4-19:宮廷で朝食を
夢の中で、モノはまだ一人の幼子だった。
夢特有の浮遊感で足を進めれば、体が弾む。情景は、生まれ育った魔の島の村だった。慣れ親しんだ広場に、少しずつ増やしていった部屋の飾り。どこか郷愁を誘うものを見ながら、踏み出すと、体が浮き上がった。
一歩踏めば、村を見下ろせるほど大きく跳んだ。二歩目で、島全体を見下ろせた。三歩目で、海を遠く渡り、大きな陸地へやってきた。
途中、モノは巨大な壁に阻まれる。けれど、気にならない。目に見えない力がモノの背中を押してくれて、壁をあっさりと飛び越えた。
(ここは)
モノはいつの間にか、十五歳の娘に成長していた。
華やかな都の中で立ち、歩いてきた道を振り返る。
短い間に、ずいぶんと遠くへやってきた。そんな気がした。
――モノ。
ふと、南から声がした。続いて感じたのは、熱風だ。灼けるように熱い風が、猛烈な勢いでモノへ吹きつけてきた。
――選ばなければいけません。
しゃらん、と金属音。錫杖の音だ。
――亜人か、ゲール人か。両方の道を歩むことは、たやすいことではないのです。
モノは息をのむ。陽の光に満ちた、のどかな村の光景。絢爛豪華な輝きを放つ、宮廷。二つが溶け合い、モノの周りでぐるぐると回っていく。
猫耳が動いて、周囲の音を拾った。聞こえたのは、確かに悲鳴だった。
――それが、あなたが責任をもって支払うべき、代償なのです。
飛び起きた。
手を突いた時の柔らかさで、ここがベッドの上なのだと知った。荒い息で、汗がびっしょりだった。
「モノ?」
脇に置いたかごの中から、オットーのネズミが鼻を出した。
ネズミの体に魂を宿した兄は、寝ずの番だった。なにせ、ここは宮廷。色々な意味で、敵の本拠地なのだ。
「うなされていたよ。大丈夫かい?」
胸がぎゅうっと締め付けられて、モノはオットーを手に取った。ネズミの毛はごわごわして、ちくちくする。けれども、生き物のぬくもりがモノには必要だった。
考えてみれば、島を出てからというもの、生きた動物を触ったことはほとんどない。
呼吸を落ち着けてから、モノは口を開いた。
「夢でした。変な、すごく、変な」
「夢?」
「はい。島とか、今までの旅とか」
モノはオットーを胸に抱き、紫色のトサカをなでた。
「悲鳴も、聞こえてきて」
「怖い夢かい?」
モノは頷いた。
今までずっと、前ばかり見て進んできた。でもモノは、自分が歩いてきた道が、想像もできないほど大きな変化を呼ぶもので、多くの人を巻き込んでいて、しかも後戻りができないものだということを、今更に実感した。
育った村の光景にも、モノは『戻りたい』ではなく、『懐かしい』と思った。いつか帰れる場所としてではなく、思い出の中の場所として。
モノの心も、否応なく変わっているのだ。
「不安を抱え込むことはない。環境が変わったのだし、当然だよ」
オットーは言ってくれた。モノの猫耳も、静かな寝息を立てる家族の存在を、感じ取る。
猫の夜目には、隣のベッドで眠る長女と次女の姿が見えていた。自分にこんなにたくさんの家族がいたということさえ、少し前は知らなかった。
「フランも、君がよくやったと驚いてた」
モノは、オットーがフランシスカをフランと呼んだことに気づいた。
目を丸くした。
「……ふ、フラン?」
「あ、こう呼ぶと本人は怒るんだ」
堅苦しくて厳しい次女の、昔の姿が思い浮かんだ気がした。モノはなんだかおかしくて、笑ってしまった。
「ごほん。とにかく、何か変な予感を感じたり、声を聞いたら、これからもすぐに教えて欲しいな」
枕に背を預けたモノへ、オットーは続けた。
「はいっ」
「ここは、帝国の中心だ。君がずっと聞いていたという声の主も、ここにいるとするなら、大陸に残った精霊術師の中心地でもある」
モノは歴史を思い出して、頷く。
異民族として閉め出された亜人だが、ごく僅かな生き残りが、帝都の地下に隠れているのだ。
「君が夢を見たのも、本当にそのせいかもしれないよ。土地が、精霊術師に特別な作用をもたらしても、不思議じゃない」
「土地が?」
「ああ。そもそもゲール人と亜人が土地を奪い合ったのも、ここ、帝都ヴィエナの場所が特別だと感じていたからだ」
聖ゲール帝国と亜人は、何十年も前から土地を巡って争っている。今まさに、南でも同じ理由で戦いが起きていた。
「ああ、もうっ」
モノは声を出し、首を振った。
「こんな時に後ろ向きじゃ、ダメですよね」
「君は精霊術師として、なんというか、とても感じやすいのは確かだ。地下から声が聞こえたというし……心を強く持つに越したことはない」
「に。寝ます」
モノは応えて、オットーを離し、再びベッドへ潜り込んだ。
修道院のベッドとは異なり、宮廷のベッドは大きく、柔らかい。雲の上で寝ているみたいだった。
(宮廷は、このベッドだけはいいかも)
モノ達は、宮廷で拘留されていた。なぜ帰らないのかと不思議に思ったが、姉達に言わせれば、これは体のよい人質ということだった。
長兄アクセルは、今まさに大軍を抱えている。南に向かわせた援軍の中にも、アクセルを仰ぐ者が多い。
長兄が反乱することを警戒し、家族を目の届くところへ置いておこうというわけだ。
(南は、大丈夫かな)
代償がないものは、ありません。
寝ると言ったものの、その言葉が胸に残って、モノはなかなか寝付くことができなかった。
◆
「……ええ?」
モノはあんぐりと口を開けて、テーブルの料理を眺めた。
今日は薄い緑を基調とした、簡単なドレスである。褐色肌と銀髪の上で、猫耳が驚きに前を向く。ダークグリーンの瞳がぱちくりし、残った眠気も吹き飛んだ。
眠気眼をこすって起きてから、まだ一刻ほどである。広い部屋で運動をして、気晴らしに家令のヘルマンから道具を借りて短剣を研いだ。宮廷の部屋で狩り装具を手入れする公女に、フランシスカは何か言いたげだったが。
そして朝食を取る部屋へ行ったら、あまりに多すぎる料理が待ち構えていた。
「どこに、こんなにあったの?」
子牛を一頭丸ごと使ったという料理は、ふんだんな香辛料とソースの匂いで、食欲をこれでもかと刺激してくる。
亜人のいる南で取れる香辛料が、ここではちゃっかりと登場していた。
甘い匂いは、リンゴだろう。
「宮廷の料理とは、多めに作るのが常だよ。でもこれは……たぶん、誰かが気を回したんだと思う」
オットーが、小物入れの中から黒々とした鼻を出した。
大きな机にデンと乗ったボリュームは言うに及ばず、周囲を固める小皿にも凝った料理が載っていた。透明な塊の中に、肉の切り身が入った料理や、いい匂いのするふわふわのパン。
注がれるのを待つ葡萄酒は、美味しそうすぎていっそ置物のようだった。
(お酒があるよ……)
亜人の鼻は、酒精を嗅ぎとっていた。遅めとはいえ、まだ朝食の時間のはずだ。
「すべて、私達のためのものでしょうね」
フランシスカはうろんげな眼差しで、錫杖を地面に突いた。
「宮廷料理とは、こういうものです。聖教府の人間への配慮も、していただきたいところですが」
モノは、ごくりとつばを飲み込んだ。
サザンや帝都の隠れ場所でも、食事に困ったことはない。でも、この料理は格が違った。
「こんなに、誰が食べるの?」
「我々だけです」
モノは、目の前の料理をイザベラやフランシスカが次々と口に放り込んでいく様子を想像し、震えた。
(……絶対、余るよね)
ぶんぶん首を振って、モノは腕を組んでいた。
今更ながら、帝都の貴族の暮らしが分かった気がした。怒る人がいるのも、納得だった。
「どうぞ、公女様」
ヘルマンが椅子を引いてくれた。
複雑な気持ちだったが、口に料理を入れると、初めての味が広がり、さっとほどけた。
「お、美味しい……」
喉が喜ぶ。プルプルしたものの中に肉が閉じ込められていて、噛むと味が広がるのだ。ヘルマンの説明によれば、肉は豚のもも肉らしい。
「周りの、水みたいなのはなに?」
「公女様、それは一種のゼリーです」
「ゼリー?」
「食材から、透明なアクのようなものを抽出して作ります」
一つ食べて美味しいと、また別の物を選びたくなる。
戦っている兄のことや、見てきた貧民街のことを思うと、なんだか後ろめたい。しかし食欲と好奇心が勝った。
「お、恐るべし……」
もぐもぐ食べて、甘いお茶をたくさん飲んだ。
「公女様。一応、毒味はさせていますが、食べ過ぎない方がよろしいかと……」
テーブルの大皿には魔術も使われているらしい。火もないのに湯気が立ち、一向に冷める気配はなかった。
「昨日会った誰かが、気を回したのでしょうね」
イザベラはハムを一つつまんで、苦笑した。男装の長女は、商人らしく朝に強い様子だ。
「亜人は肉ばかり食べると思われてるのかも」
「ああ、なるほど」
モノは納得した。確かに島では、午前中から肉が出た。
密林は天然の食料庫のようなもので、前日の狩りで得た肉が、翌日の朝食になるのは珍しいことではない。
「昨日は、実に大変でしたしね。面会した人の誰かが、この料理を手配したのでしょう」
肉食を拒むフランシスカは、一人野菜を食べていた。
モノも昨晩を思い出して、苦笑してしまう。
「あれは、ちょっとびっくりしました」
モノ達の起床が遅れたのは、寝る直前まで来客の対応に追われていたからだ。
次々とモノへ面通しをする人がやってきた。宮廷に残ることが義務づけられていたので、拒むこともできない。
ほとんどが貴族であり、中には宮廷へ出入りを許された商人や、詩人もいた。数は少ないが、神官もいた。
モノはそこで、皇帝へ公に面会した意味をようやく悟った。
帝国で一番偉い人が、亜人の公女を認めた。だから多くの人が、新しい流行に少しでも早く乗ろうとしたというわけだった。謁見は、絶好の宣伝になったのだ。
「でも、さすがに量は多すぎます」
モノは早くもお腹が苦しくなってきた。ふわふわのパンは甘いくせに、以外とお腹に溜まる。
「甘いわね。夜だと、コースになってこれが三回来るのよ」
イザベラの言葉に、モノは遠い目をした。宮廷の文化は、ただ生きるために食べてきたモノの想像を超えている。
「不作のはずでは」
「だからこれ、余ったやつを払い下げたらいいと思うのよねぇ。多めに作らないわけにはいかないのだし」
イザベラが商人らしく指摘する。とはいえ、雑談をしている時間も、あまりなかった。
一人先に食事を終えたフランシスカが、まず口を拭いた。
「さて。食事をしながらでも、早めに今日の方針を決めましょう」
ヘルマンが動いた。給仕用のエプロンを外し、部屋の様子を改める。
オットーのネズミも目を光らせて、音の魔術を展開させた。話し声が外に漏れないようにするためである。
「わたし達には、調べなければならないところがたくさんあります。南の戦況も心配ですが、まずは宮廷で調べることも多い」
フランシスカは指を一つ立てた。
「特に、この地下にいる亜人のこと」
モノは夢を思い出し、体を硬くさせた。
「……モノリス?」
「な、なんでもありません」
そうですか、とフランシスカは首を傾げた。
「聖教府が数十年、地下にかくまってきた亜人達です。彼らのすぐ上にいるのに、接触する手段も、その正体も分からないというのでは、後手に回ってしまうでしょう」
マクシミリアンの進軍により、地下の亜人は喫緊の課題となっている。
(マクシミリアン神官……)
亜人達を指揮し、大陸を荒らし回っている神官。彼は、地下の亜人達と同じ『亜人学派』を名乗っている。一直線に帝都を目指す動きといい、帝都地下に潜む亜人との関係を疑うのは、自然なことだった。
「……お姉様、お兄様」
モノは食器を置いた。
「いっそ宮廷の誰かにそのことを知らせて、大々的に探してもらうというのは」
「ちょっ……」
これには、家族全員が慌てた。
「私も同じことを考えたわ」
真っ先に同調したのは、イザベラだった。だが長女も、難しい顔である。
「でもね。これって、聖教府と帝国が、何十年も人々に『嘘』をついてたって話になっちゃうのよね」
「実際、そうじゃないですか」
「博打はいいのだけどね」
フランシスカも、口を挟んだ。
「二人とも、冷静に。まず、真実を話せば大変な混乱になります。聖教府と貴族、帝国を治めていたありとあらゆるものの権威が地に落ちますから」
フランシスカの指摘に、モノも冷静に考えてみた。
帝都はやっと亜人を受け容れ始めたばかりなのだ。自分たちの足下に、ずっと亜人が隠れ住んでいたという情報は、確かに大混乱を起こすだろう。
「状況を、刺激するべきではありません」
「いや、いい案だとは思う」
オットーが皿の間から顔を出した。
「いつかはやるべきだ。政治的な話になるけど……明かし方を考えておかないと、フリューゲル家も悪者になる。弱点になるくらいなら、公にしてしまう方がいい」
ネズミは両手でビスケットを持って、驚きの行儀のよさで食べていた。
「今すぐやるのは、僕も早急だと思うけどね。アクセル兄さんの戦況次第だけど、明かす準備だけはしておいた方がいい」
「ふむ。具体的には?」
「ロッソウ大臣や、聖教府には話を通しておくべきだろう。でかい話は、段階的にやるんだ」
猫耳で話を拾いながら、モノは唇に指を当てた。
「ええっと。そうなると、今は家族だけでこの宮廷を探し回らないといけないんですね」
宮廷の外にある文献や史跡については、サザンでも、帝都でも、あらかた当たり尽くした後だった。
(他に、探せる場所があるかな?)
ちょっと考えてみる。
宮廷は広い。闇雲に探しては、効率も悪い。
「そもそも、公女シモーネ・モノリス。皇帝陛下はあなたになんと?」
「いつか向こうから――地下の亜人の方から、接触してくると言っていました」
「曖昧ね。皇帝と面会した聖堂は、調べる価値がありそうだわ」
イザベラは豊かな銀髪をいじる。
「……情報がない限り、いつまでも先手を打たれ続けるわ。マクシミリアンは、たぶん、私達よりも地下の亜人のことを知ってる」
「そうですね。少なくとも、知った時期は私達よりもずっと早いでしょうから」
会話に、不気味な沈黙がやってきた。食器がふれあう音だけが続く。
「なら!」
モノは立ち上がった。
「悩んでいても、仕方がありません。手分けして情報を探しましょう」
末っ子の提案に、フランシスカが額に手を当てた。
「結局、総当たり。ふむ、そういうことになりますか……」
「イザベラお姉さまは、帳簿とか、商いとか。フランシスカお姉さまは、宮廷の聖堂について調べられますよね」
闇雲に探すのではなく、家族の得意分野に絞って探すのだ。
「私とお兄様は、宮廷で精霊術について調べます」
それと、とモノは付け足した。
「テオドールと、彼の仲間にも手伝ってもらいましょう。地下の亜人へ続く道が、見つかるかもしれません」
「少し、いいかな」
オットーが小さな手を上げた。
「調査するとしたら、図書館も有効だよ。宮廷の図書館は、資料、文献の宝庫だ。新しい発見があるかもしれない」
モノは目を輝かせる。
生まれた島にも、本はあった。大陸の物語を読むことで、モノはゲール人の言葉を学んだのだ。
(図書館……!)
忙しく動き始めた猫耳に、フランシスカが難しい顔をした。
「あそこは、王族専用です。皇帝陛下、あるいは親族からの特権が必要です」
「んにっ……」
「あら」
イザベラが、艶然とした笑みで引き取った。
「じゃ、問題ないじゃない」
「え?」
「モノ、あなたに協力してくれそうな王族が、一人いると思うけど」
そんな人なんて、思い浮かびはしなかった。
「……地下の亜人について、知っている人ですよね?」
「もちろん」
しばらく考えていると、オットーが助け船を出した。
「王太子、マティアス殿下か」
モノはびっくりした。
「……た、確かに、地下の亜人のことは知っていると思いますけど」
モノは何度か会ったことを思い出す。
だんだんと陰鬱な気持ちになってきた。苦い思いをごまかそうとして、甘いお茶を飲む。
「私、嫌われてると思います。目が合ったら、逸らしてくるし」
モノにとっては、彼こそ亜人を怖がる貴族の象徴だった。敵意や嫌悪が面と向かってこないだけ、かえって取り付く島もない。願いを聞いてもらえるとは、思えなかった。
「そう? 姉の勘じゃ、そうでもないと思うけど」
イザベラは意味深げに笑い、絵になる仕草でカップを傾けた。




