には、天井を支えるような、何本もの巨木が伸びている。栄養が豊かなのか、見事な枝振りだった。
「天井に、巨大な、光る石を埋め込んでいるのか?」
オットーが声を震わせた。テオドールが持っていた、石の明かり取りを、巨大化したようなものだろうか。
「……モノ?」
オットーが、モノに呟く。
地下だというのに、雄大さをモノは感じていた。まるでこれが、自然そのものであるような。
(こんな場所が、地下にあったんだ)
見とれてしまう。
草を踏む音が近づいてきた。
「ようこそ、おいでになりました」
しゃらん、と涼しげな金属音が鳴った。はっとしてモノは振り向いた。柔和な笑顔で、マクシミリアンが二人を出迎えた。
「ここが帝都の地下、そして亜人学派の中心部です」
服は血でひどく汚れて、頬にも心なしかやつれたあとがある。
「……一人ですか?」
モノは短剣を抜く。
応えずに、マクシミリアンは奥を指す。ひっと、モノは息を呑んだ。
「いいえ、彼らも一緒です」
一人、椅子に腰掛けている影がある。
しかし、人、と言っていいのか、もはや分からなかった。
骨と皮ばかりにやせ細り、うつろな目でモノの方を見つめている。潤いを無くし、ほとんど昆虫の目と同じような、なんの意思も読み取れない瞳。
朽ちかけた椅子もろとも、草木が全身を侵略している。この部屋と一体化しているようだった。
「この方だけでは、ありませんよ」
モノは周囲を見回す。
一目では草と見分けがつかなかったが、同じような椅子が周りにいくつもあった。どこにも、朽ち果てた亜人が座っている。
「い、生きてる……?」
そんな状態であっても、彼らはしっかりと生きていた。猫の耳が、弱々しい呼気を感じ取るのだ。
「あなたは、私に戦乱を起こした目的を問いましたね」
マクシミリアンは、告げる。
「大量の亜人を帝都の近辺まで招き、精霊術師を伴ったのは、この部屋で朽ちつつある彼らの跡継ぎをさせようというためでした」
しかし、とマクシミリアンは言葉を継ぐ。優しげな眼差しが、モノを捉えていた。
「状況が変わった。あなた一人だけで、事足りそうだ」
モノは短剣に、水筒から水をまとわせる。
全身の毛を逆立てて、神官の雷を警戒した。サンティが唸り、全霊の威嚇をする。
ざわり、と草木が動いた。新しい臭い。黒衣の集団が、木の陰や、草の陰からモノ達を見据えている。
「……亜人学派が連行していた精霊術師は、そのためか」
オットーが、モノの背に隠れながら、唸った。
今まさに、死につつある、この空間の精霊術師達。彼らが重要な存在で、その代替が必要だったのだ。
おそらくは、彼らこそ、帝国に残った亜人の精霊術師。半世紀前の、生き残り達だ。
「私も、その候補の一人、ですか?」
「最も優秀な一人です」
マクシミリアンは訂正した。
「島であなたを見た時、これがまさに、本物の奇蹟だと思いました。神のご意志だと……!」
モノは首を振る。そんな不気味な計画に含まれていたのが、嫌でたまらなかった。
「ここは、何なんです?」
モノは問う。
「ここに精霊術師を連れてきて、どうするんです?」
「探求の成果を、実証します」
マクシミリアンは天井を見上げた。
「聖教府の奉じる、光の神を、これからあなたに呼んでいただく」
笑みは、微動だにしない。
「光の、神様を……呼ぶ?」
眉をひそめる。マクシミリアンは、続けた。
「より正確に言うなら――『光の精霊』ということになりますな」
無数の、古い亜人達が、肉の失せた顔で一斉に微笑んだような気がした。
風が、部屋を渡っていく。地下で起こるはずのない風が。
ぞっとする。
「よく来た、公女よ」
部屋の奥で、声があった。よろめきながら、誰かが立ち上がる。
この声こそ、聖壁を越えてから、何度もモノに語りかけてきた声だった。
草を踏みしめて、人影がやってくる。
灰色の獣毛に包まれた手足。闇に輝く目。杖を突く硬質な音が続く。
「我らの新しい家族になるがよい」
亜人の頭の上には、三角形の耳があった。モノと同じ氏族、山猫族だ。




