2-18:夜明け
モノとオットーを載せた水の虎は、自治区を走った。鼻が曲がりそうな臭いに、モノは上着の襟を鼻の上まで上げた。
「我々は、ここで」
ヘルマンとイザベラは、途中で別れた。モノ達は広場の近くの水門へと向かう。ヘルマンとイザベラは、広場で戦っている兄アクセルへ、モノの考えを伝達する役目を負った。
なお、先ほど助けた大鷹族は、騎士二人を伴わせて、ある場所へ隠れるように言ってある。今の自治区に、まともに捕虜を受け取る余裕がないからだった。
「まったく」
イザベラは頭を振った。彼女は、ヘルマンが駆る馬の後ろに乗っている。
「で、勝算は?」
「お兄様との合流さえ上手く行けば、大丈夫だと思います」
「原理的には、単純だ。おそらく成功するだろう」
長女はモノに微苦笑を投げる。
「これじゃ、私の出る幕がないじゃない」
本気で悔しがるイザベラに、モノは思わず吹き出しそうになった。どんな時でも余裕を失わない、しなやかさのある女性だった。
ふと、イザベラは目を細める。
「無事でね」
「お姉様も」
「なに、姉さんの活躍はこの後さ。そう、保険とか、自治区の債券とかね……」
「……言わないで」
イザベラが天を仰いだ。遠くから咆哮が聞こえる。
「では、参ります」
ヘルマンが馬腹を蹴った。モノは二人と逆方向に駆け出す。護衛の騎兵が、数騎だけモノに伴った。
もやに近づくほど、臭いはきつくなった。モノはオットーに道を尋ねて、もやの足元を迂回した。目指すは、『水門』だ。自治区の水の流れを変えたときに寄った、あの水門だった。
ひどい臭いの中に、涼やかな水の精気が混じり始める。
モノは円筒形の装置の前に到着した。相変わらずの、滝のような音。三十メートルほどの巨大な円筒形の装置は、水で満たされていた。
「さて、一仕事」
モノは手のひらを、水門に向けた。
精霊術師の力が起き上がる。目に見えない力が水に浸透する。肩から、肘。肘から、手。その先にある体の一部として、水を感じるイメージだ。指で物を掴む時、わざわざ狙いを定める人はいないだろう。自分の手足と同様に、ほとんど意識することなく水を願った場所に差し向けることができる。それが、モノという精霊術師だった。
「今回は、ただ水を集めるだけじゃだめだぞ」
「分かってます」
「圧縮だ。君は相手にぶつかると弾ける水弾を、作ることができるだろう。その思い切りでかいやつを作るんだ」
モノは、水を操ることに意識を集中させた。次第に、モノは自分の感覚が広がっていくのを感じた。
「精霊術の効果が及ぶ範囲を、『術領域』と呼ぶ。君はとても、それが広い」
ふと、脳裏に漠としたイメージが浮かぶ。
最初に思い浮かんだのは、自治区の人々のことだった。大鷹族と争ったモノを見上げて、彼らは安堵していた。
次に思い浮かんだのは、大鷹族のことだ。愛した土地から追い出され、貧しい辺境で暮らすことを余儀なくされた亜人達。
「魔力とは、心の力だ。とても広い術領域を持つ君は、多分……他の人のマナ、つまり心も感得することがあるんだろう。さっき君が見たという夢が、そうであるように」
モノの猫の耳は、周囲の音も敏感に捉えていた。白み始めた空に響く、怨嗟の声。
モノに知識はない。正しいことは分からない。
ただ共感し、心を震わせた。
自治区に満ちる無数の意思を、モノは感じ取り、彼らのために祈った。彼女ができることをするために。正しいと信じることのために。
「それは、信徒のマナをまとめ上げて、奇跡を放つ神官の素養だ。神官が信仰という基盤を借りてやる行為を、君は、自力でやっているんだろう」
やがて、水が像を成した。建物と言っていい大きさの、巨大な水球だった。水球を支えるように、周囲からは水の橋がかかっている。水の橋からは、新たなる水がもたらされ、さらに球を巨大にしていった。
――ミツケタ。
ぞっとするほど暗い声が、聞こえた。モノは後ろを振り返る。
少し離れた広場に屹立するもやが、モノの方に向かって、ゆっくりと傾いでいた。
「こっちへ来る」
「ま、まずいな。動けるかい?」
「い、今はとても」
水の虎、サンティがモノに向かって深々と頭を垂れる。
「サンティ?」
水の虎は、モノに背を向けた。もやはゆっくりと傾いで、大きくアーチを描くようにしてモノの傍へ降りてくる。
もやの中には、無数の貌が見えた。鷹、蛇、犬、馬――ありとあらゆる生き物の貌が浮かび上がり、消えていく。
サンティがもやに立ち向かう。
――精霊は、マナによる攻撃でしか傷つかない。
知識が、現実を理解させた。ぞっとした。
「駄目、サンティ!」
もやから、黒い腕が伸びた。腕はでたらめな動きでしなると、爪をサンティへ振り下ろした。
サンティはそれを回避し、もやへ肉薄する。咆哮。爪を振るって、黒い腕を千切った。
もやは一瞬だけ揺らめいた。
そして、徐々に明確な形を取る。髑髏の頭部。蛇のように細長い体。ムカデのように、体からは無数の脚が生えていた。ただし、爪があったり、翼が生えていたり、脚の種類は滅茶苦茶だった。ありとあらゆる生き物の姿を混ぜ合わせたような、異形だ。
モノは足が震えてくるのを感じた。島での、サンティとの別れを思い出す。
「明確な実体を得たんだ。サンティを攻撃するために」
オットーが呻く。
異形は、吠えた。空気が揺れる。水面に白波が立った。目に当たる位置には、青黒い炎が二つちろちろと燃えていた。
サンティが吠え、躍りかかる。
「退いて!」
体格差は明らかだった。ムカデはサンティの横腹に食らいつくと、水の虎を持ち上げ、地面に向かって叩きつけた。
激痛が走る。体の内側に釘を打たれたような、猛烈な痛みだ。息が詰まって、目がかすむ。知っているどんな痛みよりも、強烈だった。
「公女様!」
護衛の騎兵達が、異形のムカデへと向かう。槍が振るわれ、体の一部を削ぎ取った。しかし効果的とは思えない。
槍で突かれた箇所は、瞬く間に元に戻ってしまう。まるで吹き消された火が、再び火勢を取り戻すかのようだった。
「今日はこれで打ち止めだぞ」
オットーが唸って、ネズミの目を光らせた。オットーの鼻の先で、空気が歪んだ。
音の魔術の応用、空気の弾だ。
衣擦れのような音がして、空気の歪みが異形のムカデへと飛んだ。当たったのは、目に相当する位置だった。一瞬だけ苦しんだように見えた。
(こ、このままじゃ)
水の弾をぶつけてしまうべきだろうか。でも、まだアクセルがいない。作戦の準備が整う前に、敵に見つかってしまったのだ。
馬蹄の音。鋼を輝かせて、騎士の一団がやってくる。先頭は、全身鎧の騎士で、鎧の隙間から炎を吹き上げていた。
「お兄様!」
騎士達は馬蹄を鳴らして、モノと異形のムカデの間を遮るように行進した。
モノと異形との間に、騎士による壁ができた。傷ついたサンティが、ヘルマンに導かれて退避する。
異形のムカデは大きく身を反らして、威嚇するように騎士達を見下ろした。吐き出された息が、猛烈な悪臭を漂わせる。
騎士達の馬が怖れたように嘶いた。
「なるほどな」
下馬したアクセルは、モノが作り出した巨大な水球を見上げる。
広場は馬が走り回れるほどは広くないので、恐らくやってきた騎士達も、下馬して戦うことになるのだろう。騎士達の間を号令が行き交い、速やかに隊列が組まれていった。
騎士一人につき何人かの補佐がいるらしい。軽装の彼らが、主を降ろした馬を引いていった。
「鍵は、これか」
「は、はい」
「どうした。どこか痛むのか?」
「いえ、大丈夫です」
「ふむ……」
アクセルはモノに出血がないことを確かめると、水の球を見上げる。兄の態度は、どこか不安そうだった。
「兄さん。兄さんの火力は、敵を丸焦げにしたり、鎧を溶断できるほどだ」
「う、うむ。その通りだが」
アクセルは兜の後頭部を搔く。
「……オットー。本当にできるのか? お前は理屈をこねるのは上手いが、本番に弱い」
「この現象を起こすのに重要なのは、膨大な熱と、熱を持ったものが『液体である』という事実なんだ。兄さんの燃える血液という性質なら、まさしく打ってつけだ」
アクセルから目で意見を求められ、モノはあたふたと付け加えた。一人前に扱われて、少し嬉しかった。
「え、えっと。私の島なんですが、たまに地面から熱水が噴き出すんです。近くに火山があって、そこで暖められた水が、弾けるみたいに噴き出してくるんです。だから」
「うむ、なるほど。全くの思い付きでもないということか」
アクセルが剣を構える。次の瞬間、咆哮が空気を震わせた。
飛びかかる異形。アクセルがモノを抱えて、横へ飛んだ。異形の咢が、モノがいた位置でかみ合わされた。
異形のムカデは、すぐ傍にある水球を見やる。
(今なら)
モノは、水球を動かそうとする。だが、相手の動きは速かった。全身をたわませて、のたうち、暴れまわる。あっという間に水門の反対側へ回り込み、飛び上がり、騎士の隊列へ襲い掛かった。狙いが定まらなかった。
「この作戦、このでかい水の球を、どうやってあの動くものにぶつけるかが、問題になりそうだが?」
モノは頷く。本当は広場で、もやが動かないことを想定していた。こうまで暴れまわるのは、ちょっと予想していない。
「ふむ。なるほど?」
アクセルは、獰猛に笑う。
「古来より、火責めは兵法の常道よ」
アクセルが前に出る。兄の剣に、血液が纏い、火を噴いた。炎は長大な刀身を形成する。兄が地を蹴った時、ムカデもまた兄へ頭を向けた。
「こちらだ、精霊よ」
ムカデの顎と、炎の剣が打ち合った。炎はムカデの表皮を焼き、傷ついた部分が再び形成されることはなかった。
「効いてる」
アクセルは大笑していた。異形の腕と剣が打ち交わされる。供とする騎士達も加勢するが、最も有効なのは、やはりアクセルの攻撃だった。
炎は敵に纏わりつき、そのまま焼き尽くさんばかりだ。
「す、すごい」
「指揮を執るのが仕事だから、兄さんの強さが発揮されるのは、あまり褒められたことじゃないんだけどね」
「でも、すごい強さですよ。このまま倒せちゃいそう……」
ふと、モノは不安になった。
「でもあの炎は、お兄様の血なんですよね。血を失いすぎたりは」
「心配ない。兄さんの鎧は、特別製だ。あれは鎧の形をした要塞と言っていい」
オットーは言った。
「時たま、文様が輝くだろう? 僕が図面を引いて、妹のフランシスカが様々な術式を彫り込んだ。血を失っても、それが立ちどころに治癒するようになっている。飾りを余計に付けておいて、鎧の鉄分で血液を補充するようになってるんだ」
フランシスカ。モノの二つ上の姉で、まだ会っていない家族だった。
ムカデが目に見えて苦しみ始める。髑髏の眼窩から、液体が伝った。まるで血の涙を流しているかのようだった。
咆哮がやってくる。
肌が粟立つ。空気が揺れる。サンティが庇ってくれなければ、モノは壁に叩きつけられていただろう。
亜人が追い出されてからの、何十年分の感情の爆発だった。
ムカデが力を振り絞り、アクセルや騎士を薙ぎ払った。アクセルは吹き飛ばされ、水に落下した。その瞬間、周りの水が沸騰する。モノは慌てて水を操ると、水球の中にアクセルを包み込んで、溺れるのを防いだ。
「がはは、やるではないか」
引き上げると、鎧の隙間からじゃばじゃば水が流れてきた。その様子で、敵がモノの力に気づいたようだ。
ムカデはモノを見つめる。完全に狙いを定めていた。
その時、水門のある広場に、歓声が響いた。馬蹄の音は、聞こえない。代わりに人の足音と、武具の音が聞こえた。
「公女様を守れ!」
自治区の兵士達だった。騎士でさえない、槍で武装しただけの者もいる。広場で戦っていた彼らが、ここまでやってきたのだ。
「精霊だ!」
そう叫ぶのは、襤褸を纏った亜人だった。貧民窟から、わざわざやってきたのかもしれない。
「大鷹族が、我々の所へ来て、教えてくれたのです。公女様が、あれと戦うつもりだと」
降参した大鷹族を逃がしたのは、自治区の、亜人の貧民窟だった。彼らがそこでモノ達のことを話したのだろう。
――オオオ。
異形のムカデが叫ぶ。人々は畏れ、後ずさった。だが敵の視線がモノに向いたのを見ると、兵士は少しずつ前進する。
胸に熱いものが宿った。彼らを守りたいと、もう一度、強く思った。
彼らが稼いだ時間は、僅かに数分。その間に、騎士団の隊列が復活した。
のたうつ巨体を封じ込めるように、各人が足を狙う。態勢が崩れ、頭が下がる。アクセルがムカデの頭に、剣を突き刺した。
炎がまとわりつき、ムカデは苦しみだす。頭を振るが、アクセルはなかなか振り落とされない。炎はどんどん大きくなり、ムカデに纏わりついた。
「公女よ! 準備せよ!」
ムカデが、モノの方へ向く。正確に言えば、モノの後ろにある巨大な水の弾に。
火から逃れるのに、最もよい方法。それは生き物の本能だ。
精霊ならそれを知っていても、不思議ではない。
モノの後ろでは、水を溜めた装置が待っていた。
「や、やばっ」
モノは、慌てて避けた。
ムカデは己から水へやってきた。頭にまとっていた炎が、消える。だが、それは罠だった。
モノは全力を傾けて、水の球にムカデを巻き込んだ。渦に捉えられたように、ムカデの巨体が、同じくらい巨大な水の球に飲み込まれていく。中は、猛烈な水圧だ。
ムカデが暴れ、苦悶の声が聞こえた。水が濁り、異臭がする。
「お兄様!」
モノは、合図を出した。オットーが音の魔術を駆使して叫んだ。
「全員、伏せろ!」
アクセルが、剣を投擲した。圧縮された水弾に、燃える剣が突き刺さった。
圧倒的な火力を誇る、長男アクセルの血液に濡れた剣である。燃える血液は、一瞬で水を沸騰させる。水の中に無数の気泡が生まれた。
モノは咄嗟の判断で、水門を囲うように水の壁を立ち上がらせた。
凄まじい衝撃が来そうだったからだ。
「高熱の液体と、冷水がぶつかると、爆発的な沸騰が起こる。火山で山肌が吹き飛んだりもする。水蒸気爆発という現象だ」
衝撃がやってきた。マナの乗った炎と水。立ち上らせた水の壁が、一瞬で弾けた。
アクセルがモノを抱き、背中を水門へ向ける。音は自治区中、いや世界中を揺るがせたかのようだった。
哀しみと痛みが混じった苦悶の声を、モノは感得した。それこそが、敵に攻撃が通じた証左だった。
(お兄様が言ってたのは、こういうことなんだ)
火や水は、マナ、つまり心の力を載せるための触媒に過ぎない。爆発に込められたモノとアクセルのマナが、もやを象る情念を打ち砕いたのだ。
マナとは、心の力。情念を打ち砕き、解き放つのは、同じ人の心というわけだ。
静かになった広場。風が渡ってきて、モノの耳を揺らした。
――クルシイ。
ゆっくりと蒸気が晴れて、敵の姿が見えてきた。
黒いもやは消えつつあった。鷹や馬など、色々な動物の幻影が浮かんでは消えていく。
「終わった?」
安堵したした瞬間、オットーが叫んだ。
「いや、まだだぞ」
爆発で大部分は吹き飛ばせた。だが、まだ残滓のように黒いもやが水の上に残っている。もやは水を黒く穢しながら、ゆっくりとまた形を取ろうとしていた。
「あ、あれでもダメなの!?」
モノとて、限界に近付きつつある。精霊術でどれだけのことをしたのか、考えるだけで倒れそうだ。
助けは、空からやってきた。
鐘の音。自治区の中に、荘厳な鐘の音が響く。
モノは上を見上げた。真っ白い鳥が、モノ達を見下ろしながら、円を描いて飛んでいた。
「鐘?」
自治区の兵士達が、ざわめく。嗚咽が混じっていた。
「やった」
「鐘だ」
「聖教府の、奇跡の鐘だ」
空に、光が生まれた。夜空に白い一つ星が生まれ、やがて大きくなる。猫の耳が音を捕える。
粗布を裂くような、落雷の音なのだ。
「むぅ、『神罰』の奇跡か」
アクセルが唸った。
鐘の音は続いている。自治区の兵士達は、膝をついて祈り始めていた。
「聖女様の鐘だ」
轟雷が、再び形を取り始めたもやを、直撃した。もやは焼き尽くされ、吹き散らされ、一切の形を失う。中にあった様々な貌も、見えなくなっていく。
――クルシイ。
最後まで残ったのは、声だった。胸が締め付けられた。
――カエリタイ。
モノは胸に手を当てる。モノは水門の淵に這いあがると、手を前に伸ばした。
薄く、目を凝らさないと見えないほど薄く、動物の幻影が見えていた。精霊とは、マナでできた生き物だ。
水の虎、サンティが水面から現れて、モノを見つめた。
どうする、と問われているようだった。
「一緒に、来たいの?」
何かが水面をするすると渡ってきて、ちょん、とモノの掌に触れた。蛇や、馬、あのもやの中にいた生き物たちだった。ゆっくりと、そんな彼らも消えていく。もう敵意は感じなかった。
後に残ったのは、静寂だった。夜はすでに白み始めている。
水門の淵に立つモノを、アクセルや、騎士団、そして自治区の人々が見つめていた。
「お、終わった……? 今度こそ?」
モノは呟く。オットーのネズミも、ほっと息を吐いたようだ。大変な夜だったが、なんとか越したようだった。
快哉も何もない。大変すぎて、色々なことが起こりすぎて、きっとまだ誰も実感が湧いていないのだ。生き残った。死ななかった。そういう安堵だけが今はあった。
「さて、モノ」
オットーが言った。さすがに疲れた眼差しで、モノを見つめた。
「予想よりかなり派手になってしまったけれど……これから、忙しくなるぞ」
水門の淵に立つモノを、色々な人が見つめていた。やがて勝利と、公女を湛える声が自治区に満ち始めた。
奇しくも、夜明けだった。
大陸で迎える初めての朝日は、島のそれと同じように、美しかった。




