4-9:自分の言葉で
「で、どちらへ行かれるのですか」
ほほを膨らませたモノに、商人風の男が尋ねてきた。
地鼠族の亜人、テオドールである。
帝都をこの目で見たいという望みを、姉は汲んでくれた。ただし、外出にはお目付役がついてしまった。
「私一人でも、大丈夫なんだけどなぁ」
ひとしきりぼやく。肩の上で、いつも一緒のネズミが物言いたげな顔をした。
「島を出て、運河側を見たいんです」
「なに? とすると……」
「テオドール。教区十七、要するに貧民街ということになるね」
オットーの言葉に、テオドールは言葉を失った。目の疲れを感じたように、目元をもんでいる。
「政争のど真ん中で、何もそんな危険なところを見に行かなくても」
「でも、必要だと思います」
モノは自分の考えをまとめながら、話した。足下を見つめる。
今日は茶色のチュニックに、耳を隠すための帽子という服装だ。顔や手に白粉を塗っているので、外見は完全にゲール人に見えるだろう。
でも、亜人とゲール人は、本当は顔立ちが少し異なっている。褐色肌の亜人は、全体的に彫りが深い。対してモノは、目鼻立ちがさっぱりした、かなりゲール人に近い顔をしていた。
モノは、亜人とゲール人の、真ん中にいるのだ。
「そろそろ、はっきりさせないといけないと思うんです」
「何をですか?」
「私、今、公女なんですよね」
テオドールも、オットーも、頷いた。
「でも、この後はどうなるかとか、まだ決められてなくて」
モノの肩で、オットーが唸った。
「相続の話か」
すべての発端ともいえる、大事な話だった。
モノ達は聖教府の島を歩いた。
「今は目の前のことが、大事です。でも……」
モノが思うのは、こうして進んだ先のことだった。公女シモーネ・モノリスとして生きていく覚悟は、できた。
でもそれは、周りの事情から、背中を押されるようにして決断した。
これからは、そうもいかない。宮廷では、今まで以上にモノの覚悟を問われるだろう。
「私がどうしたいのかを言えないと、説得できないと思うんです」
モノは前を見つめていた。
帝国への知識は、姉達から教わった。歴史は、島にいたときから、オネという知恵者から仕込まれた。
モノが今ひとつ踏み出せないのは、この目で実物を見ていないからだと思った。
「あくまで、仮の話ですが。公女様が相続すれば、それは公爵位、すなわち女公になります」
「女公……」
「絶大な権力者です。帝国内に、公爵は八人しかいませんからね」
ごくり、とモノはつばを飲み込んだ。
「何をするべきか。それはつまり、亜人との共存を掲げるフリューゲル家の方針が、どういうものか。民や、帝国にどんなメリットがあるか。あなた自身で納得したい、ということですか」
煎じ詰めると、そういうことになるのだろうか。
モノはちょっと怖くなった。昨日の夜に漠然と感じた疑問は、今まで封印していたものを、次々と解き放っていた。
「その理屈は、分かりますがね。貧民窟は、ご覧になって気分のよいものでもないですよ」
ぶつぶつ言いながらも、テオドールはしっかりと準備してくれた。
イザベラ達に語っていた『塩商人』という肩書きは、まんざら嘘でもないらしい。実際、聖教府の船着き場に、彼の商会の小舟が留まっていた。
「こいつで運河を下りましょう」
「これで?」
「歩いていくと、はぐれたらコトです」
どうやら前にはぐれたことを、相当に絞られたらしい。頑として曲げるつもりはないようだ。
「ご、ごめんなさいね」
「まったく。出しますよ」
船は帝都の運河を進んだ。モノは途中、思わず鼻をつまみたくなった。
生活の排水や、工場の捨て水で、運河はこれが水かと思うほど汚かった。島の海や川を見ていたモノには、都会の水が同じものだとはとても信じられなかった。
「これでも上流は、まだマシなんだよ。浄化の魔術があるからね」
「浄化?」
「まぁ、濾過というのだけど。今度説明してあげよう」
船は運河に沿って進んだ。船には屋根がついており、モノは乗っていると目立つので、船室に隠れていることにした。
中には、ロープとか、竿とか、いろいろなものが入っていた。商品を運搬するための木箱もある。
「この運河は帝都の商会が管理しています。女性や子供が乗るのは目立ちますから、あまり顔を出さないように」
そう言われても、気になるのが人情というものだった。
モノは屋根の隙間から顔を出して、運河から帝都を見物する。
「帝都は、宮廷を中心にして、いくつもの地区に分かれている」
オットーは、モノに帝都のことを教えてくれた。
「イメージとしては、そうだな……丸いパイを、切り分けたようなものだね。パイを十等分して、それぞれの地区が区切られている。中央にあるのが宮廷だ」
船室の中には、古ぼけた地図が放置されていた。
モノは指で、今いる場所を追ってみる。
「ここか」
帝都は、大陸を南北に縦断する、ホロヴィッツ河のそばにある都市だった。川をそのまま都市の中に引き込んで、比類ない大都市へと発展したのだろう。
この運河は、港まで続く大河の、ほんの一部というわけだ。
「このまま流れていけば、ウォレス自治区にまでつけるよ」
「へぇー」
ずっと遠くの街が、一つの川でつながっている。大陸の広さを感じさせて、モノは目を丸くした。
船室を這い出て、前に出てみる。テオドールは船尾で舵をとっていた。そうしてみると、確かに品物を運ぶ商人に見える。
「ずいぶん船とすれ違いますね」
「運河は、工場が集まる場所なんだ。下流の方は、貧しくなってくる」
確かに、だんだんと空気が変わってきた。水の臭いもきつくなり、鼻を出しているのが辛いほどだ。
モノは、何度か咳き込んだ。工場がどんどん増えてきた。家々の窓から指示を出す人の声が聞こえるようになり、薬品の臭いも鼻をついた。
「のりの臭いだ。紙をすく工場だな」
「紙?」
「あれは木から作られるんだ」
「木……て、あの木?」
「そう」
聞いたことがあった。でも、この船の材料と、今見ている地図が、同じものだとは思えない。
オットーは、いろいろな工場を教えてくれた。
宮廷貴族の服を留める、ピンを作る工場。水車の力でやる鍛冶場。
「ミョウバンの臭いだ。あれは染め物かな」
言い合っていると、テオドールが到着を告げた。
「つきました」
運河には木の桟橋がかけられている。モノ達はその一つに船を寄せて、接岸した。
モノも精霊術で手伝ったが、テオドールの操船も見事なものだ。
「それで、目的地は?」
テオドールは言う。このような地区に、見知らぬ顔が来るのは珍しいのかもしれない。あちこちから、視線を感じた。
「全体が見える場所があれば」
「では、こちらに」
モノはテオドールに従って、歩いた。
肌がぴりぴりした。島で狩りをしていた時に、少し雰囲気が似ている。警戒されているのだ。
(表と同じ街だなんて、思えないよ)
窓にガラスはなく、ほとんどが木の板を打ち付けたものだった。屋根に穴が開いていたり、建物ごと傾くのを、かろうじて材木で支えている家さえあった。
地面も、ひどい。石畳はほとんど剥がれかけだ。不衛生な湿気は、剥き出しの地面のせいだろう。
(自治区の貧民街と、似てる)
ただし、ウォレス自治区の時は、問題はもう少しシンプルだった。
なにせ、亜人がいた。そして貧民のほとんどは、亜人だった。
差別と偏見をなくすことは、彼らにとって間違いなく『いいこと』だ。
じゃあ、この帝都ヴィエナでは? 亜人と仲良くしてほしいと、どうしたら伝えられるだろう。
「こちらへ」
テオドールは、地理に通じていた。
曲がりくねった路地を抜けると、登り坂になった。小高い場所からは、帝都のかなり遠くまで一望できる。
「詳しいんですね」
「よく来るのですよ……もうじきです」
上り続けると、そこは運河の上にかかる橋だった。
「うわぁ」
モノは感嘆の息を漏らす。煤けた石の建物が、城壁までずっと続いていた。あちこちから立ち上る白い煙は、労働のためか、それとも煮炊きのためか。モノは帽子を取りたい気分にかられた。
空気は悪い。でも、この場所で、全身で、この街の空気を感じたら、どんなにいいだろう。
「公女様。あくまでも、私見としてお聞きいただければ」
テオドールは、改まって言った。
「恐らく、今公女様が見ている場所に住む人々は、亜人のことを宮廷ほどは嫌っていないでしょう。ここに目をつけたのは、慧眼です」
下では、今も運河を船が行き来していた。
「あの船に満載している積み荷があります。恐らく宮廷にまで持ち込まれて、貴族の衣装を飾るピンや金具になるのでしょう。ですがあれだけの量をこなしても、四人家族がやっと食っていけるだけなのですよ」
テオドールは、少し間をとった。
「続けて、テオドール」
「では。彼らには、亜人も、ゲール人もありません。北部も南部もありません。今でもギリギリの生活です。今よりマシなら、それでいい……」
テオドールは口の端に笑みを浮かべた。自嘲的な笑みだった。
苦しい生活を送るとは、地に押し込められた氏族のことも言っているのかもしれない。
「テオドール。地鼠族は……」
「我々の氏族のことは、けっこう。すべてを承知で、公女様に賭けることを選びました」
テオドールの細い目が、モノを見つめる。
「公女様。帝都の民をみんな味方につけると言いますが、彼らにはなんと言うつもりですか?」
モノは思い出す。オットーからも、以前教わったことだった。
『当たり前のこと』。
しっかりと仕事がある。税を納めたら、同じ税について二度と徴収を受けない。
「そうか……」
ちょっと、考えすぎていたのかもしれない。
「降りてみましょう」
「モノ?」
「確かめたいことがあるんです」
「モノ、どこへ行くんだ?」
オットーに聞かれても、モノは足を止めなかった。漠然とした、予感のようなものがある。
「聖ゲール帝国は、最近、不作だって話ですよね」
「あ、ああ」
サザンに来たとき、モノはその話を聞いていた。
「じゃあ、この街の人たちは、どうしてるんですか?」
「なるほど……その意味で言うと、食料的な事情は、苦しいと思う」
モノは思案する。頭にあるのは、ウォレス自治区で、炊き出しをしたことだった。
亜人の食料、芋は好評だった。フフという粥状にして、モノも家族へ振る舞った。
美味しいものは、きっと誰が食べても美味しい。
それもまた、『当たり前のこと』と言えるかもしれない。以前に提案した炊き出しと、同じ気持ちでやればいい。
(私にできること……)
モノが坂を下りると、酸っぱい臭いが鼻をついた。
「紙をすく工場だね」
近くの小屋からは、金槌の音もする。鼻を鳴らすと、鉄くさい。
「公女様、お気をつけを。どこかで金属の加工をしています。鉄粉を吸い込むと、肺を悪くします」
モノは胸を痛めた。
「へ、平気です」
やせ我慢をして進む。自分の身で知りたくて、モノはここへ来たのだ。
丁度、取引をしている家があった。
馬車にたくさんの製品を載せ替える。恐らく、一家なのだろう。子供が二人と、両親が商人と思われる男と交渉している。
だが、彼らに渡されたのは、変色したパンの塊だけだ。
(馬車にたくさん積んでも、あれだけ……?)
生活の苦しさが、知れた。
(亜人と一緒に、いろいろなことができれば)
少なくとも商いは増えるだろう。商人は売り手が増えて、万々歳だ。
「ものを売る人がいて、買う人がいて。聖壁で、亜人のいる場所には売れなくて」
モノは首を振った。それは川の膨大な流れを、海から源流までさかのぼろうとするような行為だった。
モノは目を回しそうになった。やはり、姉達のようにはいかない。
(難しいことを考えちゃだめだ!)
きっと、前を見つめた。
(そもそも、私は……)
何を伝えられるんだろう。
島での生活。家族と出会えたこと。力を合わせて、いろいろなことを乗り切ってきた。
(……じゃあ、何で?)
肩に、兄の重さを感じる。
家族を、好きになれたからだ。島を出て、直接触れた。
魔術師、商人、騎士、そして神官。ありとあらゆる立場の家族が、そうしてモノを支えてくれたのだ。
(そう、か)
考えが少しずつ、まとまっていく。鍵は、やはり家族の中にあったらしい。
「払いの悪さは、やはり不作だから、ということもあります」
テオドールが告げた。
「奇跡で土を改善してきました。が、それも限界に近づいています。奇跡は強力ですが、彼らは亜人のようには土を知りません。畑を休ませる休耕地を知らない農夫さえいるのです」
「……芋とかもないですね」
「公女様」
テオドールは頭を振った。
「芋は、亜人の地域にだけあるのですよ」
「そうです」
モノは頷いた。
「でも、食べたら、きっと美味しいはずです。知らないだけで」
モノは続ける。口に出すと、だんだんと自信が出てきた。
「痩せ地に強い芋もあります。私の島には、フォニオっていう、植えてから一月で収穫できる麦もありました」
「……一月で?」
「脱穀が大変ですけどね。不作の時の、食べ物です」
目を丸くするテオドールに、モノは得意げに応じた。
フォニオの実は種と錯覚するほどの小ささだった。亜人の神話にある、『最初の実』について、取り出された種はフォニオだったという人もいるくらいだ。
「みんな、お互いのことを知らないだけなんです! でも、お互いの当たり前を、教え合えば」
ゲール人と、亜人。争い合っていた二つの種族。
その間にあるモノだからこそ、二つを引き合わせて、一つにするという思いを抱くのかもしれない。
「得意なことを持ち寄って、補い合えば……」
イザベラが聞いたら、目をむいただろう。モノがおぼろげに感じたのは、貿易の基本となる『分業』の考え方だった。
もっとも、モノの頭の中では、亜人が育てた作物を、また帝都で振る舞うくらいのことだった。だが、それにしても、新しい品物を十万都市に持ち込むことになる。
ウォレス自治区から亜人の食べ物を輸入すれば、帝国の不作を少しでも賄えるかもしれない。
(思ったことを、伝えればいい)
融和とか、貿易とか、複雑な言葉で教わった。でも、現実を見れば、なんということはない。
ごく当たり前の、人と人の関係があるだけだ。
モノを助けてくれる、家族のように。
「怖がらないで知ってほしい、って言えばいいんだ」
未知を、恐れないで。
その思いこそ、モノが伝えられることだった。島から飛び出したモノの旅路こそ、未知の連続だったからだ。
モノは、胸にぎゅっと手を当てた。
熱。
公女の思いが、熱く燃えようとしていた。
◆
長女イザベラが、相変わらずの仮面姿でフランシスカの修道院を訪れたのは、夜更けのことだった。
「どう?」
「…………えー、はい。そんなことだろうと思ってました」
開口一番、長女は言った。次女フランシスカは、閉口するしかない。
見事なプロポーションを男装に包んで、顔にはビロードの仮面をかぶる。これで色が多少地味なので『変装』だと言っている。
この姉に、目立つなという指示は土台無理な話だった。
「準備は?」
「……順調です。かろうじて」
「そ。モノは?」
「寝ていますよ」
イザベラは目を丸くした。部屋の隅で、モノは椅子に座ったまま眠っていた。傍らには、ネズミ姿のオットーもいる。
「へぇ? もう?」
「今日は貧民街を見に行って、いろいろと考えていたようです。作戦がまとまったら、この通り」
「作戦?」
「お姉様からも言ってください。この方法は、いささか危険すぎます」
フランシスカは、帝都の地図をイザベラに見せた。長女は目を丸くして、にんまりと笑う。
「これ、モノが考えたの?」
「ええ」
「ふふ。なるほど、紙もいいけど、実物に勝る説得力はないってわけね。思い切りがよくて、いっそ小気味いいくらい」
イザベラは含み笑いを漏らす。
「紙と、印刷の準備は万全よ。今日のうちから、少しずつまいておいた。明日の日の出には発見されて、日が昇る頃には、帝都中で噂になる。そのセンで動きましょ」
イザベラは地図を見続けた。
「やるわね。この子も、成長したのね」
イザベラは、眠るモノをのぞき込んだ。ずれた毛布を直してやる。頭をなでると、猫耳がくすぐったそうに動いた。
「……ふふん。商会に、いくつか見繕ってもらいましょう」
「まさか、乗る気ですか」
「若手がいいわね。動きが速いし、チャンスに貪欲だから」
ワインを一口だけ飲んで、長女は去った。フランシスカは嘆息する。寝息を立てる妹を見て、ぐっと口元を結び、次女は机に向かう。
作業の台帳は、父親が残した遺言状だ。協力を呼びかけるべき貴族は、ほとんどが賛意を示してくれた。長兄の善戦が、勢いをつけた形だった。
「モノリス……」
手紙に文字を起こして、フランシスカはふとその名前を口ずさむ。
モノとは、ゲール語で『一つ』を意味する。この妹が亜人とゲール人の間を取り持つのは、ずっと前から決まっていたのかも知れない。二つの種族を、一つに取り持つ。両親はそう打算し、亜人の娘を島に隠したのだろうか。
「……今更、何を」
思いに蓋をし、フランシスカはペンを走らせる。目立たない裏仕事は、ほとんど彼女の仕事だった。
公女シモーネ・モノリスが宮廷へ向かうのは、すでに翌日と決まっていた。




