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3-3:炊き出し

 モノは庁舎の二階から、広場を見下ろした。

 幾つもの天幕が張られ、煮炊きの用意がされている。白い煙が夕焼けの色に染まって、まるで広場に村が出現したかのようだった。

 視線をもう少し遠くへ向ければ、続々と進んでくる、人、人、人。手にはお椀を持っている。

 彼らは天幕に近づくと、食事をもらい、思い思いの場所で憩うのだ。お椀に盛られるメニューは、豆を煮たものや、黒パン、そして干し肉と野菜を茹でたスープ。フリューゲル家が総力を挙げてかき集めたものだった。


(すごいなぁ)


 モノは息を吐いた。

 今までフリューゲル家の家柄とか、その財産とかは、漠然と感じるだけだった。だがこうして目の前にある炊き出しを見ると、実感も湧こうというものだ。


(えーっと、イザベラお姉様がお金を集めて、アクセルお兄様が実際に人を動かして、フランシスカお姉様が……)


 今行われているのは、自治区の被害を見舞うための炊き出しだった。

 モノは猫の亜人として、ピンと耳を立てて、夜目を利かせた。

 広場には多分、二、三百人は集まっているだろう。

 自治区の港が一番被害を受けたというのは、特に市民の食卓を直撃したらしい。一時的とはいえ、物の流れが滞り、市場から食料が減ったのだ。

 モノ達は住民達が食事に困っているというのを聞いて、襲撃のあった数日後から炊き出しの準備をしていた。


「まだ残っていたのか」


 オットーのネズミが、窓枠に乗った。紫の色のトサカが、モノの鼻先で揺れていた


「みんな心配している。屋敷へ戻るべきだと思うけど」

「はい。でも……」


 モノは、じっと広場を見つめた。広場には、ぽつぽつと人影が増え始めた。炊き出しのお椀を持って、人々が広場にたむろしている。

 亜人が並ぶ列と、ゲール人が並ぶ列が分かれていた。これは、仕方がないのかもしれない。獣のしるしを持つ亜人と、ゲール人の間には、どうしたって差異が生まれるのだ。


「尻尾が生えているのは、地鼠族。牙があって、体が大きいのは猪牙族……」


 モノは知っている亜人の氏族(オボド)を諳んじた。知識はこうして点検しないと、すぐにダメになってしまう。

 モノは何かを振り払うように、ぶつぶつと呟いた。


「気になるかい」

「はい」

「ふむ。まぁ、確かに炊き出しが気になるのも分かるけど」

「それも、そうなんですけど……」


 モノが気にしているのは、別のことだ。


『あなた達が亜人を拒むのは、まだ私達をよく知らないからです!』

『それは、きっとこれからでも解決できます!』

『だって、亜人とゲール人が、家族にだってなれるのだから!』


 あの場では義務感と、高揚感からそう言った。言って、しまった。

 だが庁舎での面会が終わり、静かになると、モノは悶々とすることになった。


(私って、そんなこと言っていいのかな?)


 そんなによい子か? 知識はあるのか? というか、勢いで広場に出たが、それがそもそもよくなかったのではないか?


(ううー!)


 行動には、責任が伴う。島でさえ当たり前だった事実を、モノはひしひしと感じていた。

 後悔するくらいならやらなければいいのだが、どうもモノの中には、追い詰められた時に燃える、油の塊があるらしい。内側で燃える熱が、モノを行動にかき立てるのだ。

 モノが屋敷に帰れないのは、要は自分が行動した結果を、見届けたいからである。


「気にするということは、君は十分に注意深いということだよ。過剰に心配することはないさ」


 オットーは、優しくモノを慰めてくれた。


「見てごらん。君の仕掛けも、上手く行っているようだ」


 モノは炊き出しに、亜人の食物も出していた。イモの粉をこねて蒸す、フフという食べ物である。魔の島でも作られていた、亜人にはなじみ深い料理だった。


「あ、本当だ。食べてもらってる」


 モノは、ほっと息を吐いた。安堵は、やがて喜びに変わる。

 なんとフフを口に運んでいる中には、ゲール人もいたのだ。非常時だから、食べられるならなんでもいいという人もいよう。それでも、嬉しかった。


「それにしても、よく材料が見つかったものだよ」

「そこは、ほら。大鷹族が残していったものがありましたので」


 フフの材料は、ヤムイモなどのイモの粉である。粉を茹でて粥上にして、そのままイモが持つ粘り気のままに固めるのだ。イモ独特の味わいがあり、モノにとっては海の魚と並び、故郷の味と言えた。

 なにより――


「簡単な割に美味しいんですよ、あれ」


 ただ、粘りのある食感は、ちょっとしたクセがあるが。


「君は、生活に根差した知恵を持っているんだな」


 オットーが感心した。モノは嬉しかったが、広場を見回して、ため息も吐く。


「やっぱり、神官は来ていませんね」


 広場のどこにも、あの背の高い帽子の姿はない。

 モノは亜人を喝破した神官たちに、今夜の炊き出しへ来るように請うていた。どんなに拒んでも、食べ物は裏切らない。あの仏頂面の前に、出来立てのフフを差し出したら、どんな顔をするか見てみたかったのだ。


「モノ。人はそんなすぐには、変わらない」

「かもしれませんけど。あれを食べれば、ちょっとは亜人が悪くないって、考え直すと思うんですよ。美味しいんですから」


 モノは猫の耳を動かして、観察を続ける。


(そうだ)


 周りが許す限り、自分の正しいと思うことをしよう。それが自治区の騒乱で学んだ、モノの態度だった。

 モノはやっと気を取り直した。腕を組んで、勝気に笑う。


「……そりゃ私が食べたいっていうのも、ちょっとはありますけどね」

「やれやれ。君は策士だね」


 そう言って顔を見合わせる。自然と、二人して笑った。モノの鼻が、芳香を嗅ぎとったのはその時だ。


「ここにいましたか」


 フランシスカだった。白い法衣に身を包んだ次女は、今は伴を連れていない。相変わらず高い帽子を被り、モノと同じくらいの身長であることも相まって、服に着られているようにも見えた。

 代って彼女の後ろからやってきたのは、他の兄妹だった。

 燃える赤髪の熱血漢、長兄のアクセルが巨体を部屋の椅子に落ち着ける。

 銀髪の美女、イザベラは使用人に何ごとか指示を出し、アクセルの隣に座った。一度化粧を直したのか、昼間よりはちょっとだけ柔らかい顔つきになっていた。


「お揃いですな」


 家令のヘルマンが最後にやってくる。武人然とした壮年の声に、アクセルが頷きを返す。

 扉が閉ざされた。

 モノが会ったフリューゲル家の、そろい踏みであった。


(急に、なんだろう)


 モノは息を呑む。オットーがモノの肩から降りて、空いている席へ歩いていった。


「さて、公女シモーネ・モノリス」


 フランシスカが口火を切った。


「いきなりですが。明日、聖壁を越えて、自治区を出ます」


 モノは驚いた。急な話過ぎて、継ぎ足す言葉が出てこない。

 フランシスカはテーブルの上に地図を置いた。羊皮紙製の、古いものだった。丸い版図を持つ帝国と、その周辺に点在する亜人達の棲家が描かれている。


「これが、現在の大陸の地図。私達はここ、南の端にいます」


 フランシスカの指が、北へ滑った。


「まずは、南部の中心、サザンへと向かいます」

「さ、サザン? どこですか?」


 フランシスカが沈黙した。雄弁な沈黙だった。ジロリ、と次女の視線が家族へ向かう。


「お兄様方」

「ふむ?」

「聞き間違いでなければ、私達の妹は実家の場所を知らないようなのですが」


 今度はモノが驚く番だった。

 銀髪の美女イザベラが頬を搔き、赤髪の巨漢アクセルが何度も頷く。


「そう言えば、それは説明してなかったわね」

「些末な問題であるな」


 フランシスカが肩を落とした。


「やはり、私がしっかりしなければ……」


 次女は気を取り直したようだ。


「サザンは、南部の領袖フリューゲル家の中心地。公女シモーネ・モノリス、あなたが生まれた場所でもあります」


 生まれた場所、と言われてモノはなんだか変な感じだった。

 モノを作ったのは、魔の島の土と太陽だ。だけど確かにモノはこの丸い国土の国の中で、生まれたのだろう。


 ――生まれた、場所。


 水面に落した石のように、言葉が波紋を広げる。波紋は心に残った不安や、疑問にぶつかって、一時は忘れていたものが澱のように心の中で舞った。


(今は、とにかく先のことを考えないと)


 モノは言い差す。


「あの、確か私はここで人に会った後、宮廷へ行くのでは? 地図の上だと、サザンはちょっと遠回りになりそうですけど」

「予定変更です。まずは、生家に寄ります」


 フランシスカはすでに決意を固めているようだった。

 他の家族を見やるが、彼らは無言で頷いた。すでに次女から事情を聴いているらしい。


「ごめんなさい、公女シモーネ・モノリス。私がこうまで急いであなたの元へやってきたのは、本当はこの件があったから」

「でも、どうして」

遺言(ゆいごん)です」


 モノは目を丸くした。


「遺言? 誰の?」

「フリューゲル公爵。我々のお父様の遺言です」


 決まっているでしょう、とでも言うかのようだった。

 フランシスカは、捲かれた書状を取り出す。書状は青色の紐で綴じられていた。


「遺言とは、死後の財産や政策について、意思を残すためのもの。貴族であれば公に記録された遺言を残しておくのが当然ではありますが……」


 フランシスカは、書状を紐解く。読み上げるつもりのようだ。


「ちょ、ちょっと、待ってください」


 モノは慌てた。モノは父親の顔を見たことがない。声も知らない。今でこそ、こうして兄妹と出会えたが、遺言を聞くのを反射的にためらってしまう。

 慣習の違い、とでも呼べるのかもしれない。

 亜人にとって、死者からの言葉は重いのだ。それは祖霊からの言葉。精霊(イファ)の力を借りる者であれば、なおさら重たい意味を持つ。

 死者の言葉とはある種の枷なのだった。受け入れるには、覚悟が必要だ。


「こ、心の準備というやつが」

「心配には及びません。私達もまだ、内容は知らないのですから。すぐに明らかになることもないでしょう」


 え、とモノは思った。

 フランシスカは、手紙の内容を読み上げる。儀礼的な長い長い前置きがあったが、要約するに、趣旨は一つだけだった。


 ――双頭の鷲の子らよ。サザンへ行き、我らと会いたまえ。

 ――公爵からの言葉を伝えよう。


 モノは眉をひそめた。

 差出人の名前も、面会を希望する人の名前も出てこない。出所不明の文書と言えた。


「そ、双頭の鷲の子?」

「フリューゲル家の家紋です。双頭の鷲の子とは、つまりは私達のこと」


 まるで亜人の氏族(オボド)みたいだ、とモノは思った。亜人は白狼族や、大鷹族など、動物の名前を一族に掲げるのだ。


「我々を呼んでいるということだな」


 アクセルが腕を組んだ。長兄は幾らかの間、目を閉じていた。

 いつも大きな口を開けて笑ったり、話したりする兄だが、そうしていると貫禄が滲み出ている。軍略を練る将軍、といった風情だ。


「のう、フランシスカよ。念のため尋ねるが、偽物や、罠の可能性はないか?」

「お父様からの書面も、原本で同封されています。学識も確かなものです。お父様はいずれ名のある方に、遺言の引き受けを頼んだのでしょう」

「お姉様。引き受けって?」

「誰かに遺言を預け、然るべき時に、親族に渡す役目です」


 フランシスカは顎に手を添えた。


「現状では、遺言の中身は分かりません。秘密の情報か、何らかの仕事の引き継ぎか」

「曖昧な情報ね」


 イザベラの指摘に、フランシスカは頷いた。


「おっしゃる通り。ですが、協力者であれば、思わぬ味方ということになります。罠であっても――お父様の書状自体は本物です。裏を確かめる必要があるでしょう。家族の誰にも、この遺言を伏せていたという事実も含めて」


 モノは息を呑んだ。ぎゅっと机の下で拳を握る。


「事情は、呑み込めましたか?」


 モノは頷いた。


「結構です。帝国の中は、今は荒れています。危険に遭遇する覚悟だけは、しておくように」


 モノの心で、不安が渦を巻いた。

 自治区にやってきた当初に見た、数々の文字。財政赤字、農業収穫量、聖典、そうした知らなければいけない無数のこと。自治区を襲ったマクシミリアン神官のような、具体的な脅威。

 なにより、あの黒いもやだ。


(あれがもう一度出てきたら)


 一度は、鎮められた。だが、あれで終わりだという保証はない。聖ゲール帝国においてさえ、あんなものが観測されたことはないらしいのだ。もはや、一種の災害である。


「案ずるな。我らも、兵力を拡大する余地はある。そうだろう、公女よ」


 アクセルが頷く。モノは何度か息を吸った。

 胸に、熱がある。


「行きましょう」


 モノは家族を見渡す。確かに覚悟が要った。

 だけどどいうわけか、覚悟が要るという事実が、モノを奮い立たせた。


「私達の、家へ!」


 アクセルとイザベラが、満足げに頷く。オットーも小さな手で拍手する。フランシスカが微笑を浮かべ、言葉を継ごうとした時――ぐぅぅぅ、とお腹が唸った。

 外からは、絶えず炊き出しのよい香りがただよってくる。

 モノは椅子に座り直した。

 沈、黙。

 耳まで赤くなりそうだった。


「……まったく。緊張感のない子です」


 フランシスカが嘆息する。呆れたようでもあったし、不思議なことに、どこか救われたようでもあった。

 一族は短い団らんに向けて、食事をとることにした。



     ◆



「貰ってきました!」


 フリューゲル家の食事もまた、炊き出しと同じ内容だった。庁舎の台所で、モノは食事の準備を手伝う。といっても、炊き出しの料理を少し分けてもらうといった程度だが。

 市場で鳥が手に入ったようなので、モノは手ずから捌いてしまおうと思ったが、さすがに服が汚れるからやめた。神官のフランシスカは、あまり肉食を好まないようでもある。


「不思議な子ですね」


 神官のフランシスカは、モノからもらったフフを噛んだ。食べ物を飲む、という行為がなかなかどうして難しい。

 家族達にフフを振る舞いながら、亜人の公女は力説したものだ。フフは、なるだけ噛まない方がいい。フフを噛むのは獣のやり方だとして、行儀が悪い。そして実際のところ、とろみのある塊を喉に流し込んだ方が、ずっとずっと美味しいのだと。

 考えてみれば当然のことだったが、炊き出しに出されたフフは、この亜人の公女が製法を直伝したものだった。


「母さんは、慧眼だったな」


 オットーのネズミが、フランシスカの足元で、同じようにフフを食べていた。ネズミがお椀から行儀よく小さじでフフを掬い、口に運ぶ様子は、不思議な愛嬌がある。

 他の家族、イザベラとアクセルは少し離れたところで、同じようにフフと格闘していた。


「何のことです?」

「名前さ。モノリスという名前には、意味があるんだよ」


 フランシスカは首を傾げた。


「……そうか。モノが生まれた時」

「私はまだ、二歳です。お兄様達のように、あの子への記憶がないのですよ」

「モノリスという名前を混ぜたのは、母さんの発案なんだ」


 モノの名前は、『シモーネ・モノリス』という。シモーネがゲール人としての名前。他の家族と違い、『モノリス』とは亜人の集落で暮らすための名前だった。

 『モノ』という亜人らしい短い名前を、強引に帝国の女性名の形に変えたのだ。フリューゲル公爵夫人、つまり母がそうしたというのである。


「『モノ』という名前には、意味がある。古い言葉で、『一つ』を意味する」

「ふむ」

「君が帰ってきた。そのおかげで、少なくとも家族はもう一度、一つに纏まることができた」


 オットーの言葉に、フランシスカは肩を竦めた。庁舎の中庭で行われている、小さな団らんの風景である。

 勿論、各所に警備の騎士が張り付き、完全に気を許せる気配はない。それでも、家族そろっての食事は、随分と久しぶりだった。


「あの子が、家族を再び結びあわせたと?」


 騎士、商人、魔術師、神官、そして異民族。フリューゲル家は、子供達をそれぞれの分野に分けて育てた。どんな時代になっても家が生き残っていけるようにという狙いだったが、それは兄妹同士を引き離すこともであった。

 幼い頃から聖教府にいたフランシスカは、それを実感している。


「ロマンチストな見解」

「たまには必要さ。自治区では、助かったよ。最後に落ちてきた雷は、きっと君が撃ったものだろう」


 聖教府の聖女は、ひそやかな笑みを浮かべた。

 聖教府は、強力な奇跡を放てる人物を、『聖人』又は『聖女』と呼んでいる。十七歳で聖女と呼ばれる彼女の正体は、その容姿と声で多くの信仰を集め、奇跡を放つ才媛なのだった。


「お気づきでしたか。別に、お礼を言われるほどのことではありませんよ」


 巨大な奇跡を放つ時、聖教府は付近で鐘を鳴らす。鐘が聞こえる範囲の信徒は、祈りを捧げ、奇跡のために微かな心の力を――マナを提供するのだ。


「信徒の多い場所であれば、離れた位置に雷を落すのは、そう珍しくもないことです。聖教府はこの力で、帝国の法を治めているわけですから」


 自治区襲撃の夜に飛行していた鳥は、フランシスカの使い魔である。奇跡で雷を落す前に、付近の状況を観測するのだ。元より、鳥には自分の位置や方角を正確に知る能力がある。

 このような高度な運用には、フランシスカに協力する信徒が、軍勢と呼べる単位で必要となる。が、一つの修道会を任された彼女にとって、人材は最大の問題ではなかった。


「大変なのは、これからですよ」


 フランシスカは言う。視線は、北の空へと向かった。

 夜空が、所々で真珠色に照り返す。聖ゲール帝国を囲う『聖壁』こそ、この帝国の頑なさの証左だった。


「私達の敵は多い。北部の貴族に寝返った、南部の貴族もいるでしょう。自治区を襲ったマクシミリアン神官も、今は居所が知れません」

「フリューゲル家が属する帝国南部と、利害で敵対する帝国の北部。そして、どちらにも属さないマクシミリアン神官」

「三つ巴。あのマクシミリアンの得体が知れないことが、不気味ですね」


 あの黒いもやの正体も、とフランシスカは付け足した。


「……最も遠くへ行ける者は、最も長い帰り道を行く者でもある」


 フランシスカは呟いた。オットーが首を傾げる。


「聖典の警句です」


 フランシスカは言う。


「モノリスの才能は、確かなものです。しかし巨大な術を行使するということは、危険なことでもあります」


 オットーは頷いた。自治区でモノが洪水を起こし、黒いもやのような、異形で、異臭の精霊と相対した時、確かに彼女には重大な変化が起きていた。

 彼女は、夢を見たという。

 大鷹族の暮らしや、無数の動物の記憶を。


「才能豊かな人は、才能に引っ張られて、どこまでも遠くへ行きがちです。しかし、心しておくべきは、遠くへ行ったということは、帰り道も長いということ」

「精霊術の、乱用は避けろと?」

「まさか」


 フランシスカは、笑った。


「帰ってこれるように、お兄様が見守ればいいのです。どこまで行っても、彼女が帰ってこれるように」


 オットーは嘆息した。


「君もさ」

「ほう」

「君も、家族なんだ。君が危ない時は、他の家族がきっと助ける。モノにも、そうしてやってほしいな」


 フランシスカは、しばらくの間、べちょべちょとフフを食べていた。


「この地位になるまで、戒律を守り、奇跡を起こし、長くやってきました。ここまで来て、負ける勝負なんて大嫌い」


 フランシスカは、うっすらと笑った。


「ふむ、まぁ、出世の邪魔にならない範囲で、承知します」


 その時、フランシスカはモノが庁舎から出てくるのを目にした。手には、空のお椀を沢山抱えている。


「おや。庁舎の中に、誰か?」


 オットーが目を逸らした。フランシスカは、不審に思う。

 不審は、段々と強くなった。モノが出入りする場所は、地下へと続く階段だ。しかも、お椀の量が尋常ではない。やがて使用人まで混ざって、食事を配膳したり、下げたりしていた。


「……お兄様。あの子は、誰に食事を届けているのです?」


 フランシスカは思う。地下。それは、罪人や、捕虜を一時的に留め置く場所だった。


 ――我らも、兵力を拡大する余地はある。


 長兄アクセルの言葉が、フランシスカの脳裏に過ぎった。


「まさか」


 聖女の顔が青くなった。聡明な彼女は、気づいたのだった。


「お兄様。聖壁の通過には、とてもとても、沢山の許可や手続きが必要です」

「……分かってる。でも、味方を増やすのも、大切な才覚だよ」

「まさか。将棋(ネファタル)じゃあるまいし。獲った駒を、自分の物に……!?」


 フランシスカはため息を吐いた。

 その日、彼女は明日の出発のため、ほとんど寝ずに書類を直す羽目となる。

 一足先に強行軍(デスマーチ)へと至った聖女を尻目に、件の亜人公女はぐっすり眠り、鳥と一緒に目覚める。月が沈み、太陽が昇った。


 『聖壁』を抜ける日が、やってきた。


補足:

モノの本名は、『シモーネ・モノリス・フォン・デア・フリューゲル』。

フォン~~が貴族の名前。なので『シモーネ・モノリス』がモノ本人を示す名前となります。

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