4-18:物言わぬ丘
「ここまでですね」
マクシミリアンは、敗北を認めた。
大勢は決していた。
丘からは、騎兵団が銀の波濤となって駆け下りてくる。聖ゲール帝国の主力として、貴族の子弟で多くが占められた重装槍兵だった。彼らが投入されたということは、戦場が攻守の分岐点を迎えたということだ。
多くの亜人が、槍に突き倒され、重装甲の馬に撥ね飛ばされる。方陣による決死の防御も、いつまで保つか分からない。
地上が地獄なら、空も地獄だった。
穢れた精霊が、漆黒の雲を吐いている。それらを、次々と神官の奇跡による雷が襲っていく。人智を超えた光と闇の対照は、まるで神話の世界だった。
「どうする」
大鷹族の族長が、マクシミリアンに判断を仰いできた。
「まずは、戻りましょう」
陣地にも、流れ矢が飛んでくるようになっていた。
天幕に戻っても、マクシミリアンに常の微笑が戻ることはなかった。すでに各氏族の長達は、集まっていた。
「残念ですが、我々は間に合わなかった。公女の手の方が、我々よりも早かった」
マクシミリアンは、そう切り出した。
無傷の者は、ほとんどいない。これ以上は無理だと、誰もが眼で訴えていた。
「……父君が、泣いておるわ」
ぽつりと、数名が漏らす。膝をついて、地面に額を付ける氏族もある。
亜人学派には、年配者も多い。彼らにとっては最後の戦争になる。それは、大陸の暮らしを覚えている亜人の最後の世代が、現役から去るということだった。
「敗戦の責めは、誰が負う!」
一部の氏族は、声を荒げる。
「我々は最後まで戦うぞ。渡り鳥は、その見事な尾羽のままに死ぬというではないか」
殺気立つ議論を、大鷹族がいさめた。
「若いの。今は、神官殿の言葉を聞け」
マクシミリアンは静かに首肯した。錫杖を鳴らし、語りかける。
「方針は、撤退とすべきです」
マクシミリアンは言った。
静寂がやってくる。外の戦況が、音となって亜人達の耳を打ち始めた。
三千の軍は、押し寄せるゲール人に、じりじりと削り取られている。大鷹族の騎兵と、解き放った穢れた精霊が、敵の攻撃をかろうじて分散させていた。
「それしか、あるまい」
大鷹族は頷く。好戦的な氏族の意外な物わかりに、議場がざわめいた。
次々と賛同する氏族が現れ、撤退は多数派による既成事実となった。
「逃げるとすれば」
牙猪族が言った。大柄な体を揺らして、装束の金具をじゃらじゃらと鳴らした。
「以前分捕った、中州の砦がいいでしょう」
「うむ。確かにあそこであれば、しばらくは籠城できる」
「だがな」
今まで黙っていた氏族が、口を挟んだ。亜人公女と同じ、山猫族だ。
「そのための時間をどう稼ぐ?」
長達が、目配せを交わし合った。
犠牲が要る。
亜人を逃がすため、最後の遅滞戦闘をする部隊が必要だ。生還の可能性は、もちろん低い。
「分かっております。時間を稼ぐ必要がありますね」
神官が合図を出すと、悪臭を放つ箱が運び込まれてくる。地面においた後も、誰も手で触れていないのに、時折ガタガタと揺れた。
「これだけあれば、十分でしょう。煙幕代わりに使えるのは、実験済みですから」
木箱の中身は、穢れた精霊だ。真っ黒いもやを吐き出し、怨念のままに荒れ狂う、災害のような存在だった。
怨嗟に満ちた声が、耳を澄ませば聞こえてくる。
――オオオ。
不吉な音は、亜人達をも恐れさせた。
「相変わらず、なんとも不気味なものだのう」
大陸から亜人がいなくなった。そのため、精霊を呼び出す存在がいなくなり、水のように循環していたマナの流れが滞った。
よどんだ水は、腐り、沼地のようになる。
穢れた精霊とは、あまりにも長い間、亜人に呼び出されなかった精霊達のなれの果てだ。
「聖教府の奇跡と、特殊な手順で、今は封じられています。この場で暴れさせるだけなら、難しいことはありません。ただし……」
遠くへ行かせるのなら、精霊術師に憑依させる必要がありますが。
マクシミリアンがそう付け足すと、部屋の隅で震えていた精霊術が、ひっと息をのんだ。彼らは仲間が、穢れた精霊の依り代になった瞬間を目撃している。
「煙幕、だけか」
好戦的な氏族は、吐き捨てた。顔にも体にも、無数の傷が刻まれている。
「我々を導いたのは誰だ」
「この戦いを、言い出したのは誰だ」
誰だ、誰だ、という声が続く。
「確かに」
マクシミリアンは初めて笑った。錫杖を地面に突くと、金属がさわやかな音を立てる。
「もちろん、わたしも手勢と共に残ります。皆さんの願うとおり、責任を取るつもりですよ」
この発言には、驚いた者も多かった。
「神官殿が、残るというのか?」
動じなかったのは、大鷹族を始め、神官に近しいごく僅かな氏族のみだった。
「どの道、私はすでに命を差し出した身です。私の身柄があれば、まずは満足し、兵を引く貴族も多いでしょう」
マクシミリアンは天幕の出口へ近づく。死地へ向かう背中は、殉教の気高さだ。
宣教の旅のための外套を、羽織る。頭に神官の帽子を付けると、最後の説法を始めた。
「さぁ、祈ってください。あなた方に秘蹟を授けられるのは、きっと最後になるでしょうから」
マクシミリアンは言った。
「あなた達の祖先も、精霊も、光の神にも。祈りは等しく届きます」
亜人達は天幕の中で、祈りを捧げた。
マクシミリアンは目を閉じて、祈りを享受する。奇跡の使い手として、信徒の心の力を――マナを引き受けた形だった。
「では、参りましょう」
「お待ちを!」
天幕の入り口から、若い声が議事に乱入した。極彩色の仮面を外し、現れたのはまだ若い顔つきだった。
「ラシャ」
「神官、どういうことです! あなたは、ここで死ぬつもりですか」
侵入者に、場が再び殺気立つ。
マクシミリアンは、微笑でラシャの肩に手を置いた。
「これでいいのですよ」
「……どういう、ことです」
マクシミリアンは、ラシャの質問には応えなかった。
撤退の準備が始まる。方陣が崩れ、亜人学派は初めての敗北を喫しようとしていた。
「マクシミリアン殿!」
最後まで声を張っていたのは、やはり白狼族のラシャだった。
「ラシャ!」
仲間が止めても、ラシャは聞かなかった。撤退する部隊を抜け出して、元いた陣地へ戻ろうとする。マクシミリアンからも、彼の様子は見えた。
「さぁ、始めましょう」
亜人学派が陣地に残した穢れた精霊が、一斉に解放される。汚染の中に、神官の姿は飲まれて消える。
白狼族のラシャの声が、丘陵にいつまでも響いていた。
◆
すべては、終わった。
日は傾いている。アクセルは長く息を吐いて、激戦の終わりを視界に納めた。
都市グラーツの周りには、物言わぬ戦士の亡骸が、無数に転がっていた。三千人同士の軍隊が、まともにぶつかったのだ。血の臭いは消えず、残された武具と死体が夕日に赤く染まっている。
アクセルは、ひどい空しさを覚える。
公女は、亜人とゲール人が、共存することを願う。
だが二つの種族の間に横たわっているのは、いつだってこの現実だ。
アクセルは馬の足を緩めた。自ら馬を降りて、地面に横たわる騎士を改める。すでに事切れていた。
「閣下!」
部下の一人が、戦線の遙か彼方から戻ってきた。
暮れなずむ平原には、すでに鳥が集まっている。じきにグラーツへ使いを出して、聖教府の作法で死体の安息を願うようにしなければならない。
(亜人にも、そうすべきか)
公女モノリスと、大鷹族のギギという二人の精霊術師がいる。死別の作法は、心得ているだろう。
「どうだった?」
アクセルの問いに、戻ってきた騎士は首を振った。
「やはり西には、何もありませんな」
生存者と残敵の捜索は、いわば戦士の残業だった。
夜には、帝都からの増援との間で、指揮権に関する折衝があるだろう。その前に、アクセルは自ら戦場を見回っておくことにしていた。
部隊は、亜人学派が引き払った陣地にさしかかっていた。
「ここからは、特に気をつけろ」
アクセルは、部下に厳命した。
「何か仕掛けを残しているかもしれん」
「罠があると?」
「うむ。敵の撤退方法も、気になるのだ」
戦いが終わる直前、亜人学派の陣地から黒いもやが噴出した。もやは亜人学派の撤退を隠し、ゲール人の前進を阻んだ。
結局、またアクセルは神官の奇跡を恃んだ。奇跡は大勢の信徒の祈りにより、雷を落とし、黒いもやを次々と打ち砕いた。
だがそもそも、戦いの直前まで、奇跡は使用不可能だったのだ。マクシミリアンは、奇跡を無効にする仕掛けをしておいたはずだ。なぜ突然、もう一度奇跡を使えるようになったのだろう。
「アクセル殿!」
遠くへ行っていた、別の騎兵もやってきた。
アクセルは小柄な人物を見つけて、苦り切った顔をした。騎士用の兜で顔を隠しているが、身長が明らかに小さいのだ。
「ギギ、お前は残っていろ言ったはずだが」
兜の面頬を上げると、鋭い目つきが現れた。
「ここはゲール人が多い」
「私は、公女の味方よ」
「そうだが……」
今、亜人の娘が見つかれば、何をされるかわからない。アクセルは説明しようとして、首を振った。
物悲しい現実は、もうたくさんだった。
「あっちを見てきたよ」
「そうか……誰か、いたか?」
ギギは首を振った。
「敵は、残っていないよ」
ギギは口を結んだ。俯いていて、表情は見えない。それでも、氏族の死体があるかもしれない戦場に出てくるのは、見事な覚悟だった。
「ここからは、亜人学派の陣地か」
ギギは、夕焼けに対して、眩しそうに眼を細める。鷹の目の視力を活かして、おおざっぱに全体を把握しているようだった。
「……あなたは穢れた精霊を、見た?」
ギギは周囲を警戒しながら、話した。
「ああ」
「おかしいと、思わない?」
「うむ、同感だ。奇跡で、退治された。だがまるで……何かに吸い込まれるようにして、消えたようにも見えたな」
ギギは頷く。
そもそも、精霊術の原理や、正体も不明なのだ。分析も限られる。
(だが……)
警戒を続けていると、遠くでぱっと鳥が飛び上がった。地面にいた鳥が、何かに驚いて夕焼けに飛び去っていくのだ。
「見に行くぞ」
アクセルは死体と武具が散乱する丘を、駆けた。
問題の場所には、ひときわ死体の数が多かった。まるで何かを、必死に守ろうとしているかのように、亜人の死体が折り重なっている。白狼族と思われる、極彩色の仮面を被った死体もあるようだった。
「これって」
極彩色の仮面に、ギギが息を呑んだ。
身軽に下馬して、何かを拾う。
「これも!」
アクセルは、目を見張った。それは、神官が身につける錫杖だった。
地面に倒れていた死体の一つが、身じろぎしたように思う。ひときわ、体の大きな死体だ。
(いや)
死体ではない。
この大男は、生きている。それも、肌の色から察するに、ゲール人だった。
ギギが反射的に腰から短刀を抜いた。瀕死の相手を前にしているというのに、ギギの方が精神的に追い詰められていた。
「お、お前はっ」
男が、気づいた。微かに目を開け、笑ったようだった。
「神官、ライレーン・マクシミリアンか?」
言いかけたとき、馬が駆けてくる音がした。
残敵を掃討していた他の部隊が、アクセルの元へ続々と集まってくる。
「フリューゲル公子アクセル殿、何か見つけましたか」
緑地に一角獣は、すでに戦死したシュヴァイク伯の騎士団だった。
「あ、ああ」
アクセルは、迷った。
目の前の神官は、瀕死だった。敗戦に怒った亜人達に置き去りにされたのか、それとも何らかの策略があるのかわからない。いずれにしても、この男は危険だった。
(今ならば)
腰にはいた剣に、手が伸びる。
騎士にあるまじき誘惑だった。だが自ら手を汚す覚悟が求められるのも、現実だ。今まさにアクセルは、仲間の死体の上に立っているのだから。
「アクセル殿?」
ギギも、殺気に気づいたらしい。
アクセルは逡巡する。この男には、真実を話させる価値がある。だが本能が危険を告げている――。
「やむなし」
決断しかけたとき、遠くから馬蹄の音が響いてきた。
はためく黒星の旗。後ろには常備軍を初めとした、聖教府の部隊がそろっていた。
「お待ちを!」
黒星騎兵は大挙してやってくると、アクセルとマクシミリアンの間を遮る。
「特徴が一致しています。この男が、亜人学派の扇動者……マクシミリアン神官の可能性が、高いですな」
彼らはマクシミリアンを掴みあげた。
「さすが、閣下は目がいい。重罪人として帝都での裁判に引き出しましょうぞ」
聖教府の騎士は、面頬をぐいと上げ、力強く笑う。
戦で言えば、大将を捕虜にしたに等しい。集まった面々は、快哉を上げる。
アクセルは頷き、剣の柄から手を離さざるをえなかった。総大将、そしてフリューゲル家の名を背負っている以上、公に最重要の捕虜を斬ることはできない。




