3-16:弔鐘
大鷹族のギギが精霊術師となったのは、僅か十歳の頃だ。
夏の放牧地にいる時、族長の家に招かれた。族長には妻と娘が何人もいる。娘の中でギギだけが特別に呼ばれたのは、その時が初めてだった。
「あれが見えるか」
族長は言ったものだ。部屋の角には、族長の母親が――つまり、ギギの祖母が座っている。
ギギと同じように目つきの鋭い、『鷹顔』とされる顔立ちだった。
祖母の周りでは、空気が不思議な動き方をしていた。綺麗だな、とギギは思ったものだ。空気の中に、精気がきらめいて見えるようだった。
「はい」
「何に見える」
「鳥に……いえ、鷹でしょうか」
族長は頷いた。決まりだ、と誰かが呟くのが聞こえた。
以降、ギギは精霊術師となった。精霊は、空気の鷹サルヒ。この精霊を何世代も受け継ぐことで、ギギ達の部族は小さいながらも牧草地を守っていた。
ギギ達の一族にとって、空は『久遠の蒼穹』と呼ばれ、敬われている。戦や祭事の折にグライダーで空を舞うことは、一族を導く大変な栄誉だ。
――大事にするのだよ。
祖母は言ったものだ。
――精霊は、亜人の半身だ。私に代わって、この子がお前と一族を見守るだろう。私は、半身をお前に預けるのだよ。
だから、ギギは悲しかった。
(行かないで)
あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
ギギが懸想するのは、どんどん自分から遠ざかっていくサルヒのことだ。半身が引き裂かれるような喪失感だ。そのくせ、サルヒからは温かい気持ちが流れ込んでくる。
(サルヒ……!)
言葉にできない喪失の痛みは、温かさで和らげられた。風雨で冷えた手が、誰かに握られる。
「大丈夫」
それが亜人公女の声であったことを、精霊術師ギギは後に知った。彼女もまた、家族に複雑な思いを抱いていることも。
◆
奇跡を行使する前の聖堂には、普段の厳かさ以上に、緊張感が満ちている。
フランシスカにとっては慣れたものだった。
フリューゲル家の屋敷に併設された聖堂は、通常の教会の倍近い広さがある。聖ゲール帝国の貴族は、すべからく聖教の守護者であり、邸宅には祈りのための場所を設けるのが常だった。
フリューゲル家の聖堂は、屋敷の西の端から中庭を少し歩いた先にある。邸宅の左右対称を崩してまで設けられたのは、フランシスカの聖界入りに伴って、後から増築されたからだ。
「ふむ。まぁ、悪くはない祈りの集まり方ですね」
フランシスカは聖堂の三階で、サザンの信徒達が今まさに祈っているのを感得していた。
窓から見える外は、未だ暴風の中。
それでも耳を澄ませば、階下から祈りが聞こえてくる。同じようなことが、サザンのありとあらゆる場所で行われているはずだ。
奇跡とは信仰を同じくする信徒達の心を一つにして、巨大なマナを引き出す業だ。
ゲール人は同じ言葉を話し、同じ神を敬い、同じ物語を知っている。同じ鐘の音が人々の心を揺らす時、信徒達の心は一つになる。サザン全体が、あたかも一つの心であるかのように心を震わせるとき、甚大な心の力――すなわちマナが得られるのだ。
「フランシスカ様」
だからこそ、今まさに奇跡を行使しようとした時に呼び止められたのは、不穏だった。
「……どうしました」
フランシスカは短い休息を終えるところだ。再び帽子を被り、緑色のローブに袖を通した。
嵐は湖の上で停滞している。止めの奇跡を放つための準備が着々と進んでいるのだ。
「奇跡は、もう少し待ったほうがよろしいかと」
「ほう。その理由は?」
部下は言い辛そうに、上の方を示す。
フランシスカは準備を続けるように告げて、部屋を後にした。三階のさらに上は、鐘を鳴らすための展望所になっている。
「火災は?」
「一階は鎮火しました。屋敷に賊が入り込んでいたようですが、アクセル様が救援に」
「そうですか」
溜まっていた報告を受けながら、フランシスカは石造りの急な階段を登る。鐘楼台で鐘を突こうとしていた小男が、現れた聖女に目を見張った。
「こ、これは、聖女様」
「あなたが報告を?」
「へ、へぇ。こんなの、初めてなもんで……このまま、やってもいいもんか」
フランシスカは目を見開いた。外の湖で、水が逆巻いている。まるで水の竜巻だ。
水は、空中に大きく広がっている。巨大な噴水が、黒いもやを包んでいるかのようだ。
「湖の上に、嵐が来たと思ったら……そのまた上に、湖ができたってわけですわ」
まるであべこべだった。フランシスカは額を抑える。
常識外れの威力。常識外れの精霊術師。
なるほど、ウォレス自治区で人気を博すはずだ。
(でも、なぜあんなことを?)
まるで、嵐を守っているかのようだ。水のヴェールが、黒いもやを必死に包もうとしている。
確かに、これでは奇跡は使うべきではない。奇跡は上空からの雷だ。黒いもやを雷で打とうとすれば、その上の水が邪魔になる。
「モノリス? あなた、何を」
精霊術師でない彼女には、あの中で何が起こっているのか分からない。戦いの前の妹の、あの思い詰めた顔がいっそう聖女を不安にさせた。
◆
「モノ!」
オットーの声は、悲鳴に近かった。肩から叫ばれたので、モノは猫耳をたまらず伏せてしまった。
「公女様!」
ヘルマンも目を剥いている。モノの手は、彼が抱える精霊術師ギギの手を握っていた。冷たい手にモノの体温が移っていく。
(やっぱり、まだ冷たい)
精霊術師と精霊は、深く繋がり合っているのだ。このまま、目覚めない。ぞっとする想像が、モノを逸らせる。
突然の行動と、精霊術の行使に、全体の馬足が鈍った。道は再び、湖に近づいている。
モノは水の精霊術師として、水の精気を感じていた。
「どうしたんだ!」
「このままじゃ、あの精霊が」
「だからって、こんな」
オットーとモノが見上げるのは、黒いもやを突き破りながら逆巻く、水の竜巻だ。湖から水を吸い上げて、水は天高く噴き上がる。
空へと飛び立った空気の鷹。そうして囮となった精霊を、水が追いかける形だった。
「お姉様の奇跡が来る前に、あの空気の鷹を連れ戻さないと」
モノが思い出すのは、ウォレス自治区での記憶だ。モノとアクセルの水蒸気爆発と、フランシスカの雷で弱らせた精霊を、モノは仲間にした。
(話ができれば、希望はある)
そのためには、相手に近づかなければならない。湖の水を総動員したのは、強大な精霊術で、モノの心の力を――マナを相手にぶつけるためだった。
「モノ、だめだ。この嵐は、ウォレス自治区の比じゃないよ」
「でも他にやりようなんて」
成算はない。打算もない。それでも、立ち止まって、震えているわけにはいかなかった。
モノのひどく冷静な部分が、警鐘を鳴らしている。これは無謀だと。独善的で、向こう見ずだ。
(でも……!)
強く握ったギギの手は、次第にモノを握り返すようになった。
水の竜巻が、上空で水をまき散らす。水は白い霧となって、みるみる内に空を覆い始めた。もやの黒と、霧の白が、空の中できれいな対比をなしている。
「霧か」
オットーの声は、呻くようだった。
「モノ。君は賢いな。確かに雷の奇跡は、大量の水で減衰する。さっき水の深いところまで、雷が届かなかったようにね。でも……!」
モノは、ふとうすら寒いものを感じた。周囲から、誰かの囁き声がするのだ。
(来た)
黒いもやが、空気の鷹ではなく、もう一度モノに興味を持った。
「お願い、あの鷹を、放してあげて」
モノは祈った。耳元の囁き声は強くなる。
「もう少しで、全部終わるから! 一緒に連れて行かないで!」
モノは猫耳を動かして、声に耳を傾けようとした。
(だめだ……!)
歯を食いしばった。何も、聞こえてこないのだ。声の数が多すぎる。無数の声が一体となって、大きくなったり、小さくなったりするだけなのだ。
共通しているのは、どす黒い感情。怒り、憎悪、哀しみ。すべての感情が一体となって、ごうごうと鳴っているだけだった。
モノの言葉は、とても届かない。
(もっと、弱らせないと)
モノは、さらに精霊術を行使した。逆巻く水は勢いを増し、上に向かって伸びていく。霧だけでなく、いつも使う水弾までも手あたり次第まき散らした。
嵐にどれほど効果があるのか、分からない。
水の竜巻が、勢いを増す。
猛烈な勢いで、湖の水が吸い上げられていく。
「公女様、もう……!」
ヘルマンは何ごとか言いかけて、沈黙した。部下の騎兵に指示を出して、先に脱出させていく。
「ヘルマン、あなたも」
「ご冗談を。色々と口うるさい老人は、あなたのような方にこそ必要です」
老戦士は首を振った。
「公女という称号でさえも、あなたを縛ることはできないようですな」
厳しい口調だったが、この状況では仕方がない。
やがて、モノは目を見張った。湖の底が露わになったのだ。
「……え?」
湖底にあったのは、建物だ。数も多い。
「湖の下に、街……?」
石造りの街が、濡れて、苔にまみれた姿を露わにする。
大量に水が巻き上げられたことで、湖面の一部がへこみ、すり鉢状になっていた。水位が減った部分から、ついに湖の底が見えたのだ。
「古い、亜人の街か」
オットーもヘルマンも、目を見張っていた。
さっき湖底に見えた光は、こうした当時の建物のものだろう。きっと雷の光が、ガラスか何かに反射したのだ。
「昔、ゲール人は奇跡で地質を変えた」
オットーが呟く。モノも聞いたことはあったが、それでも驚いた。
建物の作りは、先ほどテオドールと話した祠と、酷似している。あの祠は、この地域に亜人が棲んでいた痕跡、そのごく一部だったのだ。
そういう亜人の痕跡を、ゲール人は湖の底に沈めてしまったのだろうか。
(ここまで、やったんだ。亜人を追い出すために)
歴史の重さに、恐ろしくなる。自分がその一部で、フリューゲル家、そしてオネの企みの一部であったことも、恐ろしかった。
心に隙が生まれた瞬間、周囲の囁きが強くなる。
ネズミのオットーが髭をそよがせた。敏感にマナを感じたのか、モノに言い募る。
「あまり共感すると、戻れなくなるぞ」
言葉は途中で途切れた。唐突に、ざぶんと深い水に沈められてしまったかのように。
――オイデ。
再度招かれた時、モノの視界が暗転した。天地の感覚がなくなる。風のようにごうごうとなるだけだった囁き声が、一つ一つのうめき声へと聞き取れるようになる。
感覚の奔流が、大海の嵐のようにモノの心を揺さぶった。
気づくと、モノは夕日色の空間にいた。上も下もない、奇妙な場所だった。夕日色の光が、優しく満ちている。
モノはそこで、一頭の鷹を目にした。近くで一人の娘がうずくまっている。少女は泣いているようだ。肩が揺れ、黒髪の陰から褐色の頬が見える。
モノは意を決して、鷹と少女に近づいていく。
近くで見ると、鷹は随分と老いていた。羽は随分と少なくなり、艶もない。
鷹は突然の来訪者を、驚いたように見返してくる。その目にはやにが溜まっていた。
(精霊が、歳をとるの?)
モノはふと疑問に思う。よほど古い精霊だ。衰えが、老いとなって見えているのかもしれない。
鷹がモノに向かって頭を垂れた。鷹の背後から、どんどん黒いもやがやってくる。夕日の世界は、闇に呑まれようとしていた。
懐かしい気配を感じて振り返ると、虎のサンティもモノと共にあった。水の虎ではなく、生前の虎の姿だ。
虎が吠える。すると少しだけ、闇が迫るのが緩やかになった。
「この子を、連れて行ってほしいの?」
モノは大きな鷹へ言った。
「なら、あなたも! きっと一人じゃ寂しいよ」
鷹は首を振った。鷹の姿が、みるみる内に黒いもやにからめとられていく。
老いた目が、行ってくれと告げていた。
モノは口を結んだ。鷹の目が、どういうわけか、島の母オネと重なった。島を出るモノを見送る時の、あの今生の別れのような目に。
勿論、モノがそう感じたのは、一瞬のことだけれど。
――行ってくれ。
鷹の目が語り掛ける。
――大丈夫だと、その子にも伝えてほしい。
――すぐ隣の世界に、行くだけなのだ。
モノは少女を抱き起した。鷹がゆっくりと頭を垂れる。
どうにもならない。
モノが覚悟を決めた時、ずっと泣いていた少女が立ち上がった。意識も定かでないのかもしれない。それでも空気の鷹、その大元となった巨大な鷹に、長い長い口づけをした。
振り返ると、涙に濡れた瞳がしっかりとモノ達を見つめていた。
「こ、こっち」
モノは現実でもそうしているように、彼女の手を引いた。自分の足で精霊術師が歩き出したのを見て、鷹は最後の迷いを捨てたようだった。
翼を広げ、真っ黒いもやの中に飛び発って行く。古いものから、新しいものへ。それは承継の光景だった。
(怖くないの?)
モノは、見送ることしかできない。そう思って見つめたことは、しっかりと鷹にも届いていた。
――いつまでもいてやることはできない。
「でも、やっぱり、この子は寂しいと思います!」
モノは自分の言葉の強さに驚いた。古い精霊、空気の鷹サルヒは笑っていた。
――私も心配だ。だが大丈夫だと、信じている。
「でも……!」
モノは、気付いた。いつの間にか、モノは自分自身のことを話していた。
何か言ってほしかった。隠したことなんて、あってほしくなかった。
オネ。
本当の母のように、想っていたのに。
――信じ、何も言わない。それもまた母だよ。
優しい風が、モノ達を押し戻すように渡っていく。風はどんどん強くなる。夕日色の世界で、モノ達は温かな光に包まれた。
湧き上がる力は、下から――地面からやってきている。
風が鷹を押し上げる。モノ達にやってくるもやをも、上へ吹き飛ばしていく。
どす黒い感情を退ける、涼やかな風。来る時とは正反対に、光で視界が白く染まる。モノは光の中に、無数の精霊の意思を感じた。
亜人が来なくなったことで、聖ゲール帝国ではもう長く精霊が呼び出されていない。
だが、モノはその亜人だった。せき止められていた流れが、モノの強い願いに呼応していく。漆黒の意思を、湧き上がる光が清めていく。
(亜人のいない土地から、悪い精霊が生まれる)
だがそれは、悪い精霊を選んで呼び出しているだけなのかもしれない。荒れ狂う憎悪と相反するものも、同じようにこの地面には眠っているのではないか。
誰も、彼らに呼びかけないだけで。
――来てくれてありがとう、優しい精霊術師よ。
――どうやら、正しい流れの中で、行くことができそうだ。
はっとして目を開けると、夢は終わっていた。空気の鷹は、もう見えない。空の遥か彼方まで、ありったけの黒いもやを引きつれて飛んでいってしまっている。
ふと見ると、湖底にあった亜人達の棲家が、どうしてかきらきらと輝いて見えた。
「嵐が、弱くなってる……?」
島娘は、風の変化を敏感に感得した。その傍では、大鷹族の精霊術師が空を見上げながら泣いている。
一つの精霊が、やってきて、そして帰っていく。
亜人の祖先が連綿と行ってきた営みが、今この場所でだけは蘇っていた。
◆
「湖から、霧が消えました」
「雲が……いつの間にか、あんなに薄く」
フランシスカの元に、報告が次々と入ってくる。風が弱まったので、鳥の使い魔を飛ばしてある。情報は早く、そして正確になっていた。
「使い魔が公女の脱出を確認」
「精霊術師も、連れているようです」
空一面を覆っていた黒いもやは、今やアルスター湖の上空に集まっているだけだ。しかも、どういうわけか随分と量が減っているようだった。風も弱くなっている。残党。そう言っていいくらいだ。
「好機です」
全ての準備が整った。フランシスカは奇跡を放つための台座に向かう。
鐘が、サザンの街に鳴り響いていた。鐘に鐘が呼応する。信徒の祈りは十分だ。
数万の民が、フランシスカ、そして聖教府へ心を寄せている。
「五、四、三……」
秒読みが始まった。サザンの大聖堂を管轄する司教が、厳かに告げた。
「執行」
膨張、収縮。そして撃発。
フランシスカの中を万人の意思が駆け抜ける。意思は聖女によって方向性を与えられ、やがて空の上に巨大な雷を現出させた。
闇を払う雷。
聖典の物語を思わせる光景に、街中で快哉があがる。
聖女万歳、公女万歳。
次回の選挙も安泰だ、とフランシスカは早速ながら俗なことを考えていた。
「後は、邸宅の戦いですか」
嵐が去った後の空は、すでに明るい。最後の大風があらゆる雲を連れて行ってしまったせいか、快晴といっていいくらいだった。
サザンの朝に、鐘が鳴っていた。




