4-17:炎と風
「難問だ」
フリューゲル公子アクセルは、決断を迫られた。
亜人学派の騎兵が、土煙を巻き上げながら友軍のいる丘へ向かっていく。
その一方で、厄介なのは穢れた精霊だ。どす黒いもやは、アクセルのいる城壁へと突き進んでくる。
味方の救援と、自身の防備。
どちらを優先とするか、早急に選択しなければならない。
「穢れた精霊を、こう使ったか」
アクセルは唸った。
黒々としたもやは、こうしている間にも城壁に近づいてくる。
(煙幕も兼ねているというわけだな)
目をこらしても、もやの先は見通せない。発生源は、馬に括り付けられた、一人の人間のはずだった。けれど、人間の姿はとうにもやの中に紛れていた。
探すのは、難儀するはずだ。
「風下か」
アクセルは赤髪をかき上げた。
「いかんな。風が、もやを広げておる」
舌を巻く思いだった。
アクセルは頭の中で、三角形の問題に取り組んだ。自身の位置、丘の友軍、そして敵の布陣。三つの頂点がどう移動するかで、今後の戦局は変わってくるだろう。
「うかつに入ると、もやの中で遭難しますな」
部下の言葉に、アクセルは頷いた。
「うむ。あの中に一度入れば、真夜中や、吹雪の時とさして変わらん。方角を見失ったら、何百人とて全滅する」
アクセルは、自分だったら移動する煙幕をどう使うか、思案した。
黒いもやの中で道に迷うのは、大変な危険だった。同士討ちの危険さえある。
アクセルは階段を降り、先に降りていたある娘と合流した。
「どうするの?」
「ギギ、お前は空にあがれ。グライダーだ。まずは戦況を俯瞰せねば」
ギギは鋭い目を、さらに鋭くした。
続いて、アクセルの部下が馬を引いてきた。
「閣下!」
「馬はどうだ」
「軍馬は大丈夫です。が、荷馬車の馬は暴れています」
部下は、ちらりと都市の広場の方を見やった。
「補給用の物資をかき集めて入場しましたので。荷馬車も増えているのです」
「そうか……やはり生き物には分かるのだな」
本能的な恐れがあるのかもしれない。
精霊もまた、元々は普通の生き物なのだ。
――オオオ。
呻くような、泣くような声が轟いている。風が何度も渡っていくように、声に終わりはない。今頃は、教会で神官らが必死に祈っているだろう。
(救うは、騎士の義務だな)
その一事を持って、貴族は貴族たるはずだった。
「黙らせよう。目覚ましにしても、あれはうるさすぎる」
アクセルは陣地に戻った。小姓がやってきて、巨体に鎧を被せていく。
「どう倒すの」
「大鷹族ギギよ、お前の時と同じだ」
アクセルは言った。
「精霊術師を、もやの中から引きはがす。サザンの大嵐と同じだとすれば、精霊術師が核になっているはずだからな」
ギギは息を呑んだ。
「あの、もやの中から?」
「そうだ。地上にいる分、お前の時よりは楽だ」
ギギは微妙な顔をして、アクセルを大笑させた。
「大鷹族のギギ。公女のため、もう一働きを頼むぞ」
鎧の籠手で背中を叩かれ、ギギが悲鳴を上げた。
アクセルはどう猛な笑みを浮かべる。その顔を、兜が隠した。
「さぁ、急げ! 急げ! はっ、はっ、はぁっ!」
アクセルは足早に動きながら、次々と部下に指示を飛ばした。
巨体の笑い声は、招集の鐘よりもよく効いた。
グラーツの市門の前には、すでに騎馬が整列していた。
「すぐに出れるのは、百騎程か」
「内、二十は大鷹族です」
胸当てに赤布を巻いた、大鷹族の騎兵が馬体を寄せてきた。
頷き、アクセルも鞍上の人となる。
城壁外の大通りが、城門からまっすぐに伸びていた。もっとも大通りと言っても、街並みはすでに破壊され、廃屋と焼け跡が続くだけだったが。
「歩兵を退かせろ」
アクセルは合図を出した。亜人学派の侵入を警戒し、至る所へ歩兵を伏せていた。
「弓ぃ!」
アクセルのかけ声で、城壁から弓が放たれる。
黒いもやが、生き物の形を取り始めた。もやが特に濃い場所が、生まれる。空間から滲み出るように、軟体生物のような、どろりとした塊が現れた。
汚泥を練ったような醜悪さだ。
鍛え上げられた軍馬さえ、わななく。
「第二射」
「はっ!」
矢は敵に突き刺さったが、たちまち腐り落ちていく。
「埒があかんな」
「閣下、ギギが空に上がりました」
空を、三角形の翼が駆けた。
平原にはどす黒いもやが、漂っている。見張りは彼女に頼るしかない。
「……敵の動きを、伝えています。もやの向こうで、敵の歩兵もまた丘を狙うようです」
大鷹族の通訳に、アクセルは眼を細めた。
三角形の問題が、一つ解けた。頂点の一つは、東へ移動している。
「東か。グラーツを迂回するつもりか」
「あるいは、敗戦を悟り、最後の勝負を挑むのかもしれませんな。城壁に挑むよりも、丘の方がまだしも勝ち目があるように見えるでしょう」
アクセルは部下を戒めた。
「敵を馬鹿だと思うな? いつだって、意外と手強いのだ」
黒いもやは、徐々に城壁に近づいてくる。矢では有効打を与えられない。
威力のある魔術を使える兵士も連れてきてはいた。が、数は少なく、おまけに攻撃可能な距離は弓よりもずっと短かった。
魔術を使う兵士は、練成も運用も難しい。
「やむなし、行くか」
馬腹を蹴る。アクセルを先頭に、百騎の馬が動き出した。
指揮官自らの出撃だが、騎士団としてはそう珍しいことではなかった。自ら戦うために、鎧を着て、せめて死ににくくしているのである。
(小さいな)
敵への感想は、それだった。
視界を塞ぐもやは、広く戦場に漂っている。
しかし、もやを生み出す塊自体は、ウォレス自治区で見たものよりも、小さく思える。空一面を覆ったり、天を突くほどの高さがあるわけではない。
(穢れた、精霊)
アクセルは、敵を吟味した。
堕ちた精霊――堕精霊という呼称を、アクセルはまだ知らなかった。
(強力なものを、出し惜しみしているのか。それとも敵には、もはやこいつしか残っておらんか?)
そこまで考えたところで、道が広くなった。都市の区域が終わったのだ。
ここからはなだらかな丘陵を行く、広い街道になる。
何もなければ、敵味方の陣地を一望できる、絶好の決戦場となっただろう。
アクセルは剣を掲げる。城壁から、騎兵伝統の角笛が聞こえてきた。
黒いもやもまた、近づいてくる。吹き付ける風と共に、アクセル達はもやに抱かれた。
もやの中からも、ギギのグライダーに括り付けられたランプが見えた。太陽と、グライダーの案内で方角は分かる。しかし、どちらもひどく頼りない。暗闇の中で明滅する、光の玉に過ぎなかった。
「方位を見失うな!」
アクセルは、鎧の各所から炎を噴出させた。燃える血液が、アクセルが持つ能力だ。
「迷った者は、俺について参れ!」
くすくす、くすくすと、笑い声がまとわりつく。
アクセルさえ、ぞくりとした。
おまけに油の中を進んでいるように、空気が粘っこい。吸い込むと胸を悪くしそうで、アクセルはたまらず咳き込んだ。
(気味の悪い……!)
やってくる黒いもやを、焼き払っていく。
「むん!」
アクセルが、全身から激しく炎を発した。
轟く叫び声。兜で反響し、頭が痛いほどだった。
だが、生み出した灯りは、もやの中を照らし出していた。
「見えたぁ!」
暗闇の中に、味方とは明らかに違う馬体が見える。
「許せ!」
剣を振り上げ、馬の胴を突き刺した。炎が吹き込み、馬は即死しただろう。
馬体に括り付けられてせいか、精霊術師は投げ出されずに済んだ。崩れた馬体の上で、ぴくりとも動かない。
「ここは、我らが」
大鷹族の騎兵が、先に動いた。巧みに精霊術師を回収し、駆け去っていく。
「終わりだ」
アクセルは、僅かな手勢と共にもやの中に残った。
精霊術師を失った、精霊。
黒いもやの中に、貌が見えた。牛や、馬、犬、そして鳥。ありとあらゆる生き物が混ざり合い、貌は浮かんでは消える。
駆け去って行く大鷹族に、穢れた精霊が声を張る。手を伸ばすように、どす黒い触手が伸びた。
――ドウシテ。
アクセルの炎が、伸ばされた腕を断ち切った。
「よく戦った。だが、もう休め」
剣を、刺した。
炎が穢れた精霊にまとわりついていく。
同行する兵士の魔術も、次々とどす黒い体をうがつ。汚泥のような何かが飛び散っていく。高熱の炎は、穢れを焼き滅ぼす浄化だった。
再三に渡る攻撃で、精霊は動かなくなった。
「退くぞ」
直感が、これ以上この場にいるべきでないと告げていた。
だが辺りを見回して、アクセルは舌打ちした。
精霊が弱っても、視界を塞ぐもやはまだ残っている。方角が、分かり辛いのだ。もやの中は、何者かのささやき声に満ちていて、音で方角を察するのも難儀だった。
「アクセル殿!」
大鷹族が来なければ、アクセル達は窮地に陥っていただろう。
「よし退くぞぉ! 長居するべきではない!」
アクセルは、大鷹族へ礼を言った。
「助かった」
「はい。やはり、馬に乗っていたのは精霊術師でした」
馬を駆けさせながら、彼らは素早く報告した。
「マクシミリアンは、彼らを集めているそうだな」
「ええ。我々は、途中で道を違えたので、詳しい理由は知りませんが」
言いかけたとき、部下が声を張った。
「閣下!」
部下の叫びが、アクセルを救った。身をかがめたところを、矢が通り過ぎる。
「やはり、来たか」
移動する煙幕があるとすれば、そこに伏兵を仕込むのは当然のことだ。
アクセルの元に、亜人達が集まってくる。悪臭に備えてか、それぞれが口元を布で覆っていた。
大鷹族が、笛。城壁に残してきた騎兵に、救援を発したのだ。
「押し通る!」
「来い、ゲール人!」
叫んだところで、アクセルはよろめいた。
装甲を突き破り、愛馬の臀部に矢が刺さっていた。馬が暴れる。今度は、アクセルが落馬しそうになる。
「おっと」
アクセルは呻いた。
「よくやるものだな」
亜人達は、覆面をして、じっとアクセルを見つめている。一人が太鼓を叩くと、続々と参集する気配があった。
アクセルを憎む亜人は多い。彼らはもやの中に飛び込んできたゲール人を探して、平原を徘徊していたに違いない。
もやが晴れてくる。アクセルは、自分たちが薄く広がった亜人達に、包囲されていることを悟った。
「……ここは我々が」
大鷹族が前に出る。
アクセルは、馬を降りた。もはや走れはすまい。
「いや、いい。ここでしばらく、戦おう」
激闘の覚悟を決めた時、地面が揺れた。
――オオオ。
先ほどの、何倍もの叫びが轟いた。
「なんだ」
次の瞬間、都市グラーツを囲うように、黒煙が噴き上がっていた。亜人学派の騎兵が向かった丘からも。
「これは!」
頭を巨大なハンマーで殴られたような衝撃だった。
今し方撃破したのと同じ、いやそれ以上の大きさのもやが、平原の至る所から吹き出している。その数――
「な、七つだと?」
亜人学派の陣地からも、次々と黒煙が噴き上がる。地面の下に封じられていたものが、次々と吹き上がったような光景だった。
「閣下!」
部下が言いつのる。アクセルをしても、立ち尽くすほかなかった。
(陽動か)
アクセルは遅れながら、ようやく敵の狙いを理解した。指揮官をグラーツから引きはがすことを、狙ったのだ。
耳を澄ますまでもなく、守るべきグラーツから恐慌の声が聞こえてくる。
突然の暗転に、市民の恐怖が爆発したのだ。フリューゲル家の長子アクセルという守りの要を遠ざけることで、マクシミリアンは市民の心を攻めたのだ。
「戻らねば。一刻も、早く」
噴き出したもやが、暗雲となって空を覆い始める。
グラーツの街が絶望に飲まれようとした時、空に羽音が聞こえた。白い鳥が飛んでいった瞬間、もやの一つに雷が落ちた。
遠くから角笛の音がする。
アクセルらのそれとは違う、新たなる角笛だ。
「援軍よ!」
空から声が降ってきた。大鷹族の、ギギからだ。
「援軍?」
「うん!」
帝都が発した、皇帝の指揮下にある常備軍。帝都ヴィエナからの増援が、ギリギリのタイミングで平原にたどり着いていた。
お兄様、と小さな手で背中を叩かれた気がした。
「公女よ……!」
アクセルは、つかの間、天を仰ぐことを自分に許した。
草原から、残ったもやも晴れていく。友軍が陣取った東の丘に、帝都の援軍が到着していた。
風になびくは、無数の旗。
双頭の鷲は、フリューゲル家。緑地に一角獣は、南部のシュヴァイク伯。そして聖教府にちなんだ二つの太陽は、皇帝陛下が抱える常備軍の印だった。
「さぁ、その方ら、どうする」
アクセルは言った。
「今の我らは手強いぞ。なぜなら、俺は兄だからだからな!」
これ以上の無様は、晒せまい。
一歩踏み出すと、亜人達が目配せを交わし合った。
「公女の猫耳にかけてぇ!」
本人としては、なかなか気に入った――ギギとしては気の抜ける――かけ声をあげて、フリューゲル家は息を吹き返した。
少数同士は、緒戦の配置と、後は士気がものを言う。長兄アクセルは、こんな戦い方をしても強かった。
包囲を蹴散らし始めたアクセルだが、視界の端に、奇妙な旗を目にした。
(今のは……)
黒い二つ星。
だが一瞬だけ見えた忌むべき旗は、すぐに丘を駆け下りる馬群に溶け込んだ。それは聖教府の裏仕事を請け負う、かつて見た部隊――黒星騎兵の旗だった。




