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3-8:もう一つの星

 モノとテオドールは、石の台座を挟んで向かい合っていた。

 林の中の祠は、暗がりに沈んでいる。木々が月光を遮るうえ、祠の屋根が台座と椅子の上に覆いかぶさっているせいだ。柱の隙間からやってくる風は、すっかり夜の気配。

 二対の目が薄青く光って、お互いを見つめ合っていた。


「聖ゲール帝国は、亜人を国外に閉め出す政策をとっています。その名も、異民族閉め出し令」


 モノは頷いた。話を聞く間も、銀色の猫耳をあちこちに向ける。油断なく周囲を伺っておくためだ。

 フリューゲル家の邸宅は、湖を挟んで反対側だ。恐らくは、ここは城壁のすぐ傍だろう。家族が馬を飛ばして探しに来たとしても、夜の暗がりの中、湖の淵の木陰を探し回るのは相当な骨のはずだった。


(警戒しないと)


 モノの心を読み取ったのか、テオドールは小さく頷いた。ご自由に、ということかもしれない。

 テオドールはすでにローブを被り直している。女性的な白い顔が、闇の中に浮かんでいた。


「亜人の精霊への信仰は、聖教府にとってはまさしく蛮族そのものでした。この異民族閉め出し令が発効された時、南への侵攻は、闇の勢力からの南部の開放となったわけです」


 モノは歴史を思い出す。

 それは亜人とゲール人の、一番新しい確執だった。


「帝国は、北から侵攻してたんですよね。何十年も前に」

「その通り。正確に言えば、侵攻は五十年ほど前から緩やかに始まり、三十年前に現在の国境が確定されました。それまでは、南部は亜人が支配していました。部分的にですが、ゲール人との混血も、進んでいたようです」

「混血?」


 モノの疑問に、テオドールは笑みを結んだ。


「公女様。あなたが、その証左ですよ」


 テオドールは長い指を立てた。

 指摘されて、モノは銀髪の中の猫耳を、ピクピクと動かす。白い肌のゲール人の父母、そして兄弟から、褐色肌の亜人が生まれたのだ。


(混血か)


 確かに、そうなのだろう。どこかでフリューゲル家に、亜人の血が混じったのだ。


「では、公女様。亜人を閉め出す奇跡、『聖壁』については、どのようにご理解をされていますか?」


 モノは今ある知識を確認した。


「外へ追い出した亜人が、帝国の中へ入ってこないように、食い止めるための奇跡です。透明な、心の力の――マナの壁です」


 実際に通ったからこそ、モノにも分かる。あれは亜人には決して通れない。何もないはずの空間に、強い拒絶の意思が漲っているのだ。

 神官フランシスカの協力を得てすら、モノは激流を遡るような抵抗を感じたものだ。

 ウォレス自治区で知った、神官の頑なさを思い出す。悲しいけれど、聖教府にとって亜人はあくまで魔物なのだった。


「その通りです、公女様。それが表の歴史です」


 『表』という部分を、テオドールはことさら強調した。


「ゲール人は亜人を全て追い出した。そして聖壁がある限り、亜人が帝国の中に入ることはない。然るに、帝国の中に亜人は、存在しえない」


 テオドールはフードを取り、灰色の、お椀型の耳を見せつけた。ローブの端からは、灰色の尻尾が覗いている。


「ところが。なんとここに、亜人が二人もいる。私は地鼠族のテオドール」


 地鼠族、とモノは記憶を探った。

 島での教育では、色々な亜人の氏族について教わった。地鼠族はかなり穏健な氏族で、戦うよりも商いに精を出すタイプだった。そして氏族間の結びつきが強く、亜人がいる地域なら、大抵数世帯は地鼠族の家族がいるらしい。そのため両替商など、実利的な技能を持っているのが常だった。

 ウォレス自治区にも何人かいたはずだった。


「どこにでもいるのが、我ら氏族の面目です」


 キキ、とテオドールは食いしばるように笑った。


「我々、帝国の中の亜人は、そうした表の歴史から姿を隠していました。だからこそ、こうして、公女様にだけ接触したかったというわけです」


 テオドールは手を広げて、祠の中を示した。


「静かで、なかなかよい場所でしょう。まだ亜人が南部に多く居た頃から、この祠はあります。私達の祖先の、置き土産です。この街の城壁には、当時の攻城兵器もまだあるそうではないですか」


 モノは何度か深呼吸した。お腹の辺りに力を入れて、もう一度テオドールを見つめる。


「今の帝都ヴィエナも、元々は亜人の場所でした。あそこを取り戻し、支配権を獲得するために、帝国は南下を進めたと言ってもいいでしょう」


 モノは目を閉じて、何度か頷いて見せる。こういう時大事なのは、相手のペースにはまらないことだ。

 契約でも最初の提案は、ちょっと考えてから返事をするという。これはイザベラの知恵だが、要は自分の呼吸で会談を進めるということだ。

 そうして考えれば、テオドールの考えも読める。

 モノだけをこの祠に連れてきたのは、自分のペースで話を進めたいということだろう。つまり、彼も彼で、モノを計っているのだ。


「あなたが亜人で、ずっと大陸の中にいたのは分かりました。でも、はっきり言って、分からないことだらけなんです」


 モノの翡翠色の瞳が、きらりと輝いた。

 駆け引きはない。できるだけ正直に、知りたいと訴えかけるのだ。


「あなた方がいるということは、誰かがあなた方をずっと匿っていたのですか? 例えば」


 言いながら、モノは気づく。彼が父の協力者であったことを、思い出したのだ。


「……まさか、お父様が」

「いいえ、先代フリューゲル公爵は、確かに亜人に好意的な方でした。ですが、我々を匿ったのは、別の方々です」

「別の……?」


 モノは耳を動かした。聞きのがしてはいけないと思った。


「聖教府です。ですから、正確には匿われる必要すら、なかったというわけですよ」


 冷たい風がさっと祠を渡っていった。


「せ、聖教府?」

「帝国の中に棲む亜人とは、聖教府に協力することで、大陸に留まった亜人です」


 テオドールはローブの内側に縫い込まれたしるしを、モノに見せた。それは、モノも知る聖教府のしるし――『二つ星』の印を、白と黒を逆にさせたものだ。

 普通の神官は、黒地に白の点が二つ付いた『二つ星』のしるしを付けている。フランシスカもそうだった。

 テオドールは、その反対だ。白地に黒の点が二つ打たれている。

 『黒い二つ星』といった具合である。


「これは、『黒星』と呼ばれるしるしです」


 テオドールは言う。


「聖教府本来の二つ星に対する、見えない黒い星といった意味です」

「ま、待ってください」


 モノは言い差した。肩口にいるオットーを見つめて、頷きあう。


「……それは、変です。聖教府は、亜人を憎んだはずです。そもそも、閉め出したのは、聖教府ではないですか」

「その聖教府が、亜人を匿ったというのか?」


 オットーも口を開く。兄はモノが気づかなかったところも、補足してくれた。


「テオドール、申し訳ないが、あなたの話はつかみどころがない。ゲール人だらけの帝国で、亜人が暮らせるはずもない。肌は化粧で誤魔化せても、耳や尻尾は致命的だ」


 モノは、変装してウォレス自治区を歩いたことを思い出した。

 白粉で褐色の肌を、帽子で獣の耳を隠せば、ちょっとなら誤魔化せるかもしれない。けれど、ずっとそれで暮らせるとは思えなかった。


「街では未だにパンフレットが出回っているし、亜人を見つけたらすぐに通報することになっている。匿ったら、それだけで聖教府から除名されて縛り首だ」


 改めて差別の激しさを知り、モノはぞっとした。テオドールは、静かに聞いていた。


「亜人と、ゲール人は、喧嘩をしていたはずじゃ、なかったんですか」


 そしてそのせいで、差別が生まれたのだ。モノは島に流され、十年以上、家族と離れて暮らしていた。

 聖ゲール帝国に生まれた壁を、壊すこと。モノは自分の役割を受け容れ、ようやく公女として歩き出そうとしていたのだ。帝国の中に亜人がいたとあっては、色々なものがひっくり返る。

 向き合おうとしてきた運命の方から、裏切られたとさえ言えるのだ。


「しかし、現にあなた方は大陸の中で生まれた、亜人の精霊をすでに目にしているはずです」


 テオドールは、信じられないことを口にした。


「ウォレス自治区において」


 思わず、目を見開いた。

 ウォレス自治区に現れた、あの黒いもや。あれは確かに精霊だった。意思を持ったマナの塊で、モノはその中に大鷹族の精霊術師の影を見た。


(そうだ)


 精霊とは、心を通わせた精霊術師ところへ、降りてくるものだ。モノのサンティがそうであったように。あのもやが精霊である以上、そこに精霊術師の関与があるのは、むしろ当然かもしれない。

 そして精霊術は、動物と心を通わす亜人が操る術だった。


「大陸の精霊術師が、本来の亜人学派として、あれを呼び出しました。大鷹族の、年老いた、女性の精霊術師です」


 言葉が出てこない。モノにとって、亜人は常に味方だった。

 太陽の光と、海風を受けて育った故郷の島。そこにいた育ての親、オネ。彼らに比べて、大陸の亜人はなんと違うことだろう。


「……あなた方が、あの、かわいそうな精霊を?」

「かわいそう?」


 気づくと、モノは糾弾していた。公女の顔ではなく、ただの少女の顔だった。


「だって、あんなの初めて見ましたよ! 街で暴れて、人も、沢山……」


 テオドールは手袋をした手を突き出した。口元に手をやり、静かにするよう合図する。

 しまった、とモノは思った。

 モノも猫の耳を澄ませた。木の葉が擦れる音に交じって、馬が駆ける音がする。フリューゲル家の者に違いない。声を張って探す者はいない。大事な時期に、公女の失踪を大事にしたくないのだろう。


(すごい心配かけちゃってるな)


 モノは息を吐いた。家のことを思うと、少しだけ気分が落ち着いた。


「いずれにせよ、断片的でつかみどころがない話だ」


 オットーが繰り返した。


「オットー・フォン・デア・フリューゲル。申し遅れたが、モノリスの兄だ」

「……なるほど。やはり、兄上様の使い魔ですか」


 オットーは続けた。


「父上からの遺言があるんだろう。遺言の引受人は、まずは信に堪えるところを示すべきじゃないか?」

「と、言いますと」

「あなた方の人数。所在。生前の父との関係。そして、父上の遺言の中身。我々に必要なのは、まずは今と繋がる具体的な情報なんだ」


 テオドールは肩をすくめる。


「過去には、興味はありませんか?」

「取り急ぎ必要なのは、今の情報だ」

「承知しました」


 テオドールは引き下がった。

 モノは兄の思わぬ胆力に舌を巻く。とはいえよく見ると体が小刻みに震えていて、やっぱりいつものオットーだ。


「とはいえ、信じていただけるなら、後は簡単です。我々地鼠族は、帝都の中で数名が細々と活動しているだけです。公爵閣下にお仕えしたのは、聖壁をなくし、亜人との取引を復活させるというあなた方の理念に打たれたからです」


 テオドールは思い返すような目をした。


「公爵閣下との繋がりは、公女様、あなたが生まれた時です」

「わ、私が?」

「はい。あなたは、奇跡的でした。大陸の中の亜人達は、驚き、羨み、あなたを生んだフリューゲル家に近づいたのです」


 その時、モノの心にふと影が差した。言い知れない不安だ。それが何は分からないけれど。


(私を島に送った時も、この人たちが、関わっていたのかな)


 聞いてみたい、と思った。でも勇気がいる。それは今のモノを作った島での暮らしを、掘り返すことだった。

 モノは、ゲール人の家族と同じように、亜人の家族オネも大事にしている。

 過去を疑うことは、立っている地面を自分から掘り返すようなものだった。


「亜人達は、匿われた当初は聖教府と協力関係にありました。ですが、半世紀もあれば代も替わり、関係も変化します。我々地鼠族のように、独自に動く氏族も出てきたということです」

「君たちは、帝都の何処に?」

「それは明かせません」


 オットーが目を細めるのを、モノは目にした。


「貧民窟か? あそこには、運河がある。蝟集する住居や、下水も。フードを被って身分を隠す人も珍しくない」

「ご想像にお任せします。ですが、この『黒い二つ星』のしるしは、外を歩く時よい隠れ蓑になるのです」


 テオドールは恭しく頭を下げた。

 モノはなんとか、断片的な言葉から彼らの暮らしを予想しようとする。けれど、どうしても知識が足りない。

 彼らはウォレス自治区を襲った黒星騎兵(シュヴァルツ・ワルト)とも、関係があるのだろうか。


(今は、他の情報をもらおう)


 幸いにして、モノの切り替えは早い方だった。


「でも、どうして聖教府は、亜人を」


 モノの疑問は当初のところへ戻る。


「聖教府は、南部へ侵攻をした際に、亜人の精霊術師を集めました」


 テオドールは続けた。


「詳しくはわかりません。私の代では、年配者も口をつぐんでいます。ですが、探求のためだとか」

「探求?」

「公女様。亜人の神話を、覚えていますか」


 テオドールの目が、初めて優しくなった。


「最初の実が落とされた時、祖先は種を取り出した」


 魔の島でも聞かれた、亜人の間の神話である。モノが口ずさむと、テオドールは嬉しそうにした。


「ああ、そうです。私は、実際のところ、帝国の外を見たことなどありませんが……きっと南の島であれば、もうお祭りが終わった頃なのでしょうね」


 モノは頷いた。最初の渡り鳥が帰ってきた時に、季節の変わりを祝うこと。それは土と太陽で生きる亜人にとって、何よりも大切な習慣だ。


「私は生まれた時から、この帝国にいます。聖壁のおかげで、出ることもできない」


 テオドールは首を振る。浅黒い肌の中で、目が光り、一瞬だけ羨むようにモノを見つめた。

 昨日、塩商人の肩書で会った時に、テオドールは亜人の暮らしについてよく聞いてきた。それは意外と、この人物の素なのかもしれない。


「……失礼しました。聖教府は、そうした亜人の神話に、興味を持ったようなのです。精霊術師を捕まえて、探求に用いたようでした」

「探求……?」

「神学上の話です。情報では、今の亜人学派、マクシミリアン神官も同じことをしているようですが」


 テオドールは、小さく口笛を吹いた。すると、祠の外で土が盛り上がる。中から出たきたのは、一冊の書物だった。

 テオドールは丁寧に土を払い、石の台座の上に乗せた。

 土の中から、精気を感じる。


「あなたも、精霊術師なんですね」

「はい。土を操ります。おかげですっかり隠れるのと、隠すのが得意になりました」


 テオドールは、モノ達に本を勧めた。


「どうぞ。これが、公爵閣下からお預かりした遺言です」

「中身を見ても?」

「勿論。これは、元々あなたのお父様のものですよ、公女様」


 モノとオットーは書物を読み進める。最初のページには、人名がずらりと並んでいた。


「……名簿か、なるほど。慎重になるわけだね」

「め、名簿、ですか。んに、な、なるほど」


 モノはふんふんと分かったように頷いておく。けれどやっぱり、こっそり訊ねた。


「お兄様。この名簿って何ですか?」

「…………父さんの活動は、明らかに聖教府の意図に反していた。南部の貴族が何人も賛成していたけれど、具体的に賛同者を網羅した名簿はなかった。そんなのあったら、聖教府に見つかれば一網打尽だからね。特に、リーダーが突然死した場合とかは」


 テオドールは意外そうに頬をかいた。

 彼としては、オットーの随伴は予定外であったけれど、幾分助かっているかもしれない。


「その名簿は、私のような裏方まで含めた、協力者の完全な名簿。公爵閣下が取る予定だった策略、そして亜人との交流が始まった後の政策についても、後継者のため、記載されています」


 次第に、モノは夢中でページを繰った。内容が興味深かったからではない。それが初めて見る、父親の字だったからだ。

 日付は、亡くなる数日前まで続いている。きっと死の淵でさえも、これを書き続けていたのだろう。


(お父様は、どんな人だったんだろう)


 丁度、モノは生家にいる。色々聞いてみたいと思った。

 ただ残念なのは、一番聞きたかった、モノを島に送った時のことを聞けないことだ。母も、父もすでにいないのだ。


「公女様。あなたのことも、書かれています」


 モノの心を読んだように、テオドールは付け足す。さらに聞こうと思ったが、すでに時間が迫っていた。


「これで、私からの連絡は終わりです」


 テオドールは頭を下げる。お椀型の耳を動かして、周囲の様子を探っているようだった。モノも、段々と蹄の音が周囲に集まっているのを感じた。


「どうやら時間もなくなりつつあるようです」

「わ、私がみんなに紹介しますけど」

「ありがたいお言葉。ですが、ご遠慮いたします。今回のお話も、くれぐれも明かす対象は、慎重にお選びください」


 テオドールは立ち上がった。暗い中で真っ黒のフードを被ると、その姿は容易く闇に溶けてしまう。


「次にあなたに会いたいときは、どうすればいい」

「連絡はこちらからいたします。今後は、あなた方専用の密偵と思っていただいて、構いません」


 モノは息を吐く。面会が上手く行き、一先ずは情報が手に入ったのだ。それゆえの安堵だ。


「ただし、次からは報酬をいただければ」


 モノとオットーから同時に、へ、と息が漏れた。モノは顎を落す。


「お、お金取るの……?」

「当然です。先日申し上げた塩商人とは、全くの嘘ではありませんよ。いずれは、と考えておりまして。その支度金です」


 モノは頭を搔いた。確かに、逞しい人ではある。むしろ信用できるかもしれない。


「んに。お姉様に、相談しておきます」

「有難き幸せ」


 テオドールが右の手を差し出す。友好の証として手を握り合う習慣は、故郷の島にもあった。


「……まさか、帝国の中で亜人に会えるなんて、思ってもいませんでした」

「いいえ、公女様。あなたがこのような亜人に会うのは、初めてではありませんよ」


 テオドールは意味深げに笑うと、祠の周囲で土が盛り上がった。モノは土の形に、生き物の姿を見る。細長い縄のような形で、平たい頭を持った――


(蛇だ)


 大きな蛇が、祠に向かってとぐろを巻いたのだ。土煙が起こり、晴れた時にはテオドールの姿は消えていた。

 モノの手には、父親からの名簿が残されている。


「……フランシスカに、裏を取ってもらおう。『黒星』というキーワードがあれば、聖教府の歴史を洗えるかもしれないよ」

「は、はい」


 モノは頷く。けれど、頭の中にはテオドールの言葉が反響して残っていた。確か、彼は昨日も気になることを言っていた。


 ――初めてではない?


 なんとなく気になって、モノは父親の名簿を開いた。一ページごとに、名前順に記載されている。

 よく知った名前を見つけたのは、名簿の最後の方だった。


(……オネ?)


 不意に頭にやってきたのは、どうしてか、魔の島のことだった。

 昔の記憶だ。モノは手紙を書いていて、オネが読み書きを教えてくれる。オネは他にも大陸の本を幾つも持っていて、モノに読み方を教えてくれた。

 また、彼女が愛用していた煙草は、パイプで吸う大陸式(、、、)だ。


(確か、オネは)


 モノの母と親交があった。そういう理由で、モノの母はオネと魔の島をモノの育て先に選んだのだ。けれど、帝国の中に、聖教府に関わった亜人がいたとしたら。


「ひょっとして、オネも……?」


 父親からの、協力者の名簿。それは、未だにモノの手の中にある。まるで鉛のように、ずしりと重い。

 モノが知らなければいけないこと。

 向き合わなければいけないこと。

 それがどうやら、この名簿の中に記されているようだった。テオドールは、それを知るタイミングを、モノに託したのだろう。


「モノ?」


 オットーが、問いかける。震える手がページに触れかけて、


「公女様、ここにいらっしゃいましたか」


 林の中から、ヘルマンが現れた。馬を連れてはいけないほど木が密集しているので、彼は徒歩だった。


「へ、ヘルマン?」

「公女様……どうされました?」


 モノの蒼白の顔を見て、ヘルマンは眉をひそめた。


「今の、竜巻のようなものは?」


 モノは首を振った。亜人に会ったことは、まずは隠そうと思った。誰に明かすべきかは、急いで決める必要はない。


「味方です。あの人が、サザンで会う予定だった、協力者です」

「……左様ですか。では、屋敷でおもてなしを」

「それは、必要ありません」


 モノは言った。


「もう行かれました。私にだけ、御用があったそうですから」


 ヘルマンはモノの手にある書物を見やる。全てを察したのか、後ろに向かって手を振った。どうやら、知らない間にこの祠は囲まれていたらしい。テオドールが精霊術師、そして亜人でなければ、到底抜けられなかっただろう。


「すぐに館にお戻りを」


 ヘルマンは言った。


「早馬で、知らせが参りました。聖壁を破った嵐が、こちらへ向かっています」

「嵐?」

「はい、今度の敵は……」


 ヘルマンは、夜空を指さした。


「空です、公女様」



     ◆



 耳元で、風を切る音がする。翼が空気を孕み、体を前に進めていく。

 だというのに、雲は一向に晴れない。

 感覚だけを頼りに、真っ暗な中を進んでいく。

 幸いにして、感覚はかつてないほど研ぎ澄まされている。周囲の風。地面の形。星々の位置。全てが手に取るようにわかる。まるで自分がバラバラに砕かれて、広くまき散らされたみたいに。


(私、どこに向かってるんだろう)


 湧き上がる疑問も、ほどけて、消えていく。

 いつから飛んでいるのか。どこから飛び立ったのか。そもそも、なぜ飛んでいるのか。それすらも判然としなくなっている。

 飛ぶべくして飛ぶ。

 大きな何かに、導かれるままに。


「見つけた」


 少女は、大きな気配に気づいた。とても大きな街だ。その中に、とても巨大な精霊の気配を感じる。

 三日月のような笑みが浮かぶ。

 ギギという自分の名前さえ、もはや少女には思い出せなくなっていた。


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