3-9:白狼族のラシャ
聖ゲール帝国の国土は、南部にいくほど肥沃だ。気候は温暖になり、畑や肥えた家畜を目にするようになる。
街道も広い。土地でとれた作物や、街の工業品を帝都へ運ぶためだ。富が通るための道であり、貴族達は意地に心血を注ぐ。大きな川がない地域では、馬車が通るための街道は重要になるからだ。
けれど、貴族の努力も土地全域にまでは及ばない。特に山間の土地では、街道を外れるとすぐに広葉樹の森が広がる。
人の営みから外れた場所は、獣のための場所だった。
「星の位置を確認しろ」
「今は、どの位置だ」
「待て。今やっている」
夜の森を、異形の集団が行軍する。虫や夜鳥の声が響くばかりの森に、枝を踏む音が連なっていた。
「大丈夫だ、このまま進め」
闇に一対の光が浮かび上がる。その後ろにも、同じような光が続く。兵士達一人一人の目が、光っているのだった。
彼らは二十余名の亜人の戦士だ。
氏族は、白狼族。かつての棲家は密林だ。森に慣れた者には、森のための歩き方がある。
彼らは頭の上に獣の耳を持っていた。闇を見通す目と、音を聞き分ける耳は、夜の森の行軍を可能にしていた。進軍ルートはゲール人には予測不能だろう。
「森を抜けるぞ」
一人が言った時、森が終わり、視界が開けた。小高い丘の上だった。
月は高く、風は弱い。なだらかな丘陵地帯を、月光が照らしている。兵士達は息を呑んでいた。
「美しい」
「これが、祖先の土地か」
彼らは腰に極彩色の仮面をぶら下げている。仮面は祖先を象ったものだった。いざ戦闘となれば、彼らは祖先を身に宿して戦う。個を捨て、連綿と続く祖霊と一体化し、氏族のために猛々しく戦うのだ。
「予定通りだな、ラシャ」
軍勢の一人が声をかけた。
褐色の若者が、小さく頷いた。ざんばらの髪が風に揺れる。精悍な顔で、相貌が青く光っていた。
ただし、ラシャには獣の耳がない。三角形の耳があるべき位置には、黒髪があるだけだ。
「遠くに、雲は見えないな。やはり、もう飛んでいったか」
ラシャは目を凝らして地平線までを探す。亜人の視力を以てしても、雲の類はまったく見えない。
「ギギはモノリスの方へ向かったのだろう」
ラシャの言葉に、白狼族の戦士達は訊ねる。
「その……意識がなくてもか?」
「マクシミリアン殿のいうことだ。間違いあるまいよ」
ラシャは、ギギという大鷹族の少女の運命について考えた。けれど、それは己の心を暗くするだけだった。
二十年にも満たない人生だが、あんなに恐ろしい光景を見たのは初めてだった。
一人の少女が、嵐に呑まれたのだ。愛用の滑空機ごと、火にくべられた薪のように、少女の姿はあっという間に見えなくなってしまった。率いている仲間の手前、感情を隠すのに苦労する。
「恐ろしいことだ」
「ああ。精霊術師が、あの黒いもやに飲み込まれるなど」
「ウォレス自治区の比じゃなかった」
ラシャは仲間たちの動揺を感じ取る。何かを言ってやらなければならなかった。
「仕方がない」
「だが、ラシャ」
「思い出せ。我々は亜人としての責務を果たしている。土地をゲール人から取り返すことだ。そして逃走を企てることは、その全てを台無しにしかねない行いだ」
ラシャの有無を言わせぬ物言いに、白狼族の戦士達は沈黙した。
ラシャはふと、マクシミリアン神官が彼らに斥候を申し渡したのは、ゆっくり話し合う時間を与えるためかもしれない、と思った。
マクシミリアン神官らが率いる『亜人学派』は、各氏族の亜人達を取り込み、聖ゲール帝国内へ進軍を開始している。森や山を通ることで、今はかろうじて帝国の戦士との戦いは避けられている。
だがこれからは、そうもいくまい。ゆっくり考えをまとめる時間は、これが最後かもしれなかった。
「分かったよ、ラシャ。お前は正しい」
白狼族の一人が、話題を変えた。
「ラシャ、お前にはもう一つ聞きたいことがある」
「なんだ」
「そんなに身構えるなよ。俺達の中で、いつか聞こうと思っていたことなんだ」
白狼族の戦士達は、目線を交わし合う。
ラシャは息を吐く。幼い頃の経験からか、こういう以心伝心のやりとりは苦手だった。
体術や、議論といった、具体的なものをラシャは好んだ。
「例の、案内人のことだ」
「はっきり言え」
「大陸に亜人がいるそうじゃないか。それは本当なのか」
ラシャはマクシミリアンが聖壁を破った時のことを思い出した。大陸の中には、すでに案内人が待っていた。ラシャも重要な協力者として、引き合わされた。
彼らはおもむろに、ローブを取ったものだ。『黒い二つ星』の刻まれたローブだ。そしてその中身は――
「確かに、亜人だったな。帝国の中に亜人がいることは事実だろう」
仲間たちに静かな動揺が走る。
「大陸の中にも、亜人学派という組織があるらしい。そもそも亜人学派とは、帝国の中の彼らを示す名だったそうだ。マクシミリアン殿は、彼らの名前をそのまま使ったのだろうよ」
白狼族の面々は、俯いていた。こんな彼らを見るのは、ラシャも初めてだ。
「……しかし、なぜ、帝国の中に亜人が残ったんだ?」
「それがあるべき姿だろう」
行軍の間にも、ラシャ達は森に古い祠や建物の跡を見つけた。ゲール人達が作ったとは思えないから、南部がかつて亜人のものだった証拠といえる。
「血を守るためだとも聞いた」
「血を?」
「ああ」
ラシャは自分の耳を指さした。彼は祖先から獣の耳をもらわなかった。ゲール人のような潰れた耳を、不格好にも頭の横に与えられただけだ。
「俺には、よくわかる」
ラシャは、この耳のおかげで白狼族の集落で差別を受けた。そしてそれを救ったのは、神官のマクシミリアンだ。
ラシャは耳がないのは、病のせいだと教え込まれて育った。悪霊が憑いているのだと。だが、そうではなかった。
「亜人は獣のしるしを、代々引き継ぐ。獣の耳や、獣毛、尻尾や、顔つきだ。だが、子に受け継がれる場合と、受け継がれない場合があるそうだ。病ではないと、初めてマクシミリアン神官が教えてくれた。自然に起こることなのだと」
ラシャは島に残した白狼族の長を、懐かしい気持ちで思い描いた。獣毛に覆われた、獣の色を濃く残した顔つきだ。けれど、長のような白狼族は減りつつある。
かつてゲール人と亜人の混血があった。
それは確かだ。その結果、亜人はゲール人に段々と近づいているのだ。
(俺の体は、仲間よりも亜人の形をしていない。獣の耳がないのだから)
その劣等感が、ラシャを駆り立てていた。
土地を取り戻す。なんとしても。
亜人としての功績で、亜人としての誇りを自分の中に打ち立てたい。島から解き放たれて以来、その思いは狂おしいほどに高まっていた。
獣の耳がなくても、亜人として認められる道を開いてくれたマクシミリアン神官には、全ての力を捧げるつもりだ。
「しっかりしろ。聖壁を破り、亜人のための土地を作る。その目的は、達成されつつあるのだ」
それだけじゃない、とラシャは励ました。自分の口からこんなに滑らかに言葉が出てくるのが、少しおかしかった。
「あのギギの力を見ただろう。あの荒ぶる力を。ウォレス自治区でも見た、穢された精霊の力を。あれを亜人が思うがままに操れれば、ゲール人の奇跡に匹敵する力になる」
ラシャはマクシミリアンの狙いがそれ以上のものであることを感じていた。だが敢えて説明はしなかった。
「あの子のことを思うと」
「思うな!」
ラシャは一喝した。
「土地を取り戻す。我々が望むのは、それだけじゃないのか?」
ラシャは夜の地平線を見つめる。この先に、亜人公女がいる。
獣の耳があるゲール人。ラシャとはまるで鏡写しだ。
(モノリスは、今のギギを見てどうする?)
ラシャは少し気になった。ウォレス自治区の馬車で対面したのが、もう随分と前に感じる。迷い、打ちひしがれながらも輝く翡翠色の瞳が、ずっと印象に残っていた。
意外と、うまく切り抜けるかもしれない。
そう思う自分を見つけて、ラシャは意外に思った。
「もういい、合図だ」
ラシャは考え事を打ち切り、口を天へ向けた。空へ突き抜けるような遠吠えを放つと、仲間たちも同調する。
「ギギは嵐となって、フリューゲル家を襲う。その後の混乱を突けば、モノリスもこちらの手に入るぞ」
戦果を思うと、氏族の誇りが湧き上がってきた。
月光が聖ゲール帝国の豊かな国土を、鉛色に照らし出している。背後の森から、仲間たちが参集する足音が聞こえてきた。




