1-6:神官マクシミリアン(後編)
屋根から降りる。壁を蹴って減速して、ついでに猫の身体能力で、見事な着地を決めてやった。
広場が一層のどよめきに包まれた。
マクシミリンが、細い目をさらに細める。
色白だな、とモノは思った。大陸の人と、島の人はまず肌に違いが現れる。モノは、褐色。胸の前で組んだ腕は、土の色だ。
神官の法衣と、緑の装束が向かい合う。
「モノリス殿、ですね」
「はい」
ふむ、と彼は感心したように顎をさすった。
「なるほど。これはよく似ておられる」
モノは眉をひそめた。
「あなたは?」
「あなたのご家族の、友人です。島で、悪い噂を聞き、あなたを保護するように生家から仰せつかりました」
マクシミリンは、心底嬉しそうに息を吐いた。
「間に合ってよかった。これも、ご加護の賜でしょう」
マクシミリアンが、手をさしのべる。まるで、この手を取ってくれというように。
モノは神官の顔を見上げた。
柔和そのものの笑みだ。こんな状況でなければ、このまま手を取っていたかもしれない。
「ここが、危険? この村が?」
「はい」
モノは周囲を見回した。長も、住民も、そして兄のネズミもじっとモノを見つめている。中には、怪我をしている人も多くいた。
モノは首を振った。
「そんなはずありません。私たちは、ずっと平和にやってきました。何かの間違いです」
「モノリス殿、それは、あなたがこの村の内側にいるからです。あなたはまだ子供だ。全てが見えているわけではない」
マクシミリアンは、まるで師のようだった。かき集めた反抗心をとろかす優しさが、笑顔にはあった。悪い人だとは、思えなかった。
「さぁ、こちらに」
モノは迷った。頭の中が、ぐるぐる回る。兄を名乗るネズミと、この神官。どちらも、モノを求めている。
(どっちかが、偽物? どっちかが、嘘を?)
考える材料がない。時間もない。兄を名乗るネズミから、もっと色々聞いておけば、こうも迷わなかったかもしれない。
人々の目が、モノに突き刺さっていた。
「ご心配なく、あなたが私と来ていただければ、村での略奪もなくなるでしょう」
「え?」
「それに、あなたがこの村の無罪を主張するなら、なおのこと、私達と来ていただきたい。あなたの口から、村の潔白の証を、述べればよろしい」
それが止めの一言だった。
人々の視線の質が変わる。少なくともモノはそう感じた。モノは神官の手を取ろうとしてしまう。けれど、伸ばした手は、途中で止まった。
(やっぱり、おかしいよ)
雨雲のように、この男に対する疑念が広がっていく。モノは自分が雰囲気にのまれていたことに気が付いた。
「その前に」
モノが言うと、神官は首を傾げた。
「あなた方には、幾らか、分からない点があります」
「といいますと」
「私は、文を受け取っています。大陸の、生家からです」
一瞬、間が生まれた。
「おお」
知っていますとも、とマクシミリアンは微笑した。
「確か、モノリス殿に迎えを寄越すと。でしょう?」
「はい。そこには、迎えを寄越すとありました」
「そうでしょうとも。はい、生家とは、密に連絡をとっております。ですが、状況が状況です。迎えを待っている余裕はありませんよ?」
違和感が強くなった。
モノの存在は、大陸では秘密のはずだった。島でも、長やオネ以外には『さる貴族』としか明かされていない。果たして、神官とはいえ、秘密を漏らすものだろうか。
「大陸の方が、ついさっき、滝の下で気を失っているのを助けました」
「なんと」
マクシミリンは、心底驚いたように見えた。けれど、彼の後ろでは仮面をかぶった数名が、体を揺らしていた。
「知ってました?」
マクシミリアンは沈黙した。
「傷には、毒が。人の仕業だと聞いています。この辺りの一族で、平和週間を破って人を攻撃するものが、あなた方以外にいるとは思えません」
仮面の一人が近づいてきて、大男の神官に耳打ちした。
モノはその時、マクシミリアンの目に冷たい輝きが宿るのを見た。獲物に忍び寄る獣の目。だがすぐに、柔和な笑顔が戻った。
「仮に、文を知っていたなら、なぜ無闇に大陸の人を傷つけたのです? 文にあった使者かもしれないのに」
「失礼。その事実は、初耳ですね」
マクシミリンは沈痛そうに首を振った。
「我々がやったとは、思いません。しかしそう思われるのも無理はない。事実、数日前から、我々はすでに戦の準備をしていました。気が立っていたものも、いたのかもしれませんから」
つまりは、事故だ、というわけだ。それが事実かもしれない。
大陸からの使者がモノと接触していた、という辺りは本当に予想外だったのだろう。
(これじゃ、逃げられる)
だから、モノは畳みかけた。
「もう一つ」
モノは重ねた。思い描くのは、弓だ。獲物が逃げそうな場所に、先回りして射る。
「その方は、先ほど目を覚ましました。私の兄からの言葉も、証のペンダントも持っています。大陸の生家からの、正式な使者なのです。あなた方についていく理由はありません」
言いながら、こうも思う。
(本当は、家族そのものを持ってきたんだけど)
そこまでは言わない。ネズミが兄の使いだというのは、説明も証明もきっと面倒になる。
この場では、広場のみんなを納得させられる話だけを出すべきだ。
徹底して事実を積み重ねれば、神官の立場は悪くなる。そうなれば、状況が変わるかもしれない。
モノ自身、こういう状況になっては「兄」を信用すべきか、迷うところだった。別の誰かが兄を驕っていたり、兄がモノを騙そうとしている可能性だってある。
でも、この神官よりはずっと信用できる。そう思える。
「痛ましいことです。では、その使者も、我々が保護しましょう。非道いことをしました……是非、後で会わせて下さい」
マクシミリアンは言う。
質が悪いのは、本当に申し訳なさそうに見えることだ。その上辺だけの態度が、気に入らなかった。
「もう、やめたらいかがですか」
モノは腕を組んで、身を反らした。もう怖くないぞ、とでも言うように。
「私、あなたのことは分かりました」
「ほう?」
「あなたは、なぜそんなに笑っていられるのですか」
マクシミリアンが、首を傾げた。
「人が亡くなったのに」
「というと?」
「あなたは偽物です。神官とは、祈る人だと聞きました。ならなぜ、死を悼まないのですか」
マクシミリアンが、きょとんとした。
ちょっと視線を彷徨わせてから、改めてモノを見つめる。まるで、そこで初めてモノを見つけたみたいだった。
モノはちょっとだけ怖気づいたが、くじけずにマクシミリアンを見返した。
「はっはぁ! なるほど!」
大笑する。ぞっとするほどの大笑いだった。
「……あなたは、気高い方だ」
すがすがしい笑顔で、マクシミリアンは額を押さえた。
白狼族の長が、囁く。
「いかがされます」
「仕方ないでしょう。少々侮っていたようです。方程式の解き方は幼稚ですが、解そのものは合っています。これは、誤魔化せない」
白狼族の戦士が、動いた。
「残念ながら、私は正真正銘の神官ですよ。願わくば、あなたが証拠を体感しないことを」
マクシミリアンが手を振ると、仮面の男達が進み出た。飛びかかってくる。
モノはきゅっと唇を結んだ。短剣を抜き、威嚇する。
「やっぱり! こんなことだと思ったよ」
さっと仮面の男達が退く。けれど、彼らはじりじりと近寄ってきた。
戦いを覚悟した時、猛獣のうなり声が響きわたった。
「サンティ!」
モノは友達の名を呼んだ。
どすん、と広場の中心に巨体の虎が降り立つ。
黒と夕日色の縞模様。琥珀色の瞳には、敵意が燃える。ぐっと身を屈めると、全身の筋肉が盛り上がった。
「剣歯虎か」
マクシミリアンが、息を吐いた。
ずっと一緒に狩りをしてきた仲間だった。
心強い。でも、どうしてか同じくらい悪い予感がした。マクシミリアンの余裕がひどく不気味だ。
「珍しい! この島には残っているのですねぇ」
サンティが後ろ足で立って、爪を振るう。体重を乗せた猛烈な一撃だ。
白狼族が吹き飛ばされる。腕が変な方向に曲がっていた。サンティの猛攻は続く。白狼族は次々と吹き飛ばされる。
「全員、離れろ!」
長が言うまでもなく、広場は恐慌状態だった。
モノは立ち上がる。砲火で生まれた炎を一瞥する。そして祈った。けれど、
(だめだ)
オネのように、火を操ることはできなかった。モノは、まだ精霊を得ていない。亜人の秘術を使うためには、モノに力を貸してくれる精霊が必要なのだ。
「マクシミリアン殿、後ろに!」
槍を持った男が、唯一、攻撃を受け止めた。獣の耳がない男だった。
けれど、神官は従わない。何度か、錫杖を揺らす。その時の音を、モノは一生忘れないだろう。
轟音。
一瞬、縮れた光がサンティを貫いた。虎が体を大きくのけぞらせる。
ひどい臭いがした。毛と肉が焼ける臭い。
「サンティ!」
下がって、とモノは言おうとした。
サンティは下がらなかった。モノを守るように、マクシミリアンとの間に立ちふさがる。
――グォォ。
うなり声で威嚇する。
マクシミリアンは笑みを深めて、錫杖を揺らした。
再び、光がサンティに着弾する。空気が揺れる。音が腹に響くほどだ。
(雷……!)
あの錫杖が雷を生みだし、モノの友達を撃ったのだった。
「やめて!」
モノは叫んだ。その隙に手を掴まれて、拘束されてしまう。
サンティはもう動かなくなった。
「奇跡、と我々は呼んでいます」
マクシミリアンは言った。
「この世界に、魔力――マナの使い方は三つあります。精霊術、魔術、そして神官の奇跡。三つの中で、奇跡は、最も強力といわれています」
マクシミリアンは錫杖を揺らした。
涼しげな金属音。
彼の背後には大砲があり、白狼族がずらりと控えていた。モノは信じられない気持ちで、侵略者たちを呆然と見返した。
「奇跡は、信徒が多いほど強くなる。勝ち目があると、思いましたか?」
途方もない怒りがモノの体をばらばらにしてしまいそうだった。
「サンティ」
虎の大きな体は、ぴくりとも動かない。しびれて動けないのだ。雷に撃たれたのだ。それも、何度も。
ついさっきまで、一緒に密林を駆けまわっていたというのに。
きれいな瞳も、モノを押さえつけた大きな手も、まるで別のもののように見える。死にかけ、動かない動物は、それだけで小さく見えるのだ。
「さて、トドメを」
マクシミリアンの雷が放たれる瞬間、モノは力の限り暴れた。腕に噛みついて、拘束を抜け出す。
モノは体を投げ出して、サンティを庇った。
鞭で打たれるような衝撃。胸の辺りで、何かが弾ける。モノは猛烈な吐き気と眩暈を感じて、サンティの隣にへたり込んだ。
「自分から当たりに来るとは」
マクシミリアンが感嘆する。白狼族の長が進み出た。
「虎に止めを刺せ。娘は、連れて行け」
「待ちな」
火の蝶がモノとサンティを囲った。耳と視線だけを動かすと、オネの姿が見える。彼女の足下には、オットーのネズミがいた。
(オネを呼んでくれたんだ)
「彼女は、連れて行きます。でなければ、村全体を破壊します」
マクシミリアンが言う。オネは首を振った。諦めたように。
「せめて、待ってくれないか」
「なにをです?」
「休ませてやりたい」
マクシミリアンは苦笑した。
「その理由がありませんね」
「じゃ、これはどうだい」
周囲で、無数の火の蝶が飛び上がった。火の蝶は、先ほど、大砲で破壊された家から生まれていた。
火が多いところでは、火の精霊は力を増す。
「抵抗しますか」
「せめて、今日はやめてくれ」
オネは言った。モノ達の、山猫族の長も同調する。
「……今日は、彼女の一五歳の誕生日。成人日なのだ」
別れを告げる時間がほしい。せめて、明日までは。
そういう願いだった。
マクシミリアンは無言である。モノは、段々、視界が暗くなっていくのを感じた。耳がきーんと鳴っている。
(雷のせい?)
力が出ずに、モノはサンティに寄りかかっている。獣の匂いだ。でもモノの耳は、友達の心臓の音がどんどん弱まっているのを聞き取ってしまう。
(助からないよ……! サンティ……!)
「いいだろう」
白狼族の長が言った。
「長」
「ここは、待ちましょう、マクシミリアン殿。どうせ逃げられはせぬのだから」
長は言った。
「止めを刺すのだ、ラシャ」
槍を持った男が、槍の柄でモノをサンティから引きはがした。そして、彼は無言でサンティに槍を突き込んだ。
モノは仰向けに倒れたまま、仮面を被った男を見上げる。
血の臭い。
ラシャ。その名が、心に染み込んだ。彼はさっき家の前で戦った、あの槍の男だ。
「分かりました。ただくれぐれも、余計なことはしないように。元々、余所者なのですからね」
神官の言葉を最後に、モノは気を失った。
最後の力を振り絞って、モノはサンティのために祈った。暗闇の中に、サンティの声と、水の音が聞こえた気がした。