3-10:嵐の精霊
風の音に交じって、うめき声が聞こえた気がした。
「公女様?」
困惑した声は、護衛の兵士からだ。
テオドールとの面会を終えたモノは、邸宅に戻る途上にある。湖畔の道を歩くのは、モノと、肩にいるオットー、そしてヘルマンを始めとする護衛達だ。
時折吹く強風に、モノの猫耳がそよぐ。湖面にもさざ波が立ち、見上げると、雲が随分と早く流れていた。
テオドールと林で話している内に、天気は様変わりしていた。
(敵が来てるの? 全然、気づかなかった)
きっと城壁の傍であったことと、林にいたことで、変化を見逃したのだ。それにしたって、転がり落ちるような、急速な天気の悪化だった。
「どうされました? 馬を待たせておりますので、お早めにそちらまで」
突然に足を止めたモノを、兵士達は不思議そうに見つめる。
――クルシイ。
(まただ)
城壁の向こう側に耳を傾けた。湖の淵が終わると城壁が始まるくらい、ここは壁に近い。元々、天然の湖をまたいで壁が作られたという話なのだ。
――クルシイ。
やはり幻聴ではない。モノを呼ぶ声がどこか遠くから響いてくる。遠雷のように。
「モノ、どうしたんだ」
モノの肩で、オットーが問うた。
「声が聞こえたんです」
「声?」
嫌な予感がした。嵐の気配に、息苦しさを覚える。島娘の感覚が、これがただの嵐でないと告げていた。
「ヘルマン、さっき、敵は空だと言いましたね」
「はい」
壮年の武人は頷く。モノの態度に、公女としてではなく、優秀な精霊術士として接することを決めたようだ。
「嵐が近づいています。ただの嵐ではありません」
ヘルマンがモノに囁いた。
「報告に来たのは、先日通過した街からの早馬です。空に巨大な顔のようなものが浮かび上がり、大木もへし折る突風と、雷を伴っていると。嵐を受けた街は、大変な混乱になっているそうです」
嫌な予感はどんどん強くなっていく。
「心の力――すなわちマナを含んだ嵐ということです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
オットーが慌てた。
「嵐を、マナで生み出す?」
「空中に突然渦巻きが生まれ、見る間に嵐へと成長したという報告でした」
「……空気を動かして風を作り、雲を集めて、雨を降らせたのか? でも、だとしたらとんでもない力だぞ」
その時、遠くから馬の嘶きが聞こえてきた。目を凝らすと、湖畔の道を疾駆してくる馬がある。
乗り手は必死に馬に向かって叫んでいた。だが、馬の様子はおかしい。目が血走り、息は荒い。ほとんど暴走しているのだ。
夜のこの狭い道で、モノ達に向けて突っ込んでくる。
「公女様、下がって!」
モノは下がらなかった。湖の水から、水の虎を呼び出した。
水の虎が馬の前に立ちふさがる。咆哮。馬が棹立ちになり、肉食獣の迫力に屈した。騎手はすんでのところで馬の正気を取り戻し、転げ落ちるように下馬した。
騎手は地面に膝をつき、何度も咳き込んでいる。
どうやら、騎兵であるらしい。兄のアクセルと同じように、拍車のついた靴を履いていたからだ。
全身ずぶ濡れの、ひどい有様だった。
「た、助かりました」
騎手はモノを見て、目を剥いた。
「あ、亜人っ?」
「落ち着いて。どうしたんですか」
モノの翡翠色の瞳が輝く。悲しいことだが、猫の耳で驚かれるのは、もう慣れっこになっていた。
「で、でででも」
ヘルマンが男の肩を掴む。
「落ち着かれよ。その紋章、南のシュヴァイク伯の騎兵ですな」
男は何度も頷いた。ヘルマンはモノを見やる。
「何があったんですか? 教えてください」
モノが問いかけると、男はようやくモノの正体に思い至ったようだ。なお、シュヴァイク伯とはモノ達も通った街の一つだった。テオドールと初めて会った都市でもある。
「こ、公女様。ま、街が嵐に襲われています。べ、別の街から知らせがきたと思ったら、もう眼前に迫っていて……」
「つまり、救助の要請ですかな」
「は、はい。恐ろしい嵐です。上空から、ひどい臭いのする風も吹いてきて……まるで、地獄の窯が開いたようなのです」
モノは聞き咎めた。猫の耳がぴくぴく動いて、騎士を恐れさせた。
「臭い?」
「は、はい。何かが、こう、腐ったような。とにかくひどい臭いです」
「騎士殿。他に伝達は?」
「嵐は、徐々に北に移動しているということでした。四刻前の鐘が鳴る頃に、丁度私達の街に嵐がやってきました」
ヘルマンが思案する。オットーが二人に囁いた。
「要領を得ないけれど、つまり彼は嵐が北上していると言いたいんだと思う。有益な情報だ。二つの位置と、移動にかかった時間が分かれば、次の移動先も計算で求まる」
「んに。な、なるほど。分かりました」
騎兵は慌てて付け足した。
「それに、周りの村落から逃げてきた村人から、妙な話が。近くで亜人の軍勢を見たというのです」
モノ達に衝撃が走った。
「亜人の、軍勢?」
「森の中を移動していたと。見たのは、ほんの避難してきた農民で。彼らの間に広がった噂のようなものでして」
モノは顎に手を当てる。そういえば、イザベラも言っていた。マクシミリアンが聖壁を越えた時に、付近には嵐があったと。
(じゃあ、この嵐も、マクシミリアンが?)
可能性は、高いと思えた。
だってさっき聞こえた、呻くような声は、ウォレス自治区で聞いた穢れた精霊のそれにそっくりだったからだ。悪臭がしたという証言も、ウォレス自治区の時と同じである。
あの、荒れ狂う漆黒の意思。そんなものを使うのは、マクシミリアン以外考えられなかった。
「ありがとうございます」
モノは騎兵に礼を言った。夜空の雲はまだ早く流れている。
――クルシイ。
もう一度、彼方から声が聞こえた。モノはもう迷わなかった。
ヘルマン達に断ってから、水の虎サンティに跨り、湖の上へ走り出す。やってきたのは、城壁のすぐ傍だ。
「ここは……もう壁じゃないか」
「はい。実際に、周りの様子を目で見たいんです」
古い城壁の内側には、上へ登るための階段がある。整備されなくなって久しいらしく、草木が生い茂り、蔦がからみついていた。
モノにとってはこれ幸いというやつで、モノは今にも崩れそうな階段ではなく、蔦を使って城壁の上へよじ登った。やっと追いついてきた騎兵達が、靴を脱いで壁をよじ登る公女に顔を見合わせた。
城壁の上は、静かだ。不気味な静けさだった。月光がなだらかに起伏する大地を照らしている。まるで、地面の底から湧き上がってくる何かを、月が押さえつけているみたいに。
――クルシイ。
――タスケテ。
地平線付近の夜闇で、光があった。雷鳴だ。モノは雷雨に目を凝らした。
(あの雲、中に何かいる)
モノにだけ聞こえる声が、そちらの方からやってくるのだ。
精霊術の力を起き上がらせ、手を伸ばすイメージで、モノは遠くの様子を探ろうとする。
――アナタ、ダレ?
ぞくりとした。全身が粟立つ。
目に見えない力が、波濤となってモノにやってきた。
断片的な光景が次々と過ぎる。
荒れ狂う風。狂ったようにしなる木々。雷光が乱舞し、人々が次々と避難していく。この非常時に関わらず、老人が怒鳴り散らしていた。
――亜人が帝国へ入ってきたせいで、神様がお怒りになったのだ!
モノは荒れ狂う雲の中に、小さな影を見た。最初は鳥に見えた。鳥は風に翻弄されながらも、なんとか飛んでいる。まるで渦に巻き込まれた小魚だ。
やがてモノは、気づいた。
(鳥じゃない!)
翼は人工のものだ。骨と革で作られている。しがみついているのは、まさか人だろうか。
弱弱しいランプの光に、モノは思い出した。
(ウォレス自治区で見た、滑空機?)
――助けて。もう、行って。
弾かれるように映像は終わった。モノはへたり込んでしまう。心臓がバクバクと鳴っていた。
「モノ、精霊術であの嵐を探ったのか?」
「はい。少しだけですけど」
「……この距離で届く方が凄いけど……危険だよ。ウォレス自治区でも心を持っていかれそうになっただろう」
精霊術は共感の力だ。相手の精霊を探ろうとすることは、逆に相手の干渉を受けるということだった。
「公女様、大丈夫ですか!」
ヘルマンが、城壁の下から大声を出した。手を振って下へ戻りながら、モノはオットーと分析する
「……やっぱり、あれは、精霊です。ウォレス自治区と同じような」
でも、とモノは付け足した。
嵐の中から感じた、相反する二つの意思。モノを引き込もうとする意思と、モノを遠ざけようとする意思。
「……中に、人がいるのかも」
言うだに恐ろしいことを、モノは口にせざるをえなかった。
「中に、人が?」
「声がしたんです。人の声と、それに、ウォレス自治区で見た滑空機も見えました」
オットーが、モノの肩で考え込む。
「……ウォレス自治区のように、無分別に暴れていない理由が分かったよ。ちゃんと僕らの方へ、嵐が進んでいる。精霊術師をあのもやの中に投げ込んで、無理矢理コントロールさせているんだ」
モノは悲鳴を上げそうになった。つまり誰かが、生贄のようにあの嵐の中に放り込まれたということだ。
勝つだけじゃ駄目だ、とモノは思った。嵐の中の精霊術師も、救い出そうと心に決めた。
「急ぎましょう、お兄様」
フリューゲル家の邸宅へ戻る間も、刻々と風は強くなっていく。嵐は今も、近づいているようだ。
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今回は短めですが、少々長くなり過ぎたものを、二分割したためです。
次話は、明日(8月28日 月曜日)に投稿いたします。




