4-24:マクシミリアン
夜の内に、雨が降った。翌朝の帝都には霧が出た。
じめりとした空気は、都会の臭いをはらんで、モノの鼻を刺す。湯浴みと着替えを終えて、モノは窓から空を見上げた。
天気は曇りだった。
「準備はできております」
ヘルマンが報告に来た。
テオドールなどの地鼠族は、目星をつけておいた水路や、井戸などを見張っている。水源が亜人学派の本拠につながっているという可能性は、モノの調査で濃厚になっていた。
王太子の命で宮廷魔術師まで動員され、地図の面でも、兵員の面でも、漏れのない警備が敷かれている。
「裁判は、聖教府の大聖堂で行われます。では、公女様」
「はい、行きましょう」
モノ達は馬車で移動した。馬車の窓から、緊張に満ちた中州の島を見渡す。そこら中に兵士がいて、厳戒態勢だ。
人通りが驚くほど少ないのは、宮廷が布告を出したおかげだろう。
――亜人学派の残党が、帝都の周囲にいる。
これはモノ達が発案した、大混乱を起こさずに、人々を警戒させるギリギリの情報だった。
地下に潜む亜人について、ありのまま事実を告げれば、帝都から脱出する人が群れをなすだろう。そもそも信用されるか、十分な信憑性を与えられるかにも、疑問符がつく。
「聖教府には、確信犯的に地下の亜人に協力する人がいるのでしょうね」
イザベラは馬車の中で囁いた。
モノも顎を引く。そうした一派が、モノ達を一時期邪魔した、黒星の自警団をも組織させたのだろう。
「ふむ。金か、地位か、それともその両方か……誘惑の種には事欠かないのが、帝都の現状ではあります」
フランシスカが引き取った。目を細めて、薄く開いた窓から外を盗み見る。
「おかげで市民の関心も、高いようですね。今までの議論もありますし、布告による注意も、どれだけ効果があるか」
「……本当だ」
聖堂の前には、列ができていた。裁判は、公開されて行う。見学に来た――正式には傍聴と言うらしい――人が、入りきらずに聖堂の外へ並んでいるのだ。
モノ達は、大聖堂の車寄せに到着した。
降りると、群衆がどよめく。今日もあえて帽子を被っていないため、大きな猫耳が人目を引いていた。
モノは緊張を気取られないように注意しながら、軽く会釈し、大聖堂に入った。
「すごい……」
相変わらず、目を見張る壮麗さだ。
白亜の聖堂は、高い天井の一面に、天井画を持つ空間だった。ここで、偉い人が説法をするのだという。上に見とれていると、足がもつれそうだ。
「こっちです」
フリューゲル家一行は、また別の部屋に通された。
こちらも、大広間だ。天井はすさまじく高く、どこまでも吹き抜けになっていた。床はすり鉢状に沈んでおり、周囲の席から、中央で行われるやりとりが一望できる。
吹き抜けの一部は、本当に空高くまで続いているらしい。天窓から取り込まれた光が、雲の隙間から差し込む曙光のように、あちこちに日だまりを作っている。
天井画や壁画もあって、神話の世界に迷い込んだみたいだ。
「光の神が……」
モノは壁に刻み込まれた、警句に目を留める。
「世界を照らし、闇を払った……?」
案内された席は、なんと王族のすぐ側だった。
細面の金髪が、席で腕を組んでいる。王太子のマティアスだった。
「来たか」
「布告、ありがとうございますね」
「ふん……何も起きねば、それが最上だがな」
ヘルマンが、目線でモノの席はそこだと示す。長女イザベラはモノのすぐ隣に腰を下ろした。
次女フランシスカは、神官が座る席へ、長兄アクセルは証人が座る席へ向かう。
「よっと」
亜人公女も席へ座り、フリューゲル家全員が揃った。周囲から視線を感じたが、気づかない振りをした。
「被告を」
壇上で、神官が声を張る。
ほどなくして、扉が開き、マクシミリアンが引かれてきた。腕や足には、枷をはめられている。一人で歩くこともままならないらしく、ひどくふらついていた。
かろうじて綺麗なのは、神官を示す背の高い帽子だった。それだけが、彼がまだ神官であることを示しているようだ。
追って、皇帝陛下もやってくる。
今上陛下ヴィルヘルム五世。やせ細った体ではあったが、輝く冠と、体を大きく見せる法衣が、衰えぬ威厳だ。
「よし」
皇帝が小さく頷いたのが、全ての始まりだ。
神官の声が続く。
「これより、神官マクシミリアンに対する弾劾を、光の神の照覧の下に、執り行います」
モノはオットーへ囁いた。
「だんがい?」
「責任を追及する、という意味だよ。聖教府は、神官が亜人を先導したという事実を、早めになんとかしたんだろう。つまり、責任はこの異常な神官にある、という形でね」
とはいえ、とオットーは付け加えた。
「地下の亜人も、手を引いているんだろう。裁判は、マクシミリアンを帝都へ連れてくる口実に過ぎないはずだ」
モノは頷いた。そのために、外にも兵士を用意し、モノも準備をしてきたのだ。
いわば、止めようがない敵の罠に、準備万端で飛び込んだようなものだった。
「フリューゲル公子アクセル」
兄の名が、呼ばれた。
「この神官は、マクシミリアン本人。間違いありませんね?」
「うむ」
「亜人を率い、南部の都グラーツを襲った。戦の指揮官として、この訴えに、相違ありませんね?」
「それだけではない!」
兄が、神官を押しのけた。イザベラが小さく笑い、フランシスカが天を仰ぐ。
声で聖堂がびりびりと震えた。
「穢れた精霊を解き放ち、土地を汚し、辺境の亜人さえも捕らえて使っていた! どのような野心があったか、望みがあったか!」
アクセルの声は、ほとんど地鳴りだった。知っていてもびっくりする。
「今日は、それが明らかになることを願っておる!」
靴音も高く、アクセルは神官の対面にどかりと腰掛ける。どんな動きも見逃さない、という風に。この場で戦いを始めてしまいそうで、モノははらはらした。
「で、では、マクシミリアン神官。一連の行為に対し、発言を……」
「待て!」
神官の席で、声が上がった。
「この者は罪人だ! 帝国と聖教に対する特別背任、この罪に、申し開きをさせる機会を与えるのが、本当によいことなのですか?」
そこからは、少し難しい議論になった。聖教府の中も、一枚岩ではないらしい。
モノはごくりと喉を鳴らす。いよいよ、マクシミリアンが話すようだった。
「私は、するべきことをしただけです」
神官は、静かに始めた。とつとつとした声が、静寂の中によく響く。
柔和な微笑は、島で目にした時と全く変わらない。昨日の悲鳴と、傷の激しさが嘘のようだ。なんという心の強さだろう。
「それは、探求です」
声は続く。
「聖ゲール帝国、そして聖教府は、周囲に壁を張り巡らせました。異民族に対する閉め出し令、そして人の行き来を制限する奇跡、『聖壁』です。確かに、奇跡の恩寵は帝国の中に満ちましたが――それが完全でないことは、誰もがおわかりでしょう」
裁判を見に来た者の中には、モノが訪れたような、貧民街の人もいた。ぷんと糊の臭いがするのは、紙すき場の人かもしれない。
「奇跡に頼った作物の収穫は、徐々に効果を減じています。不作なのです。我々は、もはや恵みを使い果たそうとしています」
大柄な神官は、胸を張った。
「あの黒いもやのような、異形の精霊。多くの戦士が目にしたあれもまた、奇跡を使いすぎたゆえの代償です」
神官の言葉は、むしろモノの胸を打った。精霊のことも、作物のことも、島娘には身近なことだ。集まった人の中にも、共感する人はいるだろう。
「上手いわね」
イザベラが呟いた。
「私達は、光の神の教えを得ました。しかしそれを探求せず、深めようとはしていない。独占し、保存しただけなのです。それは、ある種の獣が、巣穴に餌を隠してしまうように。なぜ分かち合おうとしないのです?」
獣に例えられたことで、壇上の神官らの顔が赤くなる。
「いえ、単なる獣より下等といえるかもしれません。獣でも、群れを思い、行動することがあります。しかし聖教府のこの五十年は、奇跡については、少なくともその兆候はなかった」
マクシミリアンは首を振った。神官の一人が手を上げた。
「マクシミリアン。発言は全て記録されています。また、偽証、侮辱、背任も、ここでの発言に適用されることを、お忘れなく」
モノは何人かの頬が、微かにひくつくのを見て、胸を悪くする。
(マクシミリアンを悪者にした方が、都合がいいってことなんだね)
マクシミリアンは、注意を無視した。身を縛る鎖をじゃらりと鳴らし、語り続ける。
「……私は、気づきました。亜人の方が、聖教の奉じる光の神、その本質に近しいと」
その言葉は、訴えというよりも、囁きに近かった。イザベラには聞こえていないようだ。モノの猫耳だから、かろうじて聞こえたようなものだった。
神官が背筋を正す。枷の金属音は、神官の錫杖を思い出させた。
「探求が止まった理由は、今の聖教に、大きな嘘があるからです」
議場がどよめく。
「嘘を暴くには、歴史の本当の原点から、見つめ直す必要があると考えます。それが、どれほど不都合な事実であっても……」
フランシスカが発言を求めた。
「神官。これは、亜人を率い、国土を荒らしたあなたに対する裁判です。今の話と、あなたの行為に、どんな関係があるのですか?」
「人は、目で見たものしか信じません」
マクシミリアンは、続ける。一度、咳き込む。
「真実を語ったところで、誰が耳を貸すでしょう? 探求の成果は、この帝都に、宮廷に、聖教府に……叫びが聞こえるような目で見える迫力を持たない限り、誰の耳にも届くことはない」
マクシミリアンは相変わらず、彫り込まれたような、柔和な微笑だった。モノはその裏に激しい感情が燃え上がるのに、気づいた。
口調が高揚していくのだ。
「事実、ほとんどのゲール人が、自らが追い出した亜人の姿など忘れていたでしょう?」
不意に、亜人の鼻が異臭を察知した。マクシミリアンの体から、黒いもやが立ち上がる。
「これは」
誰かが声を出す。聖堂の中に、一瞬で混乱が満ちた。
マクシミリアンの一声が、響き渡った。
「これも、探求の一つの成果です。礼を言います、私は、一つの使命を達した!」
声に満ちるのは、万願成就の狂喜。
「ぬぅっ!」
アクセルが即座に抜剣した。もやの一つが、モノに向かって殺到したのだ。炎がひらめき、もやを根元から切断する。
もやはモノに届く寸前、霧散した。
「る、堕精霊っ?」
疑う余地はない。マクシミリアンの体から、幾条ものもやが立ち上がっていく。
モノはようやく、狙いを悟る。寒気がするような、事実だった。
「自分の体に、穢れた精霊を封じていたのか」
驚愕が、オットーの声を干し上げた。
「でも、昨日は……何も感じませんでしたよ?」
「完全に封じていたんだろう。傷も、毒も、体にあの穢れを受け容れた反動だったんだ」
モノは声を失った。
「ギギみたいに?」
「あれは、無理矢理宿らされただけだ。精霊術師として、精霊を宿す素質を見込まれて、無理矢理依り代にされただけだ。でも、これは――」
言う間にも、黒いもやは広がっていく。
「どういうことだ? 精霊術を使えるのは、亜人だけじゃないのか?」
脳裏にマクシミリアンの言葉が蘇る。
(奇跡と精霊術は、似てるってこと?)
首を振った。二人で話し込んでいたのは、僅かな時間だろう。それでも、もう一秒も無駄にはできない。
モノは席の背もたれに飛び乗り、大声を出した。
「みんな、落ち着いて! ヘルマン、出口へみんなを!」
懸念通りの展開であり、衛兵達の動きは速かった。アクセルに従い、すでにこのもやを見たことがある騎士も多い。
だが次の戦力の出現が、混乱に拍車をかけた。
「モノ!」
慌てて身をかがめる。飛び込んできたのは、吹き矢だった。
次々と黒いローブが議場に現れる。全員がモノを狙う位置についた。
(狙いは、私?)
短剣を抜き、退ける。全く動じずに武器を抜いた公女に、庇おうとしたマティアスの方が驚いたくらいだった。
「お構いなしってわけね」
イザベラが、男装の懐に手を入れる。何か用意があるらしい。
舞台の中央では、黒いもやを次々と生み出しながら、マクシミリアンが移動していく。
時折炎がひらめくのは、長兄の勇戦だ。複数の黒いローブに囲まれながら、頑として退かない。
「聖堂が燃えるぞぉ!」
黒いローブに支えられて、マクシミリアンは議場を後にする。
建物の裏手――つまり、水路の方角だった。モノも次々と椅子を乗り越えて、舞台へ躍り出た。黒いローブが追いすがるのを、ヘルマン達が遮っていく。
(逃がしちゃ、だめだ)
モノは恐怖を押し殺して、マクシミリアンを追う。
「私が、止めてきます!」
「ま、待てモノリス!」
アクセルも続こうとする。が、その目の前に、極彩色の仮面が立ちはだかる。
「この間のようにいかんぞ」
短槍と剣がぶつかり合うのを尻目に、モノはドアから飛び出した。
「水場で、私から逃げようなんて……!」
煙で視界を塞ぎながら、一艘の船が運河を下っていくのが見えた。すごい速度だ。
モノは精霊術を行使しようとした。だが、水がいつものように逆巻かない。
「これって……」
モノは、気づく。精霊術が使えないのではない。モノが水を巻き上げようとする力と、同じくらいの力で、水が上から押さえつけられているのだ。
(地下の精霊術師……?)
宮廷で聞いたような、あの声の主に違いない。小舟はどんどん遠ざかっていく。
帝都に黒いもやをまき散らしながら、秘密と、答えが、同時に消えていこうとしている。
「モノリス殿!」
神官が、声を張っていた。場違いなほど柔和な笑顔が、モノの混乱を煽る。
「あなたの島がどうなったか、知りたくありませんか?」
ぞくりとした。急に故郷の島の名前を出されて、動揺が走る。
(魔の島? どういうこと?)
動揺に、焦燥が加わった。
「待て、深追いするなと、昨日も言われただろう」
兄の忠告だった。モノはぎゅっと短剣を握る。狩人をやってきた時から、ずっと愛用している品だった。
――グウウ。
サンティの鳴き声が、すぐ側で聞こえた気がした。大量の水は操れなくても、島からずっと一緒の友達は、モノを助けてくれるだろう。
(私が、やらなきゃ)
ふっと、島の母――オネの面影が見えた気がした。
「ごめんなさい、お兄様!」
責任感と、焦燥感。モノは、運河へ飛び降りた。




