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3-6:壁を越えて


 モノ達フリューゲル家が、奇跡『聖壁』を越える朝がやってきた。

 まずは聖教府の教会へ行き、手続きをする。その後で実際に聖壁を通り抜けるという段取りだった。


「我々は、先に聖壁を越えて待っている」


 兄アクセルは、朝食の席で言った。


「教会には、来られないのですか?」

「うむ。先に、ちょっとした準備をせねばならん。イザベラも借りていくぞ」

「準備?」

「うむ。驚くぞ?」


 兄は大笑し、騎士を率いて発って行った。


(なんだろう?)


 疑問に思うが、モノにだって時間はなかった。大急ぎで着かえて、次兄オットーのネズミをボルサという小物入れに突っ込む。それを終えた時ですら、まだ窓の外は暗かった。


「時間です」


 次女にして、神官のフランシスカがモノを呼びに来る。目の下には、それはもう分厚いくまがあった。


「……無茶を言うせいで、徹夜しました」


 モノは、言い知れぬ迫力を感じる。


「次から、勝手にお仲間を増やさないように」

「はい」

「それから、イザベラお姉様から聞きましたが。薄着で出歩かない。屋根に上らない。それに――」

「はい。ハイ。ハーイ……」


 結局、夜明けと共にウォレス自治区の教会に入った。

 石造りの教会は、先日の襲撃でひどく荒らされていた。崩れた壁や、壊れた椅子には、麻の布が被せてある。けれど、高い天井と、色付きガラスの窓は、異民族も壊しきれなかった荘厳さを残していた。奥には祭壇があり、蝋燭の炎が無数に揺れている。


(すごいなぁ)


 島の建物と比べて、大陸の建造物はどれも頑丈そうだ。教会は、その最たるものだった。

 神聖な場所を訪うには、相応の服装がある。

 今日のモノは、落ち着いた深緑色の装束だった。緑色は、聖教府における平日の色であるらしい。姉イザベラの指示で、化粧も控えめだった。

 ただどんなに地味な色を着ても、頭に生えた猫の耳が、否応なく目立つのだったが。


「フリューゲル公女シモーネ・モノリス。そして、その代理人。書状を、こちらに」


 教会の中には、すでに神官達が控えていた。次女フランシスカが教会の神官達に、恭しく書類を手渡す。

 モノは数歩控えて見守った。


「これは南部の修道会の全てが承認した、正式な書状です。根拠となる学説と、南部修道会総長の書状も、同封されています」


 神官でもあるフランシスカは、静謐な美貌に自信を匂わせた。

 ウォレス自治区の教会は、この書状を受け取る。怒鳴り出しそうな神官もいたが、彼らが前に出てくることはなかった。

 見事な進行に、オットーも感心する。


「さすがだね、抜かりがない。すでに味方になってくれる神官を、確保しておいたというわけだ」


 フランシスカの振る舞いは、ただの手続きに儀式のような厳粛さを与えていた。

 やがて、神官達が胸の前で手を合わせた。


「ウォレス自治区の信徒を代表し、今より誓います。これより亜人の公女シモーネ・モノリス一行に対する『異民族閉め出し令』の除外が、効力を発します」


 フランシスカが、モノへ振り返った。


「では、公女よ。祭壇の書状に、サインをしてください」


 いきなり呼ばれて、モノは慌ててしまう。猫の耳が忙しなく動いた。端から端まで動くだけで、大変そうな演台なのだ。どこから登るのだろう。


(……ここか!)


 モノはようやく、祭壇の隅に階段を見つけた。てててと駆けて行って、祭壇へ登る。

 フランシスカがなんとも微妙な顔で見送った。

 モノが記名しなければいけないのは、台に置かれた帳面だった。白い布が被せられた台の上に、『聖典』と書かれた書物と、モノが記入するべき書状が置かれていた。


「どうぞ」


 神官の一人が、モノを急かす。モノの背後で、小さく鼻を鳴らす気配があった。

 書けるものなら書いてみろ、とでも言うように。


「ここですね?」


 置かれた台帳にサインをする。神官達がそろって目を見張っていた。


「……何か変でした?」

「……いえ。さすが、見事な筆致です」

「え?」


 島での教育で、重視されたのは、言葉だった。モノは亜人でありながら、ゲール語を流ちょうに読み書きすることができる。


「教会の鐘を!」


 自治区の教会が鐘を鳴らした。荘厳な鐘の音が、教会の中に響いていく。きっと自治区中で聞こえただろう。

 心の奥にまで染み込んでくるような、不思議な響き方をする鐘だ。


「これで、君の聖壁の通過は、正式なものになった。鐘は、聖教府の新しい法が発効したことの合図なんだ」


 オットーがモノに囁いた。祭壇から降りながら、モノは小さく口を動かす。


「ハッコウ?」

「聖壁は、信徒の心の力――マナを使って維持されている巨大な奇跡だ。風車や運河みたいな、巨大な設備(システム)と言っていい。フランシスカが、君のためにそのシステムを書き換えたのさ」


 オットーの解説に、モノは曖昧に頷く。難しいことは、やっぱり分からない。帝国の中に入れるということは、要するに通行証が発行されたようなものだろうか。


「よくやりました、公女シモーネ・モノリス」


 戻ってきたモノを、フランシスカが出迎えた。山を一つ越えたからか、少しだけ柔らかい顔つきになっていた。


「短い間ですが、これで自治区から聖壁を通るルートが、開きました。急ぎましょう」


 モノ達は馬車に乗って移動する。

 まだ朝も早い。空気は、港独特の朝潮の匂いだ。貿易港として賑わうウォレス自治区も、まだ静かだ。

 中央通りのなだらかな上り坂を行くと、海の方まで一望できた。初夏の海は、まだ朝日の輝きを湛えていた。


「海も、もう見納めなのかな」


 モノは、ふと思う。今まで、生活の中で海から離れたことなんてなかった。

 大陸の奥深くに入れば、そうはいくまい。


「戻ってくればいい」

「お兄様」

「君には、時間がある。それに、自治区はもう……」


 その時、オットーのネズミが窓から鼻を突き出した。


「おい、モノ。あれを」


 モノは、驚いた。

 進むにつれて、だんだんと馬車の左右に人が増えていく。朝も早いというのに、道に見物人が出ているのだ。道路の脇にある街灯も、チカチカと点滅して、まるで島のお祭りのようだった。

 武装した騎兵が道の先からやってくる。アクセルの部下に違いない。


「公女様、お迎えにあがりました」


 騎兵が、ぐいと兜の面防を上げた。壮年の武人、ヘルマンである。


「あの、この騒ぎは」


 ヘルマンが、無言で群衆の片隅を示した。建物の陰に、きらりと光る銀色の髪。男装だったが、しなやかな体つきは女性のそれだった。


「い、イベザラお姉様」

「まったく」


 フランシスカが首を振った。


「できるだけ派手に、というわけですか」

「人集めは得意だし、自治区にはツテもあるからね。前日辺りに噂を流したな」


 注目とは、あっという間に集まるものだった。

 港へ仕事へ向かう人、店の軒先を開ける人、一人一人がモノのを見物し、目が合うと一礼したり、手を振ったり。白い肌のゲール人もいたし、褐色肌の亜人もいた。


「また、いつでもいらしてください。公女様」


 ゲール人の女性が、モノに対してそう呼びかけてくれた。

 勿論、モノが戦ったり、炊き出しをしたくらいで、自治区はすぐには変わらないだろう。集まってきたのも、一部の人に違いない。

 それでも、モノは胸が熱くなってしまった。せめて馬車の中で、モノはいっぱいに手を振り返した。フランシスカの目がなければ、きっと屋根に上っていただろう。派手好きの姉らしい贈り物(サプライズ)だった。

 でも、いつだって別れは短く感じるものだ。

 自治区の出口は、すぐにやってきてしまった。

 モノは水の気配を感じて、覚悟の時が近づいているのを察知した。


「ここです、公女シモーネ・モノリス」


 運河が、聖ゲール帝国と、自治区を隔てている。二つを結ぶのは、馬車が三台もすれ違えそうなほど大きな橋だ。


「ここが、聖壁か」


 モノは喉を鳴らした。思わず、見上げてしまう。空の果てにさえ、聖壁による照り返しが見られた。いったいどれほどの高さなのか、モノには想像もつかなかった。


「後は、あなた次第です」


 フランシスカは言った。手はず通りにやれという意味だろう。

 モノは頷く。ぎゅっと口を結んで、覚悟を決めた。

 扉を開け、馬車のステップを降りる。

 橋の入り口と出口は、長兄アクセルの騎兵が塞いでいる。邪魔が入らないようにするためだろう。橋の中に二本の足で立っているのは、モノだけだった。一陣の風が吹いた。


「さぁ、行こう。モノ」


 ――歩くかどうかは、君の意思なんだ。


 オットーの言葉が蘇る。モノは一歩一歩、石畳を噛むように進んだ。

 光の壁がやってくる。実際にはモノが近づいていっているのだが、なんだかどんどん迫りくるようにも感じた。

 手を伸ばし、壁に接する。ぞわりとした感触が背中を撫でた。

 モノは、精霊術師。亜人の言葉では、イファ・ルグエと呼ばれる、マナを使うものの端くれだ。

 その才能が仇になった。聖壁を抜ける時、これがどういうものかを瞬時に察してしまったのだ。

 偏見。恐怖。そして拒絶。

 そうした気持ちがいっぱいに詰まった、文字通りの壁なのだった。


(こんな、なんだ)


 壁の向こうから、無数の視線を感じた。ほとんど物理的な圧力を伴った視線だった。モノの猫の耳と褐色の肌に対する、どこまでも冷ややかな眼差し。

 言葉も、文字も、何もない。とっかかりが何もない。それは無言の拒絶だった。


「モノ!」


 オットーに言われて、モノは慌てて後ろに下がった。いつの間にか、転びそうになっていたのだ。

 後ろがざわつく。当たり前だ。こんな大事なところで、転びそうになるなんて。


「だ、大丈夫です!」


 モノは何度か息を吐いた。お腹に力を込めて、改めて足を前に出す。

 確かに、モノは亜人だ。けれど、ゲール人の家族だって、大好きなのだ。


(それの、何が悪いの?)


 疑問を、一歩に換えて、モノは聖壁の中に踏み入った。淡い光の中を、モノは突き進んでいく。


 ――よくぞ、来た。


 その中に、一瞬、明らかに異質な声が混じった。モノは、大きな猫耳をピコピコ動かす。だけど、同じ声は二度と聞こえなかった。

 モノは聖壁を歩き抜けた。大陸の風が、銀色の髪を揺らす。


「公女よ、平気だったか?」


 長兄アクセルが、馬の上から声をかけた。モノにとっては、見上げるような高さである。

 赤い髪が、朝の陽光を受けて燃えているかのようだった。モノと同じ翡翠色の瞳は、心配げに細められている。


「聖壁は、どうであった?」

「うーん」


 モノは、悪戯っぽく笑った。


「普通でした」


 長兄アクセルは、大笑で公女の胆力に報いた。大きく息を吸い、号令をかける。


「公女は越えたぞ! まさか、フリューゲル公女の前進に遅れる者はおるまいな!」


 アクセルの檄で、後続の進軍も始まった。

 後続を待つ間、モノは初めて見る聖ゲール帝国の国土を見渡した。

 街道は整備されて、地平線まで真っ直ぐに伸びている。近くにあるのは、兵士が詰めるような砦だけだった。


「自治区を出たら、すぐに街がなくなるんですね」


 モノは、ぽつりと言った。右側には運河へと通じる川が流れていて、左側は森になっていた。聖壁を出た途端、街が終わっていた。


「自治区は、亜人とゲール人が暮らす特別な場所なんだ。だから、自治区の周囲に他の街を作ることを、帝国は禁じている。そういう街が増えると、困るんだろうね」

「次の街は?」

「馬車で半日といったところかな」


 はぁ、とモノは呻いた。広さに感覚が狂いそうだった。島であれば、半日も馬を飛ばせば集落を一周できる。


(本当に広いんだなー)


 新しい風を楽しんでいると、後ろから後続がやってきた。フランシスカやイザベラの乗った馬車。フリューゲル家の兵士達。荷車もあるので、本当に長い長い列だ。行列は世界が終わるまで続くようにさえ思われた。

 最後に聖壁を越えたのは、異形の集団だった。

 動物の革と、赤い布の装束。分厚い曲刀を背負い、騎士と比較してさえ、獰猛な武威を放散していた。その肌は、褐色である。

 (くちばし)を模した仮面が、腰の辺りで揺れていた。


「ここが、帝国の中か」


 一人が、言う。褐色の肌をした、若い男だった。


「約束を守っていただいたこと、感謝します。亜人の公女よ」


 褐色肌の集団は、モノに向かって拳を合わせる。礼は丁寧だ。

 彼らは、自治区を襲った大鷹族だった。彼らの一部が、ウォレス自治区で黒いもやのような精霊を鎮めたモノに、恭順を申し入れたのだ。

 亜人の戦士にとって、それは何よりも重い決断だ。育った氏族を捨てるということなのだ。

 背景にあるのは、偉大な精霊術師への敬意。そして、今まで彼らを率い、結果自治区に置き去りにしたマクシミリアン神官への不信だろう。

 モノ達にとっても、検討に値する条件だった。

 大鷹族の武威は目覚ましい。そして、そんな彼らを自治区に置いたまま去ることを、不安に思う市民が多かったのだ。扱いを決めきれぬ捕虜に対して供する食費も、馬鹿にならない。

 フリューゲル家が彼らの一部を連れていくことは、自治区の負担減と、戦力の増強、そして公女の寛大さの宣伝になるというわけだった。

 炊き出しの夜、モノがフフを振る舞っていたのは、地下にいた大鷹族の捕虜に対してだ。


「久遠の蒼穹に誓って、公女を守ろう」


 大鷹族はそう請け負った。久遠の蒼穹とは、大鷹族にとって『空』を表す言い回しだ。

 とはいえ、彼らの人数は二十名程に過ぎない。要は、戦いの最後にモノに投降してきた人達が、そのまま仲間になった形だった。


「ヘルマン」


 壮年の武人が、鞍上で礼を返す。大鷹族の捕虜を指揮する役目は、モノを島から連れ出した、この手練れの武人が引き受けてくれた。


「では、行きましょう!」


 一行はついに聖壁を越えて、ゲール帝国の中に足を踏み入れた。軍勢の人数は、総勢で五百名程だ。

 アクセルの号令が、空気を揺るがせた。


「では、進発!」


 最初の目的地、サザンまでの道程は、馬車で七日ほどだ。モノは一日のほとんどを馬車の中で過ごすことになった。

 とはいえ、退屈している暇はない。フランシスカとイザベラが代わる代わるモノの馬車に現れては、様々な教育を施していく。貴族らしい発音や、礼儀作法、そして聖教府への知識。

 姉達とのおしゃべりが、純粋に楽しかったということもある。モノ自身も意外なほどきゃいきゃい騒ぐので、さすがのオットーも女性同士のおしゃべりが始まった時は、そっと席を外し女性だけの空間を作ってくれた。

 初日の夜は、野営であった。モノは、天幕からそっと抜け出した。風に揺れる一面の畑とか、遠くに見える山とかを見ていると、それだけで疲れが溶けていくようだった。


 旅をしている。


 その実感がふつふつと湧いて、モノは景色に明日の旅路を夢見て眠った。

 ただし、野営だったのは初日だけだ。毎晩どこかの街に逗留して、モノはその土地の有力者と顔を合わせた。貴族、商人、柔軟な思考の聖職者が主だった。家族達は疲れを化粧で隠し、大貴族フリューゲル家が健在であることをアピールする。


(ちゃんと計算されてるのかも)


 旅程と馬車の足をしっかりと勘定していれば、毎晩街に泊まることもできるだろう。訪れる街の一つ一つで、しっかりと食料が準備されていたし、事前に先触れがあったのかもしれない。初日の野営は、行程の調整というわけだった。


(野営の方が、好きなんだけどなー)


 ガタゴト馬車に揺られながら、モノはそんなことを考える。そんな旅程が六日程続いた、ある夜のことだった。



     ◆



「公女様」


 言われて、モノは振り返った。

 旅路の六日目。領地の境界線をまたいだのが夕刻だったので、領主の館に入ったのは、もう夜半になってからだった。それでも館の門扉は開かれ、中には数十名の客がいた。

 モノはいつもの夕日色の装束に身を包み、顔には薄く紅を入れている。後ろから声をかけられたせいで、耳がぐりんと横へ向き、周囲の何人かをぎょっとさせてしまった。


「ああ、本当に亜人なのですね」


 振り返った先にいたのは、地味な服装の男性だ。

 横に張り出した平らな帽子を被り、白い手袋をしている。なぜか長袖の脇には切れ込みが入れてあり、下に着たシャツが見えていた。


(商人かな?)


 モノは、イザベラに言われたことを思い出す。

 商人はお金を数えたりする。だから、上着の袖に切れ込みを入れて、両手を長い袖からすぐに出せるようにしておくのだという。

 男性が近づくと、モノの鼻を、どこか覚えのある香りがくすぐった。

 ちょっと妙に思ったが、すぐに香水に紛れてしまった。


「お目通りが叶い、光栄です」


 商人らしき男性は、柔らかい笑みを浮かべる。色白で、目が細い。少し女性じみた顔立ちだった。

 モノは視線の端で、すぐに家族を探す。

 アクセルやイザベラは、領主とその家族への対応をしている。すぐにでも戻ってくるはずだったが、なぜか話が長引いていた。フランシスカは、街々の教会で説法である。

 いつも一緒のオットーも、今日ばかりは馬車で休んでいた。ネズミの体にこの行軍は、いよいよ堪えたようだった。


(援軍なし!)


 モノは緊張してしまう。猫の耳が、ピンと真上に立った。


「改めまして、私はテオドールと申します。フリューゲル公爵領で、長く塩の商いをしております」

「ど、どうも。ええと、私は」

「ああ、お気を煩わせてしまったようですね。あなた様のことは、存じております。フリューゲル公女シモーネ・モノリス様」


 テオドールは、楽しそうに目を細める。モノは警戒したが、話題はなんということのないものだった。


「教えてください、公女様」

「はい?」

「亜人は、何を食べているのです? 海水だけで生きられる亜人がいるというのは、本当ですか?」


 モノは、呆気にとられた。

 どうやらテオドールは、かなり好奇心が強い男性らしい。モノに話しかけたのも、商談というよりは、本当に単なる好奇心といった具合だった。

 魔の島での生活について聞かれ、モノはできるだけ正直に答える。

 テオドールの言葉は、まるで油だった。モノが言いたかったこと、ずっと話したかったことを、するすると引き出してくれる。


「亜人の方々が暮らす場所にも、やはり教会のような、学びを受ける場があるのですか?」


 モノは首を振った。


「いえ。みんなが、それぞれの親や兄弟から教えてもらいます。後は、同じ年に生まれた子供同士の集まりがあって、そこで教え合ったりとかですね」


 テオドールは興味深そうに、何度も頷く。ちなみに、このような集まりをモノ達は『年齢集団』と呼んでいる。


「私は、育ての親がとても物知りな人なんです。言葉も、精霊(イファ)のことも、その人から教わりました」


 言ってしまってから、モノは後悔した。

 ゲール人にとって、精霊(イファ)はまだなじみの薄いものだ。聖教徒であったりしたら、徒に怖がらせてしまうかもしれない。

 あれだけ人と会う練習をしたというのに、モノはついつい得意になって、話し過ぎてしまった。


「師、ですか」


 一瞬、言葉の温度が下がった気がした。


「……その方は、ひょっとしてオネという名前では?」


 モノは、驚きに目を見張る。男性にはその反応で十分だったようだ。浮かべた笑みは、獲物を捕まえた狩人のそれ。

 離れていた家族がモノの方へ戻ってくる。


「失礼を、無粋が過ぎました。私は、これで」

「え? ちょ、ちょっと待って」


 モノは呼び止めように思ったが、男性は見事な身のこなしで、館の賓客に紛れてしまった。足早なのに、誰にもぶつからない。風のような逃げ様だった。

 後には、香水の残り香だけが残る。モノはそこに、良い香りとはちょっと違う、やはり粉っぽい香りを嗅ぎとった。


「……どうしたの、モノ?」

「よく、分かりません。でも、失敗しちゃったかもです」


 近寄ってきた長女イザベラに、モノは首を傾げる。一言では説明しきれない相手だった。

 なお、長女はモノとは違い、大人用の見事な装いだった。艶やかな首元が出ていて、モノではとても太刀打ちできない色香を放散していた。


「モノ、そのままで聞いて」


 イザベラは、扇で口元を隠して、囁いた。


「マクシミリアン達が、どうやら聖壁を破って入ってきたみたい」


 モノは目を見開く。イザベラは鷹揚な笑みを崩さない。まるで楽しい話題を振るかのようだが、目つきは刃のように真剣だった。


「そのまま、なんでもない顔をしていなさい」

「は、はい」

「あなたにも扇が必要ね。今度買ってあげる」

「お姉様っ」

「さっき、騎兵が早馬で知らせてきたわ。どうやら、南部の中でも、私達から寝返った領地から侵入したみたいね。おかげで、聖教府にも、帝国にも、報告が遅れた。主がいない土地だから、情報が錯綜したのでしょうね」


 マクシミリアンは、南部の混乱を突いてきたということかもしれない。


「『亜人学派』。連中は、そう名乗っている」

「ガクハ?」

「学者の集まりが使う言葉よ。まぁ、ようやく連中に名前がついたってところ」


 モノは息を呑んだ。ウォレス自治区での出来事が蘇る。彼らは、明らかにモノを狙う動きをしていた。


「……今いる位置は、分かるんですか?」

「見失ったそうよ。薄々は分かっていたけれど、マクシミリアンにも帝国内に協力者がいるのね。私達みたいに」


 イザベラは、周囲を確認しながら、付け加える。


「それに、聖壁が破れた辺りに、嵐が来たらしいの。それで、行軍の跡が軒並み分からなくなったそうよ」


 嵐、とモノは呻いた。

 結局その夜は、すぐに領主の館を後にした。テオドールという商人も探してもらったが、彼が見つかることはなかった。どころか、招待された客の中にも、そのような名前の商人はいないという。


(何だったんだろう?)


 不安なことがあっても、次の予定は執行される。月が沈み、太陽が昇る。

 モノ達は翌日、実家のあるサザンの城壁へ入城した。


 入城の日、天気はどんよりとした曇天だった。本当に嵐でも来そうだな、とモノは馬車から空を見上げる。

 モノの生家は、すぐそこだった。


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