4-11:公女の猫耳にかけて
静謐を破ったのは、ぶしつけな歓声だった。
「何だ?」
図書館にまで、歓声は聞こえてくる。金髪をかきあげて、少年が顔をしかめていた。
歓声はすぐに静まっていく。だがこれはこれで、興味が勝る。まるで、帝都が一斉に口をつぐみ、誰かの話し声に耳を傾けているようだ。
窓の外に耳を澄ます。騒ぎは、どうやら聖教府の大聖堂から、近づいているようだった。
◆
「この運河をずっとずっと行った先に、小さな島があります!」
モノが言葉を始めたのは、長い旅路の始まりからだった。
銀髪の中からひょっこりと顔を出す猫耳は、帝都の人々の息づかいさえ感じ取る。注目を肌で感じ、顔が火照った。
思いは、自然と声になっていく。
「私は、そこから来ました」
南風が、優しく背中を押してくれた。
「その島でずっと暮らすと思っていました。この猫耳があると、帝国では暮らせないから」
褐色の手を胸に当てて、モノは語りかけた。
聴衆は、多い。大聖堂前の広場は、人で石畳が見えないほどだった。馬車の周りにはヘルマン達の騎兵がおり、それをさらに聴衆が囲っている。
大軍に包囲されているような気持ちだった。
負けるものかと、モノは馬車の屋根で踏ん張る。
「海が近くて、畑も豊かな島です」
海、と聴衆が呟くのが聞こえた。
「そう、海です」
モノは応じた。聴衆の一人がびっくりして、思わず半身をとった。
「海が近いから、今日みたいに、風の強い日が多いです。魚がよく採れて、畑ではイモを作ってました。イモは粉にして、お菓子にしたり、こねて練ったり、です。今は雨の季節が終わる頃だと思います」
人々は顔を見合わせた。
「イモって何だ?」
「海が近いのか……」
モノは危険を承知で、島の生活を語った。どんな暮らしをしていたのか、まずは知ってほしかった。
「帝国の中も、初めて見ることばかりで、素敵でした。でも南の島も、負けないくらい、素敵なところだと思います」
視界の端に、神官が自警団を呼ぶのを見つけた。気づかないふりをして、モノは演説を続ける。
「この国の人も、多くの人が畑を耕して暮らしていますよね。私達も、同じなんです」
モノは人々を見渡した。本題に入る前に、息を整える。
「でも今は……そんな普通の人が、危険な目に遭っています」
海賊に襲われた街があった。嵐から守った故郷があった。今も長兄のアクセルが、少しでも敵の進撃を遅らせようと奮戦している。
「帝国の南では、戦いが起きています。私達の街サザンも、同じ亜人達に襲われました」
魔の島の出来事がよぎって、モノは付け足した。
「私が育った……島の村も」
思わぬ告白に、聴衆がどよめいた。どうやら南部を荒らす亜人達と、フリューゲル家が混同されていたというのは、本当らしい。
だとすれば、モノが話したのには、やはり意味があった。
モノのような、ただ暮らしていただけの亜人もいるのだと、実物を見せた方がいい。
「帝都へ来たのは、お願いをするためです」
神官が声を放つ。
「お願いだと?」
「私達を――フリューゲル家を、助けてほしいから」
言葉が染み込むのを待ってから、モノは続けた。
「亜人が怖いっていうのは、分かります。だからこそ、ちゃんと知ってほしいんです」
モノは、自分がひどく子供に思えた。真正面から問われて、明らかにまゆをひそめる人もいた。
「私も、大陸に来るときは、怖かったです。でも、いいことも、楽しいことも、たくさん見つけました」
旅をして、自分の身で新しいことに触れてきた。
自ら身を投げ出す勇気こそ、モノが示せるものだ。
だから、退いてはいけない。猫耳をピンと立てて、モノは話し続けた。
「亜人のことを、もっと知ってほしいんです。同じところだって、教えあえるところだって、たくさんあるんですから! そうすれば……」
オットーが叫んだ。
「モノ!」
身をかがめたとき、頭の上を矢が通過していった。群衆の中で、弩を構えている人がいた。
突然の攻撃に、広場の空気が張り詰める。騒ぎが広がらなかったのは、誰もがあっけにとられて、とてもすぐに反応できなかったからだろう。
「亜人だぞ? どうした、みんな捕らえろ!」
矢を放った男は、むしろ聴衆を糾弾した。
「亜人が、いるんだぞ!」
亜人は見かけ次第、縛り首に送らなければならない。
習慣も違うし、宗教も違う。言葉も違えば、肌の色も違う。
亜人。その言葉が広場を制圧した。
「獣の耳だぞ!」
機を見た神官の声量は、いっそ見事なほどだった。
「あれを見ろ! 光の神に放逐されたものは、内面の醜さが、獣のしるしとして顕れるのだ!」
モノの猫耳のことを言っている。潮目が変わってきた。モノは唇を噛んだ。
「公女シモーネ・モノリス。保険のことを、忘れないように」
馬車からフランシスカが降りてくる。いつになく厳しい顔だ。自分の肩書きを犠牲にしても、ここでモノを守ってくれるつもりらしい。
「このすぐ下は、運河です。水を操るあなたなら、すぐに逃げることができます」
「でも……」
「おや、私は平気ですよ?」
声を耳が拾っても、モノは馬車を降りようとしなかった。予想ができたことではあった。
魔の島でさえ、亜人同士で争っていたのだ。変わることは、簡単なことではない。寒々しい結論が、モノに押し寄せた。
「待って」
前に出ようとしたヘルマン達を、抑える。そうして、まだ話を続けるつもりだった。
「私達は、これから宮廷へ向かいます。一緒に戦ってほしいって、お願いします」
今度は石が飛んでくる。ヘルマン達が払うが、モノが命じた以上、騎士だって手荒なことはできない。つぶてが顔をかすめても、モノは退かなかった。
「お互いに知らないことを補い合えば、食べ物も、商いも、もっとよくできると思うから! 知らないことの中には――」
投石は、止まない。
「公女様!」
ヘルマンに言われて、ほとんど引きずり下ろされるように、モノは馬車の上から降りた。
「……聞いてくれて、ありがとう」
ほんの少し話しただけだというのに、疲れがどっと肩にのしかかった。
(だめだった……?)
広場には風が渡るだけだ。声を上げてくれる人はいない。胸が痛み、息苦しいほどだった。
「さぁ、もう行きましょう!」
ヘルマンが騎兵の隊列を変える。さっきまで軽かった足取りが、嘘のように重い。
(しっかり、しなきゃ)
一歩を踏み出す。変化を感じたのは、行進が再開した時だった。
足音が多い。行進を振り返って、モノは驚いた。
演説を聞いた人の中から、無言でモノ達に従ってくれる人がいた。数は、少ない。目で見える範囲で五人くらいが、モノ達と一緒に歩き出していた。
彼らは投石や、敵意の視線からモノ達を守ってくれる壁になった。
「な、なにを……」
神官達が、訝しげな声を出す。行列に参加する人は、だんだんと増えていった。
「モノ」
オットーが囁いた。
「私、上手くできました?」
「まだ、分からない。でも……」
橋にさしかかった。
渡っている最中、鐘の音が聞こえた。昼の二度目の定時課を告げる、聖教府の鐘の音である。
モノは不思議な感覚を得た。
精霊術は、共感の力。温かい水が満ちていくように、人々の心の力が――マナがモノへと流れ込んでくる。
聖教府の鐘は、祈りを喚起する。そして祈りの対象となっているのは、モノ自身だった。
(そうか)
帝国の南は、今まさに侵略者に食い荒らされている。帝都そのものにも、貧しさがひっそりと忍び寄っている。不安。不信。閉塞感。長い歴史で押さえ込まれていた気持ちが、モノの呼びかけと重なっていたのだ。
――知りたい。
それは未知のものに対する、当たり前の感情だった。
「止まれ! 亜人のメス!」
橋の出口を、人垣が阻んでいた。風ではためくローブには、『黒星』のしるし。モノ達を妨害するために組織された自警団だった。
「どこへ行くつもりだ!」
人々の思いは、どんどんモノに流れ込んでくる。
胸が熱い。思いに応えたくて、モノは叫んだ。
「サンティ! お願い!」
運河の水が逆巻いた。あっけに取られる群衆の前に、水の虎が姿を現す。水量があるので、今日は本来のサイズだった。
馬車の半分ほどもある水の虎は、辺りを睥睨し、誇らしげに背筋を伸ばす。
「も、モノっ?」
フランシスカが馬車から声を張った。驚きのあまり、何かを倒した音さえ聞こえた。
「へ。そ、それは」
初めて、群衆がモノに声をかけた。モノは笑顔で応じる。
「大丈夫。島の、友達です」
サンティが唸る。怖がったのは、自警団だけだった。
「さぁ、行こう!」
サンティが進むと、浮足立っていた自警団はついに決壊した。開けたところをモノが通り、ヘルマンの騎兵が通り、フランシスカの馬車が通っていく。
「い、行くぞ」
最後に足を踏み出したのは、帝都の人々だった。商人も、職人も、貧民街の徒弟も、色とりどりの行列となっていく。
モノは後ろを振り返って、ほっとする。馬車の上から見ると、彼らは人の塊だった。でもこうして観察すれば、一人一人の顔が見える。
困惑した顔、期待した顔、戸惑った顔。顔が見えれば、怖くない。語りかければ通じるのだから。
「お、追え!」
「あれは?」
「精霊術だ! 亜人の、術だよ!」
さらに、神官が行進を追いかける。行列に人が増えるたび、水で象られた動物も、種類と数を増していった。
虎の次は、犬、鳥、馬、蛇。人々が未知を思うたび、モノの心は共感する。
精霊術は止まらない。
水の動物たちを引き連れて、モノは帝都を歩む。今まで目をそらされ、無視されてきたもの達の行進だった。
いつしか、荘厳な石造りの町並みに見物人があふれていた。
「これは……」
フランシスカが、馬車の窓から顔を出し、息を呑む。
本来なら、パニックになってもおかしくない。帝都に亜人などいなかった。精霊術を行使するものなど、いないはずなのだ。
その壁を、モノは打ち破った。
猫耳をさらし、心に潜む精霊をもさらし、帝都を歩く。あたかも、故郷である島を、帝都に持ち込んだかのように。水の動物たちは太陽の光で、きらめきを宿す。
「モノ」
オットーが呆然としている。精霊術師の感覚が、広がっていく。
知らないことを、恐れないで。
モノは行動の女。思いは、全身で示すのだ。
「行きましょう、お兄様!」
ありったけの未知を引き連れて、公女は街を凱旋する。
人も、亜人も、動物さえも。彼女と同じ道を歩んだものは、度肝を抜かれ、壁の外の世界に思いを馳せた。壁の外にあるはずの、何かに。
亜人公女の凱旋は、確かに帝都をひっくり返していた。
「いいぞぉ!」
人垣から、商人風の男達が顔を出した。地鼠族の亜人達は、行列に向かって声を張り上げる。
――公女の猫耳にかけてぇ!
やがて不思議なかけ声が、南風に乗って帝都中に響き渡っていった。
◆
宮廷にも、聞こえてきた。初夏の日差しを浴びて、庭園の噴水が涼しげに水を落としている。遠くから聞こえる歓声は、無数に混ざり合い、潮騒のようだった。
「猫耳にかけて?」
ぎょろり、と宮廷の一室で、ロッソウ大臣は耳を澄ませる。開け放たれた窓から、そんな声が聞こえてきたのだ。
宮廷の真正面でも、そんな声を張り上げた者がいたらしい。
「大臣!」
「大臣!」
宮廷を泳ぎ回っていた貴族達が、次々とロッソウ大臣の下へ直訴に来る。報告を聞くにつれ、ロッソウは顔を歪めざるをえなかった。
公女の行動は、もはや想像を超えていた。
「帝都を……亜人のあかしを晒して、歩いた?」
やられた、という思いが先に来た。
状況の主導権は、フリューゲル家ではなく、宮廷が握っていたはずだ。だが、今はどうだ。圧倒的な民草の声にさらされて、宮廷こそが選択を迫られていた。
南部に援軍を派遣するか、どうか。
この問題が、民草の支持に応えるかどうかという問題に、すり替わったのだ。
(やっかいな)
いわば、ため込んだ矛盾の噴出だった。
水のように巡るはずだった営みを、聖ゲール帝国は強引に押し込めてきた。それは亜人を通過させない聖壁であり、貿易への厳格な制限だった。
せき止めてきた流れが、堤防の決壊と共に一斉に押し寄せたようなものだった。
思えば亜人公女は、水を操るという。
「流れを読んだと言うことか……」
ロッソウはつぶやく。
「……とんでもない娘に、育ったものだ」
ロッソウは亡き公爵夫妻に思いを馳せる。公女は婦人に生き写しだと言う。偽物を今更に主張するのも、もはや難しいだろう。
ゆっくりと首を振り、戦いに望む覚悟を決める。
「だ、大臣……」
「なんだ?」
「お客人が」
「こんな時にか?」
招き入れる前に、すでに相手は上がり込んできた。
ロッソウは眉をひそめた。女顔の商人には、見覚えがない。後ろには、同じようにローブをかぶった者が従っている。
(……商人?)
一瞬で、青ざめた。
「久しぶりね、ロッソウ」
ローブをとって、現れたのは、銀色の髪の毛。血筋によるものか、亜人公女も同じ色をしているという。瞳は、どこまでも冷たかった。
「……保釈金を払ったとはいえ、あなたは特別背任で拘束された身です。上座裁判では、宮廷への出入りは……」
「知ってるわ。だから顔を拝んだら、すぐに出て行く」
フリューゲル家の長女は、ビロードの仮面を外さずに、囁くように言った。ちらりと男の方を見ると、苦々しく顔を歪めている。無理矢理連れてこられた、というところか。
「どこから、お入りに?」
「さてね」
どこまでも煙に巻くつもりのようだ。ロッソウは肩を落とす。
窓から聞こえる歓声は、いよいよ近づきつつあった。
「……あれは、何者ですか?」
「知っているでしょう」
フリューゲル家の長女、イザベラは肩をすくめた。
「シモーネ・モノリス・フォン・デア・フリューゲル。私達の、妹よ」
ロッソウ大臣は壁の肖像を見つめる。四角い顎に厳格な威厳を漂わせる人物が、絵画の中からロッソウ達を見下ろしていた。
法衣に似た金刺繍のローブを身にまとっている。宝石を散りばめた王冠は眩しい。一般に細部まで書き込まれた絵画は人物の存在感を減じるものだが、迫力のある目つきがかえって絵の中から浮き出てくるようだった。それだけの画家を抱え、書かせた絵ということだ。
絵の題名は、『聖ゲール帝国皇帝、ヴィルヘルム、その名を冠することを光の神に許された五番目の王』――つまり今上陛下『ヴィルヘルム五世』の、古い肖像だった。
――公女の猫耳にかけて!
歓声は、止む気配がなかった。




