3-5:嵐の前
「頃合いですね」
大柄な神官、マクシミリアンは呟いた。都市であれば、深夜の鐘が鳴る頃だろう。聖ゲール帝国の国境沿いの浜辺には、雷雨と波濤の音が轟いている。
並の者なら身をすくませ、雨と風から身を守ろうとするだろう。しかし、この神官には無用だった。岩山のような巨体は、嵐の中に超然と佇んでいる。雨に濡れた旅装が強い風にはためくが、神官は微動だにしなかった。
まるで彫像だ。顔つきもまた、彫り込まれたような柔和な笑みを浮かべていた。
「彼女に合図を」
マクシミリアンは手にした錫杖で、部下に指示を送る。
ほどなく炎が焚かれた。燃料による炎は、風雨をものともせず燃え盛る。炎が激しくなるにつれ、遠くで起こる雷鳴もまた、激しさを増していった。
炎と雷が、夜雨の中を照らし出す。
現れたのは、地獄のような光景だった。まっとうな感性の持ち主であれば、思わず目を逸らしただろう。地面は無数の亡骸で埋め尽くされ、持ち主を喪った武具を夜の雨が洗っていた。
(痛ましい)
マクシミリアンは、首を振った。死者の安息を願う秘跡を執り行い、審判における慈悲を光の神に請うた。マクシミリアンのような神官は、光の神を信奉する『聖教府』に属している。
(いや……)
属していた、と言うべきだろう。今は袂を分かっている。
マクシミリアンの仲間も、聖教府の教義に沿っているとは言い難い。なにせこの惨劇を引き起こしたのは、マクシミリアン達なのだ。
視線を遠くへ向ければ、死体で舗装された荒れ地を、黒い影が無数に歩いてくる。闇に溶け、闇を歩く者達。亜人と呼ばれる、獣のしるしを持つ者達だ。
「マクシミリアン殿」
一人の亜人が、足早に近づいてきた。
褐色の肌に、ざんばらの黒髪が濡れて張り付いている。黒々とした瞳だが、時折青く閃いた。極彩色の仮面が、腰の辺りで風に揺れている。
確固とした足取りが、身体の強さを感じさせた。
「ラシャですか」
「よくわかりましたな」
「あなたの姿は、遠目にも分かりやすい」
白狼族の亜人、ラシャは獣の耳を持っていない。普通のゲール人と同じように、頭の横に潰れた形の耳を持っていた。そのためマクシミリアンには、遠目にもラシャという亜人だと知れたのだった。
獣の耳を持たない白狼族は、珍しい。
「いいのですか?」
「何がでしょう、ラシャ」
白狼族の亜人は、短槍を地面に突いた。空を見上げる。
「ギギは惜しいのでは」
「仕方がありません。どうも、近頃の我々のやり方に納得がいっていないようです」
二人は上空を見上げていた。正確には、上空にいる、ある娘のことを。
「それに、これは誰にでも任せられる仕事ではありません。少なくとも、精霊術師でなければならない」
雷鳴が轟いた。ほとんど二人の頭上で起こり、遠くの情景まで浮かび上がる。
二人がいるのは、浜辺の近くだった。海岸には無数の船が乗り上げている。陸地の方には、周囲を取り囲むように大鷹族のテントが並んでいた。
「彼女は亜人の集落まで襲ったことを、悔いていました」
マクシミリアンはラシャへ告げた。
「食料を奪ったこと、ですか?」
「ええ。以降、公然と指示に反するようにもなりましたし、もう潮時なのでしょうねぇ」
ラシャは黙り、小さく頷いた。
「私達は、すでに決起しました。軍勢には、糧食が要ります。人はパンのみのために生きるわけではありません。が、パンを不要だという人もいない」
兵糧の確保、節約の方法。それは、その土地で暮らしている者から奪うことだった。そして聖ゲール帝国の周辺に棲む弱いものには、細々と暮らす亜人達も含まれる。
マクシミリアン達は、武威に優れた亜人を率い、弱い亜人を潰した。弱者を喰らい、強者をさらに強くしたのだ。
「本当に弱い亜人からまで、食料を奪う必要があったのですか?」
ラシャは問う。非難しているのではなく、あくまでも確認するといった口調だった。
マクシミリアンは頷いた。
「はい。それに、亜人の集落にしかいないものも、集めなければなりません」
マクシミリアンの柔和な笑みが、にわかに真剣みを帯びた。ラシャも表情を引き締める。
ラシャは五日ほどの間、白狼族の戦士を率いて別行動をしていた。襲った集落の一つ一つを、隅々まで捜索するためだった。彼はその報告のために現れたに、違いなかった。
「合流まで、大儀でした。捕らえた中に、精霊術師は?」
「何人か。力は、弱いようです」
「それでも、素晴らしい。彼らは多ければ多いほど、いいのですよ」
亜人の集落を探せば、精霊術師は見つかるものだった。集落に一人は精霊術師がいて、医師や学者など、知恵者を兼ねているのが亜人の集落の習いなのだ。
「我々の精霊術師は、残念ながら、これから一人減りますし。丁度いいでしょう」
マクシミリアンは空を見上げる。嵐の雲の中に、一瞬だけ、影が見えた。巨大な三角形の翼のようだった。
それも一瞬で、すぐに黒いもやに呑まれてしまう。まるで雲が意思を持って、影を覆い隠したかのようだった。
「亜人公女では失敗しましたが、今度は成功したようですしね」
マクシミリアンはくつくつと笑う。
一際強い雷鳴が起こった。
「いよいよです」
マクシミリアンが、内陸を指さす。聖教府の奇跡『聖壁』が、聳え立っていた。
上空では、透明な壁が時折雷鳴の輝きを照り返している。雨が聖壁にぶつかっては、はじき返されていた。
「この奇跡は、嵐も通さないのか」
「通常の嵐は、通します。しかし今我々の頭上にある嵐は、特別なものですから。聖壁が反応し、拒んでいるのですよ」
透明な防壁、『聖壁』に隔てられた内陸部の夜は、穏やかなものだった。内陸の空には、月さえ見えていた。
「……こうして、この国はずっと平穏だったわけですか」
「ええ。あなた方亜人を、国土から追い出して、今見えるような平穏を生み出しました。それも、今日までです」
嵐が、動いた。渦巻く雨と風が、聖ゲール帝国を覆う奇跡――聖壁にぶつかり、派手な火花を散らす。
聖ゲール帝国の奇跡『聖壁』は、亜人の侵入を許さない。
亜人を恐れ、忌み嫌うゲール人達の意思が、そのまま亜人に対する斥力として働いているのだった。
我慢しきれなくなった亜人達が、マクシミリアンとラシャを追い越して、聖壁に向かって殺到する。ほとんどが雷に打たれたように痺れ、後ろへ吹き飛ばされた。聖壁がある限り、亜人は帝国へ入れないのだ。
「改宗の印を!」
マクシミリアンが、叫ぶ。亜人達は腕に巻いた青い布を掲げた。
「これは、聖教への改宗を示す印! 思い出してください! あなた方は、もう、亜人でありながら、聖教徒でもあるのです!」
奇蹟『聖壁』は、異なるものを排斥する奇跡である。
マクシミリアン神官は、その性質に知悉していた。
亜人とはいえ、信仰を同じくする聖教徒であれば、聖壁の反発力は半減するはずだった。亜人達はマクシミリアンの説法により、反乱に参加するほぼ全員が聖教徒へと改宗している。
もっとも、それは聖ゲール帝国内で信仰されている本来の聖教とは違う。
マクシミリアンが探求し、突き止めた、精霊を敬う亜人達の宗教観に合わせた、新しい聖教だった。
「我々は、探求したのだ!」
大柄な神官は叫ぶ。巌の顔から笑みが消えた。
「さぁ! 聖壁よ、元の住人たちへ、扉を開きたまえ! ここにいるのは、同じ聖教徒だぞ!」
大柄な神官は、腹の底から声を出す。
声は雷鳴と一緒くたになって轟き、世界を揺るがす。
上空のせめぎ合いは、激しさを増す。嵐の風と雨が、次々と聖壁にぶち当たる。単なる風ではない。聖壁を打ち破ろうとする心の力が――マナが込められた嵐だった。
「おお!」
亜人達が、目を見開く。
獣の革と赤い布で着飾った大鷹族。極彩色の仮面を被った、白狼族。大柄で、巨大な戦斧を持ったのは牙猪族。中には件の亜人公女と同じ山猫族の姿もあった。
ありとあらゆる亜人の氏族が、聖壁の変化に目を見張る。
「聖壁が、歪むぞ!」
好戦的な亜人達は、常に聖ゲール帝国へ返り咲く道を探していた。その道が今まさに、開かれようとしている。
大きな音を立てて、聖壁の一部にヒビが生まれた。ヒビは悲鳴のように軋んで、聖壁の耐力が限界を迎えつつあることを告げた。
「全員、前を開けろ!」
ラシャが吠えた。
マクシミリアンは、大柄な体で前進する。手に持った錫杖に、渾身の祈りを込め、聖壁のヒビを打撃した。
一瞬の静けさ。マクシミリアンには、全ての音が消失したように感じた。
――なんということを。
頭の中に、声が響く。聖壁に込められた、ゲール人の意思の一片かもしれない。
構うものか、とマクシミリアンは哄笑する。
進め。探究しろ。
我々は、ずっとそうしてきたのではなかったか。亜人も、ゲール人も関係がない。進歩しようとするものこそ、『人』の名に相応しい。
「おおお!」
聖教府が数十年に渡って維持してきた、巨大な奇跡『聖壁』。今初めて、穴が空いた。
それも、神官の手によって。
「……道は、開かれました」
静けさは、一瞬だけだった。マクシミリアンの言葉で、亜人達は聖壁へ殺到した。
「目指すは、帝都ヴィエナ。聖教府と帝国の中心に、我々の目指すものがあります」
マクシミリアンは、優し気に傍らのラシャを見やった。
辺りには、残滓のような光の粒が漂っている。それも雨に打たれて地面に落ち、消えた。
「さぁ、急いで進軍を! 聖壁が消えたのは、この海岸周辺だけの一時的なものです! 行動が遅れれば、帝国から援軍が来るでしょう!」
マクシミリアンは、そう叫びながら聖壁の消えた関所を通過する。奇跡の効力が失われたため、関所はもはや単なる石造りの建造物に過ぎない。誰何する門衛も、もはや全員死んでいる。
関所を通り抜けると、こちらに向かって手を振る、ローブ姿の男達が見えてきた。彼らの持つランプの光が、夜雨の中にぼうっと浮かんでいる。
「あれは……」
ラシャの呟きに、マクシミリアンは笑みを浮かべた。
「あれが、ここからの案内人ですよ。ここから、少し急がなければなりません」
亜人の公女もまた、じきに聖壁を越えるだろう。どちらが早いか、まずは争わなければならなかった。




