3-12:暗闇に惑う
サザンにほど近い丘陵地帯にフリューゲル家の斥候部隊が辿り着いたのは、もう朝の鳥が鳴く頃だった。夜空はすでに黎明の色。微かに残る暗黒は、まさに敵の嵐のものだった。
斥候は、吹き付ける強風を裂いて進んだ。
隊は、十余名。先頭を行くのは、騎兵に扮した大鷹族だ。
赤布による装束ではなく、今は革のブーツ、緑の鎧下、そして鋼の胸当てという軽騎兵としての服装である。
大鷹族は馬の名手であると共に、風読みの名手でもあった。
草原の暮らしは、天候との戦いでもある。
強風の中での行軍は馬を消耗させるが、大鷹族が巧みに先頭を入れ替え、率先して風よけになった。馬と馬の間隔を詰めて、一丸となって進めば、向かい風をもろに受けるのは先頭の一騎だけで済む。
巧みに先頭を交代することで、斥候部隊は無風と変わらない速度で斥候をこなすことができた。
「ここまでだ!」
大鷹族の一人が、馬を止めた。丘の上である。一際強い風が吹くと、馬が嘶いた。
「妙だな」
ゲール人の隊長が、大鷹族に並んできた。風と雨で、兜の羽がしおれている。
「直前の斥候の報告から、ほとんど移動していない」
「……水を補給している可能性があるな」
「水を?」
「公女様の話だ」
大鷹族は続けた。
「雲と雨は、水の塊だ。あれだけの嵐を作って進めば、物凄い量の水を消費している。あの位置は、確か下が川になるだろう」
「なるほど」
斥候は、頷き合った。
「嵐の食事というわけか」
奇しくも、雷鳴の音がした。
ゲール人の隊長は大鷹族へ礼を言ってから、手早く指示を飛ばす。
「各自、嵐と地平線を注視するように。特に、亜人の部隊を見逃すな。森や川沿いに煮炊きの煙がないか、よくよく注意するのだ」
まばらな応答があり、一人一人が己の役割に集中する。大鷹族の頭格とゲール人の隊長は、丘の上で騎乗したまま意見を交わした。
「あの嵐に、我らの同胞がいるとはな」
ぽつりと漏らした大鷹族に、隊長は首を振った。
「まだ分からん。それを確かめるために、貴殿らが派遣されたと聞いた」
大鷹族は頷いた。
突如として現れた嵐の正体は、巨大な精霊である――その推定は、亜人公女モノリスが察知した。けれど、それは全て彼女の感覚に基づいた情報だ。本人も自覚しているのか、それとも周りの助言か、彼女は裏付けを取ろうとした。
その結果が、斥候として派遣された大鷹族だ。
「……ギギという、娘だ。よく知っているよ」
「娘?」
「はい。精霊術師は、特別な才能が要る。私達の言葉では、手を洗えば子供でも神と食事ができると言う。彼女は、見事に手を洗った一人だ」
「……なるほど、あの嵐の中にいるのは、功績を立てた精霊術師ということですか」
やがて方々へ散っていた部下が戻ってきて、報告をした。
地平線まで見通しても、亜人の軍勢などは見えない。東の山岳地帯の森が気になるが、そこまで行って検分するのは、かなりの時間を要するとのことだ。
「ふぅむ。具体的には」
「もう半日。本気で隠れた場合、それでも見つけることは困難です」
「嵐の中は?」
「それが。どこから見ても、やはり暗すぎます」
大鷹族の頭格は、じっと考え込んでいた。
「……ではせめて、我ら大鷹族は嵐の下に潜ろう」
隊長は目を剥いた。
「危険だ」
「公女は、我らに偵察を命じた。我々も手を洗わなければいけない」
その時、一同を戦慄が駆け抜けた。
遠くで川の水を吸っていた嵐が、ゆっくりと動き始める。黒い雲が生き物のようにうねり、圧倒する速度で斥候達に迫る。不意に轟いた雷鳴は、生き物の唸り声のようだった。
「雲が、こっちへ、降ってくるぞ」
黒いもやが、頭上から覆いかぶさってきた。夜が迫ってくるようだ。
「いかん!」
「退け!」
部隊は馬首を巡らせた。全力で駆ける。
馬が悲鳴をあげ、蹄鉄がぬかるんだ地面を抉る。
追いつかれる。誰もがそう思った直後、突風が吹いた。横倒しにされてしまいそうな、強烈な風だ。
騎兵に襲い掛からんとした雲は、突然の突風に吹き散らされて消えてしまう。
何人かが咳き込んだ。猛烈な悪臭だけが、火事の後のように周囲に残っていた。
「なんだ、今のは?」
斥候達は駆けながら空を見上げる。
黎明の空に、鳥の形が浮かび上がっていた。雨や風が、不自然に曲がる場所がある。その場所を結んでいくと、翼を広げた鳥の形が浮かび上がるのだ。
だが、明らかにその鳥は正常な飛び方をしていない。よろめき、ふらつき、苦しんでいる。
「……まさか」
大鷹族の一人が、呻いた。
「ギギの精霊」
「空気の鷹か」
空気の鷹は、黒い雲と争ったように見えた。やがて黒い雲にからめとられ、上空へ呑まれていく。その様子は、黒い海へ墜落していく鳥を連想させた。
「まさか、本当に嵐の中に」
駆けながら、大鷹族は呻く。背後を振り返ると、嵐の切れ目に微かに灯りが見えた。星の明かりではなく、もっと弱弱しいランプの灯りだった。
灯りに照らされて、大きな翼の端が見えた気がした。
「なぜ。裏切った我々でなく、なぜギギがあんな目に」
「分からん」
ゲール人の隊長は、言った。嵐はすでに振り切られ、強風の他には馬蹄の音が響くだけだった。
「今は走ろう。フリューゲル家は、全力で戦ってくださる。そのための準備を、まさにしているところだ」
大鷹族は口を結ぶと、斥候部隊の前に出た。人馬一体となって、風を裂き、突き進んでいく。
嵐は彼らを追うことなく、小川の上に佇んでいた。
◆
「まったく、こんな時に!」
フリューゲル家の長女イザベラが天を仰いだ時、まさに作戦の準備が終わったところだった。
サザンの城壁の中には、避難してくる住民達が長蛇の列を作っている。風はいよいよ強くなり、空は朝とは思えないほど暗い。
イザベラは屋敷中をひっくり返して、やがてサイズの合う服を見つけ出すと、他の貴族が見たら目を剥くような男装となった。銀髪も後ろで纏めて、無造作に流す。
「はー……落ち着く。動きやすいって素敵ね」
イザベラが窓際のソファで足を組み、息を吐いた。これから屋敷も戦闘態勢に入る。イザベラは一家の長女として、つつがなく避難してくる住民や、退いてきた兵士を切り盛りしなければならなかった。
「お姉様」
「フランシスカ、怒らないでよ。この恰好、他の人にも受けがいいのよ?」
「お姉様の男装の受けがいいのは、景気よく前を開けるからだと思います」
フランシスカは一しきり目元を揉むと、真面目な顔つきになった。彼女は窓際の机で筆を執り、書き物をしている。他の家族はすでに家を出ており、部屋にいるのは彼女らだけだった。
ごうと強風の音。二人は揃って窓の外に目を落した。
湖面にはさざ波が立ち、木々は冗談のようにしなっている。
強風を裂いて指示を飛ばす声や、馬の嘶きも聞こえた。続々と進発していくのは、防衛の部隊だろう。指揮は長兄のアクセルが取る。ゴロゴロとうるさい車輪の音は、引っ張り出してきたとある兵器に違いない。
イザベラは作戦を思い出して、フランシスカのように目元を揉んだ。
「……上手くいけばいいけど」
「お姉様。しかし、これはなかなか優秀な作戦ですよ」
「毎度のことだけどね。みんなして、体を張り過ぎ」
「ふむ。それはまぁ、同意せざるを得ませんが……」
フランシスカは書き物を続けながら、言う。ちらりと目を上げると、片眼鏡が燭台の光を反射した。
「珍しいですね。お姉様の好きな、派手な作戦ですけれど」
イザベラは肩を竦めた。
「メインがオットーってのが、不安なの」
「お姉様」
「ん?」
「弟離れ」
悪戯っぽく言われて、イザベラはむっとして黙った。しばらく書き物をする音だけが続いた。
「それに保険はあると聞きましたし……お兄様も、いつまでも頼りないままではないのですから」
フランシスカは席を立ち、イザベラに書類を差し出した。
「これは?」
「聖教府の奇跡を放つための書状です。書面で残して、然るべき決裁をしなければ、監査で糾弾されないとも限りません。お姉様の商会のサインを、こことここに」
イザベラが筆を置いたところで、部屋の扉が叩かれた。入室を許すと、聖教府のローブに身を包んだ従者が丁寧な礼を送っていた。
「聖堂で、準備が整いました」
「こちらも、奇跡に伴う書状は用意しました」
「拝見いたします」
聖教府の従者は、インクの染みも真新しい書状を受け取る。やがて小さく頷いた。
「行くのね」
「はい。聖堂で、まずは鐘を鳴らさねばなりません」
去る前に、フランシスカは神妙な顔をした。手を振って、従者を先に発たせる。
「……お姉様の心配も、分かります」
イザベラは頷いた。目の端で、壁にかけられたサザンの地図を見やる。
サザンは城壁の中と外に分かれた街である。城壁の外には、すでに騎兵と弓兵が控え、嵐を足止めする準備をしているはずだった。
「今回は、公女シモーネ・モノリスだけに頼るのは、酷というもの。ですがだからこそ、私達みんなの、家としての力が試されるのだと思います。モノを支えると思えば、多少の無茶は止むを得ません」
イザベラは頷いたが、気持ちは完全には晴れなかった。
フリューゲル公爵夫人という実の母と、育ての親オネ。どういう種類の企みが、モノの周りに存在したのかは分からない。
だがとりようによっては、モノは母親に二度裏切られたと言えるのだ。落ち着いて戦える気持ちだと、誰が保証できるだろう。
イザベラの不安は、戦術的なものではなく、今後のモノを慮っての不安と、混じり合っていた。
特に、イザベラがその不安を後押ししたとあっては。
(オネのことは、気づいても、言わない方がよかったかもしれない)
そういう類の後悔だ。イザベラも子を設けている。だからこそ、子を裏切る母親の気持ちが、理解できなかった。それが自分の母親とあっては尚更だ。
「……それに。心配しても、敵は減りません。これは事実」
「ええ、その通り」
イザベラは苦笑した。
妹に気を遣わせたことに気づいた。どうやら、イザベラはひどく疲れて見えたらしい。
「ありがとう。私はもう大丈夫よ。姉を信用なさい」
フランシスカは、あるかなしかの笑みを浮かべると、一礼して出ていく。
「モノを見てあげてね」
その一言だけは、付け加えずにはおれなかった。
静かになった部屋で、イザベラはじっと窓の外を見つめていた。長い夜になりそうだ。
その時、イザベラは微かに裏手の森で、何かが光るのを見た。屋敷に避難する人の列から、数人が分かれて、森に入ったのだ。不自然な動きだ。
ひどく悪い予感。
(まさか……密偵?)
きらりと輝いたのは、武器に見える。イザベラは舌打ちした。窓に近づき過ぎたのだ。
彼女の位置が知られているとしたら、確実に狙うはずだ。
「私としたことがっ」
敵は亜人学派だけではない。帝都には敵対する貴族もいるし、ロッソウ大臣がフリューゲル家に密偵を放っているという情報は掴んでいた。
にも関わらず、戦時にぼんやり窓際に立つなんて。
本当に疲れていたのかもしれない。
「誰か、ここへ!」
イザベラは声を張る。屋敷の警備は万全だ。今すぐ使用人を呼び寄せ、警備を固めれば屋敷への侵入は防げるだろう。
だが、彼女は甘かった。
「動くな、静かにしろ」
背後で、そんな声があった。