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3-17:オネ

 その瞬間、誰もが異変を察知していた。

 フリューゲル家の邸宅の攻防は激しさを増している。長女イザベラは騎士達に伴われて、三階から一階へ降りようとしているところだった。

 屋敷は広いが、階段の数はそう多くない。おまけにすぐ近くの階段は、アクセル達の戦いで塞がれてしまっている。やむなく、母屋から通じる離れの階段を使うことにした。


「こっちよ」


 子供の頃は部屋と部屋の繋がりを把握するために、迷路に見立てて遊んだものだ。かつてはこの屋敷も随分賑やかだった。家族が減り、使用人の数も減ったことから、久しぶりの離れの廊下は随分とうらぶれて見える。

 窓に水の竜巻が見えたのは、とある部屋に入った時だった。


「確かこの辺りに」


 窓から見える光景に目を奪われる。水の竜巻が城壁を飛び越えたと思ったら、中空に分厚い霧を捲き始めたのだ。


(モノが戦ってる)


 イザベラは胸騒ぎを覚えた。


(災害を起こしたり鎮めたり。精霊術ってのは、一体何なの?)


 考えている間に、探し物を見つけ出す。急ぎ足で階段を降りて、目指したのは森の中だった。あれほど騒がしかった嵐が、すっかり大人しくなっていた。

 周囲は騎士で固めてあるので、もう敵の心配はない。

 さぁ賭けだ。イザベラは自分を奮い立たせた。


「塩商人!」


 声は森に響き渡る。


「いるんでしょう?」


 反応はない。イザベラはやり方を変えることにした。


「フリューゲル家の協力者! このまま、ついでにあなたの『帽子の中身』も言った方がいいかしら? あなたの名前は」


 やがて応答があった。


「正気か」


 焦ったような声がどこからともなく聞こえる。木々の間を土煙が行き来して、声のする方を隠した。


「正気よ」

「名前を呼ぶな」

「どうせ偽名でしょう。あれって、ゲール人の名前よ?」


 テオドールは沈黙した。動揺する周囲の騎士を、イザベラは手で制する。


「俺は協力者だ」

「よく言うわ。敵が来たのを、知っていたでしょう? おかげで死にかけた」

「助けてやった」


 イザベラは舌打ちした。思った通り、あまり協力的とは言えない。貸し借りの話にするべきではない。この手の相手は掛けで取引をせず、前金を要求する手合いだった。

 長女は、にんまりと笑う。

 交渉の余地は、別にある。商いに明るい彼女は、彼がモノリスとの別れ際に金の話を持ち出したのをきちんと頭に留めていた。


「上で兄が戦ってる。魔術使いも、刺客もいる。音使いなの」


 音の魔術師がいかに厄介かは、イザベラは身をもって知っていた。弟がまさにその類の魔術師だからだ。


「お願い。加勢して」


 テオドールは無言だった。イザベラは札を切った。


「……あなた、全部終わったら、塩商人になるのが夢なんでしょう?」


 イザベラは思い切り悪い顔をしてやった。


「この国で、私に嫌われて商売ができると思わないことね?」


 周囲の騎士達が唖然とした。協力者を強請る前代未聞の貴族がいた。


「い、イザベラ様」


 言いかける騎士の上で、ガラスが割れた。三階の高さで窓から炎が吹き抜ける。押し出されるようにして、刺客も何人か中庭に降ってきた。

 鋭い笛の音が後を追う。森の中から、馬の声がした。


「森に逃げるつもりね」


 イザベラは口元に手を当てる。そつがない仕事だ。


「とう!」


 大仰な声がして、屋敷から巨体が降ってきた。火の粉を散らして騎士が着地する。熱風がイザベラの肌を痛めた。


「匪賊め! 身代金で済むと思うな!」

「退け――――!!」


 刺客達が森へ向かって逃げていく。イザベラは男装の懐から、袋を取り出し投げつけた。

 部屋で探していたのは、協力者を誘惑する金貨の袋だった。


「さぁ追うのよ! 今回の分、金貨で即金!」

「……とんでもない一族だ」


 土煙が金貨の袋を包み込むと、嫌そうに去っていく。


「……ま、最後にちょっとだけ仕事したってところね」


 イザベラは肩を竦めた。屋根が半分吹き飛んだ邸宅を見て、次の事業を色々と考えた。これを機に、間取りを見直してもいいだろう。

 いつの間にか嵐の気配は完全になくなっている。嵐が暖気を連れてきたせいかもしれない。むっとするような気配が漂っていた。


「……終わりか」


 遠くに落雷の音を聞いて、イザベラはようやく安堵の息を吐いた。



     ◆



 嵐は南風を連れてきたようだ。気候は南国のように暑くなり、水に濡れた草木の匂いが窓から流れてくる。

 嵐に耐えた日は、もう昼になっていた。

 モノは聖堂の展望台からサザンの街を一望して、絶句したものだった。屋根瓦が剥がれたり、城壁が崩れたりして、南側はまるで廃墟だった。駄目になった畑も多いだろう。

 猫の耳を澄ませると、まだ悲鳴が聞こえてきそうだった。


(お姉様も、襲われたんだ)


 死んでもおかしくなかった。その事実が、モノをひやりとさせた。実際、長女の額には生々しい痣ができていた。

 向き合うべき現実があるのは、モノも同じだった。

 モノは今、屋敷の図書室にいる。

 息を吸って、吐いて、モノは机の書物に目を落とした。黒い装丁。ずっしりとした重み。父親からの遺言状だった。

 モノは家族で最初にこの本を読みたいと申し出た。全員揃うのを待っていたら、きっと明日になってしまう。

 激戦の後の見回りで、頭の奥が痺れていた。それでも、重大な事実を前にした緊張が、モノに休息を許さなかった。


「読みますよ」


 ひとりごちてしまう。付き添うのは、これを一緒に受け取ったオットーだ。

 ネズミの兄は、机の上で鼻を鳴らした。


「分からないことがあったら、言ってくれ。ここは図書室だ。資料は十分にあるよ」

「はい」


 分厚い扉を開くような気持ちで、モノは表紙をめくった。

 本は、やはり名簿から始まっていた。

 貴族らしい名前が続く。秘密裏にフリューゲル家を支持する人や、条件付きで支持する人。神官の場合、名前の横に『二つ星』の印がつくようだ。聖教府の印がそうだからだろう。


(白い二つ星)


 反対の、黒い二つ星。テオドールのことを思い出しながら、モノは読み進める。

 やはり育ての親、オネの名前がある。オネの名前の横には、『黒い二つ星』が記されていた。聖教府の見えざる黒い星というべき、黒星である。


「お兄様。オネは、やっぱり」

「昔はテオドール達の仲間だったんだろう。大陸に残った、亜人の一人だった」


 モノは頭で計算してみる。『異民族閉め出し令』が発布されたのが五十年以上も昔だ。


(オネは、本当に小さい頃は、聖ゲール帝国の中で育ったってことかな)


 山猫族は島嶼を渡り歩く民だった。そのため、前はどこにいたのかはあまり問題にされない。モノも、オネの過去を知ったのは初めてだ。


「でも、どうして亜人達は帝国に残ったんでしょう?」

「うん。問題はそこだね」

「山猫族も、白狼族も、みんな帝国から追い出されたんです。なのに、自分達だけ残るなんて」


 モノは根本的な疑問を口にした。ページをめくっていくと、答えが現れた。


「……これは?」


 書かれていたのは、年代と紐づけられた情報だった。


「すごいな。まるで年代記だ」

「て、帝国暦? 何ですか、これって」

「年表だ。父さんは、フリューゲル家以外が事業を引き継ぐことも考えていたらしいね。上を見てくれ、『光の神の導きに従い、これを聴く方々へ』――これは家族以外への遺言状の書式だよ」


 モノは唸った。


「お兄様も、お姉様もいたのに?」

「うん……必要なら、躊躇なく切り捨てることができる人だった。テオドールは然るべき人物に、この本を渡すのが役目だったんだろう」


 モノは少しショックを受けた。


「公爵としては、理想的な人だった。能力があって、何よりも現実主義者だ」


 オットーの言葉には複雑な心境が感じられた。


「まぁ、僕らは貴族だからね。そういうことも仕方がない。続きを読もう」


 モノが開いたページは、帝国の中の亜人――『亜人学派』について書かれたところだ。後継者に向けた情報というわけだ。


「『異民族閉め出し令から、しばらくの後、帝国の中に』……?」


 モノは息を呑んだ。


 ――聖教府に協力する亜人が現れた。


 テオドールからの言葉どおりだ。なぜ、と思って読み進める。


「血を、遺すため? ええと、獣の特徴と血と」

「血は対格じゃなくて、主格だね。『亜人の血はゲール人の中で、薄まっている』?」


 かつての亜人は、獣毛など獣の特徴を色濃く残す。大鷹族の精霊術師ギギのような、異様な目つきの『鷹顔』もそうだ。そうした亜人は年々少なくなり、モノ達のような山猫族は猫耳と褐色の肌に祖先の特徴を残すだけだ。獣毛や尻尾は、とうに失われたのだ。


「これ以上、ゲール人と亜人が交われば、獣の特徴はもっと薄まる……?」


 オットーが鼻先で文字を示した。


「ここだ。彼らは、亜人の姿や生活が、ずっと受け継がれていくことを望んだようだね」


 モノは眉をひそめた。旅の至る所で目にした、亜人に対する拒絶と恐れ。全く同じものを、亜人もゲール人に対して抱いていたのだ。


「差別をしたのは、お互い様か……」


 帝国に与した亜人達は、このままゲール人の帝国が膨張を続けることを恐れたようだ。

 彼らは帝国の中で、連綿と生き続け、蓄えた知恵を聖教府に授けていく。利用価値を示すことで、強かに影響力を発揮した。


(どういうことだろう?)


 モノの頭の中では、うまく話が繋がらない。帝国に残った亜人も、やはり閉め出された亜人達と同様に、攻めてきたゲール人を嫌っていた。


(なのに、協力した?)


 その分野は多岐にわたる。


「地図、治水、畑、星読み……? それに、精霊術?」


 モノは目を見張った。彼らが優れた知恵を持っていたからこそ、聖教府も匿ったのだろう。

 聖ゲール帝国で見た多くのものが、実際には亜人とゲール人の密かな合作なのかもしれない。ウォレス自治区では、確かに円筒分水嶺という特別な設備があった。


「聖ゲール帝国の南下は、終わっている。次の問題は、奪った土地を使えるようにすることだ。亜人達は、いわば前の住人だ。協力が得られれば、助かるだろう」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 モノは慌てた。


「み、南には奇跡の『聖壁』がありますよね? 亜人は、すごく悪く言われてるし。そんなものを作られても、何で協力したんですか?」


 モノが呟くと、オットーは呻いた。兄はもう随分先まで読んでいたようだ。


「分かった。亜人学派は、ゲール人を帝国の中に閉じ込めたんだ(、、、、、、、)


 オットーは説明した。モノに言って、予め机に積んであった本の一つを開かせる。

 帝国の地図が載った本だ。帝国の全景は、大まかに円で表現される。


「閉じ込め?」


 モノは目をぱちくりさせた。猫耳がぴこぴこと動く。


「うん」

「……『閉め出し』じゃ、なくて?」

「ゲール人はきっと、肥沃で大事な土地から、異民族を締め出した。でも見方を変えれると、全然違う話なんだよ」


 本を並べていくうちにモノは気づいた。

 南の海と、島々。その周辺まで、帝国の傍からぐうっと伸びている陸地。北方の山岳地帯。北にもウォレス自治区のような港があって、もう一つの貿易港として機能しているらしい。

 故郷の『魔の島』に比べて帝国はあまりにも広くて、大きい。モノはすっかり帝国そのものが、もう一つの世界だと思っていた。


「帝国の外って……亜人が動ける範囲って……こんなに広いんですね」

「そこに壁を敷けば、人や物の交わりはなくなる。実際、閉め出し令で亜人の行き来はなくなり、貿易もぐっと絞られた。ゲール人の営みを、狭い世界に閉じ込めることが、亜人の側も目的だったのさ」


 川の流れに敷居をつくるようなものかもしれない。普通なら、水は流れ、交わり、混ざり合う。帝国の中の亜人達が望んだのは、その流れを思い切り細くすることだった。

 流れが細い分、水が混じり合うことはない。

 敷居とは奇跡『聖壁』であり、僅かに残った流れは、ウォレス自治区のような貿易のための場所だ。

 問題は、これを全て帝国の側が望んでやったということだった。

 でも流れない水は沼地と変わらない。

 聖ゲール帝国の混乱は、まさに淀んだ流れの産物だろう。


(テオドールは、聖壁に二つの見方があると言ったけど)


 裏の、そのまた裏。大陸に来てからというもの、モノの常識は容易くひっくり返る。

 亜人を締め出す聖壁は、見方を反転させれば、聖壁の中への『閉じ込め』なのだ。営みとは巡るもの。片方を締め出すということは、出ていかないということだ。

 事実、ゲール人は何十年も壁の中で暮らしていた。亜人を見たことないゲール人さえ、多いというではないか。


「平和になって、取引が活発になれば、人と人は混じり合うからね」

「混じり合う……」


 モノは腕を組んで考え込む。揺れる猫耳と銀髪が、そのまま答えになっていた。


「つまり、混血だ」


 オットーは両足で立った。


「どこから話せばいいかな。亜人は獣の特徴を持つ」

「は、はい」

「でもそれは、年々消えていく。君を見ればわかる通り、亜人とゲール人は大昔に混血した。そして亜人の特徴だけが年々消えていく。つまり、亜人はだんだんとゲール人に近づいているということさ」


 モノは考えた。頭をよぎったのは、白狼族のラシャだった。獣の耳がない、白狼族の亜人である。


(いつか、私のような獣の耳も、なくなるかもしれない?)


 ようやく、亜人学派が何を嫌がったのかが見えてきた。


「帝国の中の亜人が守りたかったのは、亜人の今の姿ってこと?」

「対して、聖教府は当初の目的を完遂した。後は治世。小さくまとまりたい帝国と聖教府、そしてゲール人を外へ出したくない亜人学派は、目的が一致したんだ」


 それは歪な同盟だった。互いが互いを嫌い合っているからこそ、相手を遠ざけたいという意志は同じだった。結果、利害がぴたりと一致してしまった。

 ゲール人は亜人を帝国の中に入れたくない。

 そして、ゲール人との交わりを防ぎたい亜人がいた。

 互いの問題は、たった一つの奇跡で解決する。亜人とゲール人の間に、一本の線を引けばいい。その線こそが――


「『聖壁』ってことなんだ……」


 モノは息を吐いた。

 亜人の獣のしるしが、いつか消えてしまう?


(精霊も?)


 密林の中で、自然をいっぱいに浴びて育ったモノには、自然を感じられなくなった亜人がどうなるか、想像もできなかった。

 まして、亜人の友である精霊とは自然そのものだ。


(サンティみたいなものに、もう会えない?)


 だとしても、きっとそれはずっと先の話だろう。

 あまりにも規模が大きい話だった。頭を強く打ったように、思考がぼんやりとしてまとまらない。

 ただ一つ分かったのは、モノが家族と暮らしたいと頑張ることを、嫌がる人もいるということだった。亜人の中にさえ、差別の解消を拒む人もいるのだ。

 予想外の代償が、モノの胸を重くする。

 もう歴史に関するページは終わろうとしていた。公爵は、最後に帝国に残った亜人達の言葉を残していた。


 ――民を滅ぼすのは、戦争ではない。融和が、いずれ亜人を消滅させる。

 ――新しい営みは、同胞と精霊(イファ)の絆をバラバラに崩してしまうだろう。


 文章からは、亜人学派の考えが滲み出ていた。なんということはない。亜人も、ゲール人が恐ろしかったのだ。


「……でも、こんなの、うまくいくはずがないよ」


 呟いてしまう。

 水は流れるものだ。彼らの努力は、潮の流れを変えようとしたり、大河をせき止めたりするようなものに思えた。

 むしろ、だからだろうか。次のページの内容は、モノにはいかにも自然に見えた。


「……あ」


 亜人学派が当初の目的を達し、国境が確定して十年後。世代が代わるにつれて、亜人学派に転機が訪れた。聖壁を越えて、帝国の外へ出ていく亜人達が現れたのだ。

 モノは直感する。


(この中に、オネがいたんだ)


 オネはフリューゲル公爵夫人――つまりモノの母とも親交があったという。彼女はやがて亜人の赤子を生かし、隠す上で重要な協力者となった。


「フリューゲル家の、亜人の子供?」


 間違いなく、モノのことだ。ただそれは、監視がついたという意味でもあるのだろう。島から送られてくる報告は、公爵も、亜人達も把握していたようだ。


(島に手紙が来てたのは、報告だったんだ)


 モノの頭は気づいてしまう。


「オネは、私を見張ってたんですね」


 思えば、モノとオネの間には、いつも言い知れない遠慮があった。例えば、オネはオネなのだ。一度も、多分一度も、口に出して『お母さん』と呼んだことはない。

 初めてイザベラと会った時、ほっとした理由が今なら分かる。モノはオネとの間に、どこか違和感を感じていたのだ。


「やっぱり、お母さん(ンネ)じゃなかったんだね……」


 島の言葉が混じる。

 何よりも悲しかったのは、その事実を淡々と受け入れている自分を見つけた時だった。

 泣いたりできればまだよかった。でもいざ事実として突き付けられると、モノは自分でも驚くほど落ち着いていた。


(私、こんな子だったんだ)


 自分が無意識に引いていた壁に、モノは悲しくなる。幼い頃から陰謀の中にあったモノは、自然とどこかで相手を警戒するようになったのかもしれない。

 だからこそ、オットーのように打算なく行動する肉親に心打たれた。


「モノ、その」


 そのオットーが呼んでいる。モノは服の袖で涙をぬぐった。汚しちゃった、お姉様に怒られるかも、なんてことを考える。


「……でも僕が見たところでは、オネは心から君の身を案じていたよ」

「でも、オネは……」

「君が精霊術師になった晩だ。君を必死に助けようとしていた。それに、君の知識はオネからのものだろう?」


 色々なことを教えてくれた。それに気づいた時、違和感を覚えた。

 だって、モノを隠すだけならモノに色々なことを教える必要はどこにもない。ただの島娘として育てた方が、操るには都合がよいとさえいえた。

 事実は、まるで逆だ。モノがこの場にいるのは、言葉や歴史をしっかりと教わったからだ。


(なんで、オネは私に?)


 ふっと心が温かくなった。モノは最初、自分が何に気づいたのかわからなかった。次いでやってきたのは、警戒だ。一度裏切られたモノは、もう一度信じることに臆病になっていた。

 最初に教わったのは、言葉だ。

 一つ(アインス)二つ(ツヴァイ)……ゲール文字の数字を、褐色の手が追った時、オネはよくできたと褒めてくれた。

 二人の間にあったものは、きれいな物語ではなかった。陽の光に満ちていた島の暮らしの陰には、語られぬ打算が隠れていた。

 でも、だからこそ、語られない部分にオネの思いを感じた。


「……じゃあ、どうしてオネのことを、もっと教えてくれなかったの?」


 疑問は、最後にはそこにいきついた。心の中のオネは、それでも優しい顔をしていた。


 ――もう、子供じゃないのよ。


 大人になること。それは自分の手足で立って、答えを探すことだ。

 いつか大陸を自分の足で歩き、歴史を自分の目で見ることこそ、オネが望んだことだったのかもしれない。亜人の隠された歴史や、オネのことも、公女として成長したモノが、自分で見つけ出すと信じて。


「敢えて、教えなかったのかもしれない。君がそれを知るのに十分な知識と、強さを持ったことを信じていたんだろう」


 いつまでも守ってやることはできないから。

 それは、娘の成長を願う母親そのものに思えた。

 語られぬ信頼こそが、目に見えない絆だったのだ。

 モノはぎゅっと手を握る。揺れる心に耐えるように、本を閉じて、自分の胸に押さえつけた。


「そうかもしれませんけど」


 モノは努めて冷静であろうとした。オットーの優しい解釈が嬉しい。でも、全ては想像だ。

 これが、自分で考えて進むことなのかもしれないけれど。

 大人として歩むとは、そういうことなのかもしれないけれど。


(だから、こうしよう)


 モノは頷いた。


「全部、終わったら」


 モノは言った。


「お兄様。私、オネに会いに行きます」


 オットーが頷いた。窓から南風がやってきて、銀色の髪を揺らした。


「私、オネの何も知りませんでした」

「うん」

「でも、私のことだって、オネに聞いてもらいたいんです」


 大陸を知った今なら、きっとオネとも色々な話ができるだろう。その時こそ、モノはオネを許せるはずだ。


「だから」


 もう大丈夫。そう言いかけて、モノは頬の冷たさに気が付いた。


「あれ?」


 目をこすって、水滴が零れる。それは安心の涙だった。魔術の気配が辺りを包む。オットーの防音の魔術だった。


「モノ、いいんだよ」


 しばらく、モノは泣いた。受け止めきれなかった現実が、心からあふれ出て、涙となって流れていく。

 大好きだったんだ、とモノは改めて気が付いた。




 やがて、使用人が呼びに来た。最重要の秘密を読んでいるので、入室は許されていない。


「すぐに行きます」


 そう応えたのは、オットーの魔術だった。モノは涙を拭う。魔術の気配と、優しい南風が公女の背中を押した。


「行きましょう、お兄様!」


 その辺の布(レース付きテーブルクロス)でぐしぐし顔を拭いて、モノは立ちあがった。

 眠気は吹き飛んでいた。

 モノがサロンにやってくると、すでに報告が溜まっていた。いつの間にか専門的なこと以外なら、モノだけで采配するようになっていた。

 街の損害に対する貴族からの見舞いを、モノは家族に見せる前に目を通していく。


(ロッソウ大臣?)


 その中に覚えのある名前を見つけて、モノは首をひねる。中身を見て次女が悲鳴を上げるのだが、それはまた後の話だった。

 衝撃的な報告もあった。

 マクシミリアン率いる軍勢『亜人学派』がついに全貌を表し、帝都ヴィエナに向けて砦を落としながらの進軍を開始していた。


「マクシミリアン達の中に、山猫族が?」


 特にモノを驚かせたのが、目覚めた精霊術師ギギからの報告だった。

 精霊術師ギギは、邸宅の中で休ませてある。衰弱著しく、目を覚ましたのは一安心だった。


(山猫族……)


 それはモノ達の氏族(オボド)だった。

 山猫族は島嶼の民で、展開している島は多い。モノ達の知り合いは、きっといないと思う。でも奇妙な符合がモノの胸を騒がせる。


次話で、第三章も終わりになります。

よろしければ、ここまでのご感想・評価などいただければ幸いです。

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