1-2:平和な島(後編)
モノが訪うと、長はすでに彼女を待っていた。
鍔のない緑色の帽子をかぶり、黒い布を羽織っている。浅黒く日焼けした肌には、皺が刻まれ、古い木を思わせた。実際、二十年以上、長はその地位にある。よいことも悪いことも、決断し、切り抜けてきた、尊敬すべき人物だ。
「長、参りました」
長の細い目が、入ってきたモノを見据えた。
モノは短剣を脇に置くと、慣習に従い白墨で床に線を引いた。自分で持ってきた魔獣の皮を敷いて、足を揃えて座った。
「モノよ。人を助けたそうだな」
長はそう切り出した。モノは緊張した顔で、頷いた。
大人同士ならククの実を割ってから話すが、モノはまだ子供という扱いなので、ククの実が出ることはない。
「はい。もう治療を受けています。お呼び出しに遅れて、申し訳ありません」
「大陸の男だそうだな」
長は、村人からもう報告を受けているようだ。大陸の男はすでに治療を受けている。もはや心配は無用だろう。
「はい。珍しいことです」
「そうだな。まったく……珍しい」
長は顔を曇らせる。モノは怪訝な顔をした。
「長?」
「いや、なに。気にすることはない。おまえが危険を省みず、滝壺から人を救い出す子供であることが、喜ばしいだけよ」
そこで、長は染み入るような笑みを浮かべた。
モノは神妙に頷いた。それでも、誉められてくすぐったい。
「に、にに……」
耳がぴこぴこ動いてしまう。本来は、とても厳しい人なのだ。
子供の頃の口癖が抜けないモノを、長はまるで見納めのような、優しい目付きで見つめた。
「時折は、おまえが男であればと思ったものだ」
実際、狩りでも作物でも、モノは村のどんな男をも越える働きをしていた。
「狩りでは、並ぶものなし。魔獣を狩るお前の名声は、火のように島中に広がっておる」
彼女は強力な魔獣を手懐けている。大きな、虎だ。サンティと名前をつけている、もう五年以上の付き合いだった。従える獣の格は、すなわち狩人の格だった。今モノが敷いている毛皮も、村を困らせる魔獣を、サンティと共に狩った時のものだ。
「作付けでも、助けられたな。お前の雨読みは、外れることの方が稀だ」
作付けでも、彼女は優秀だった。
雨の気配に敏感なのだ。土と共に生きる者に、これ以上の贈り物はない。豪雨によってタネイモが流されたり、初雨の後の日照りで苗が全滅したりすることを、モノの才能は防いでくれた。
「おまえには、よい精霊がつくだろう」
長は細い目を、さらに細めた。
(なんだろう)
さすがに、ちょっと褒めすぎだと思った。
いつもと違うのは、悪いことの前触れだ。とんでもない用役を言い渡されるのだろうか。それとも、まさかとは思うが、縁談だろうか。
「だがな。モノよ」
長は本題に切り込んできた。
「だが、たまには思い出さねばならん。おまえは、元々は我々のものではない。水の源を気にしない亀のおとぎ話を、昔、してやったろう。我々は、どこからか流れてきた水なのか、誰が流した水なのか、ちゃんと覚えている。それが恩を覚えておくということだ」
モノの眉が寄った。不穏な気配を感じた。
「水の源から、水に流されてしまった雛を返してくれと言われれば、返さねばならん」
「長?」
モノは言い差した。
彼女は、こうした話術を好まない。すぐに結論へ飛びつこうとする癖があった。
「……大事な話とは、なんですか?」
「大陸の男が来たのは、恐らく偶然ではあるまい」
長は、奥に向かって合図を出した。
「二日前、鳥が文を届けた」
年老いた妻に代わって、長の孫が書状を持って現れた。
書状は、精緻な装丁の巻物である。留め金に、双頭の鷲があしらわれていた。モノの顔が強ばる。
「双頭の鷲は、お前の生家の家紋」
「長、これって」
「まずは目を通すのだ、モノ」
モノは書状を確認した。島とは違う文字で書かれているが、すんなりと読めた。育ての親は、モノの教育に手を抜かない人だった。
「お父様が……亡くなった?」
「急だったようだな」
モノは頷いた。
でもどんな表情をするべきかは、分からなかった。
生まれた場所から離れて、この島でずっと暮らしてきた。本当の父や母とは、話したこともない。こうした文さえ、僅かな例外を除けば十年近く途絶えていたのだ。
大陸の人々は、モノ達のような獣の特徴を残す人を、『亜人』と呼んで差別している。この島も、『魔の島』と呼ばれていた。
「大陸の男は、お前への迎えだろうて。文を信じるならな」
「迎えって……」
長は腕を組んだ。
「……大陸のことは、我々には霧の中の山羊のようなものだ」
長は目を伏せ、答えを濁した。
大陸で何かがあった。それを察することはできるが、具体的には何も分からないのだ。
「島を、出るかも知れないってこと?」
モノは息を呑んだ。考えなかったわけではない。生まれを知った時から、ある日突然誰かがやってきて、モノを連れて行ってしまうという想像は、あった。
だって、そのようにしてモノはこの島に送られてきたのだから。獣の耳がある人は、大陸から閉め出されてしまうのだ。モノの人生は、初めからモノの意思の外で決まっていたのだ。
けれど、島に来て十年以上だ。あまりにも急で、あまりにも勝手だった。
「……そんな」
呆然と、モノは呟く。全てがまだ夢のようで、現実感がない。
「それに、かつての約束がまことであれば、おまえの家族も島に来ているかもしれん」
「家族が?」
「迎えがあるとすれば、家族の誰かがいく。そういう約束だったな」
モノは目を瞬かせた。
「……家族、ですか。カゾク」
口振りは不安げになってしまう。モノは、何度か言葉を繰り返した。初めて見る物体が、なんだか分からず、とりあえず棒でつつくように。
「話は、以上だ」
長はモノの頭をなでてくれた。
「オネに会ってくるといい。彼女であれば、こういう時の女がどうするか、よく心得ているだろう」
オネとは、モノの育ての親である。
大陸からの使いが来たのは、もう十年も前だ。当時はモノの母が直接島に来て、村中を驚かせたらしい。母は、とても身分が高い人だった。
母とオネの間には、どうやらかつて親交が存在したらしいのだ。大陸から亜人が閉め出される前のことなので、随分と昔になろうが。
「はい。お話ありがとうございました」
モノは長の家を後にした。でも、言われたとおりまっすぐ家には帰らなかった。
村の通りを歩く。市場が立つ日だったので、通りは賑やかだった。楽器を鳴らす男達に、貝殻を飾りにしてくれるお店。何度か声をかけられたが、モノはあいまいに手を振って、浜へと向かった。
水平線が、空と混じり合うところまで続いている。
海は、いつまでも見ていられる。
(島の外?)
モノは、うんと昔の気持ちを思い出そうとした。自分の秘密を知ったのは、あれはいつの頃だっただろうか。
かつて受け取っていた手紙は、やがて来なくなった。モノは、家族もまた自分を忘れようとしているのだと思っていた。
だからモノは、届いた手紙を納屋の奥にしまった。間違えて開いたりしないように。うっかり思い出すと、また傷ついてしまうから。
太陽はまだ高い。光で、猫耳の形の影が生まれていた。
「この海の、向こう側……」
呟きは、潮風にさらわれていく。
なんの変哲もないと思っていた海だが、今は違って見える。水平線の先には、モノにとっての未知が広がっている。
(家族なんて、今更……)
戸惑いと不安が、目の奥をツンとさせた。
モノは涙ぐんだ自分を、励ました。
(ダメだよ。しっかり、しないと)
強い娘であろうとすることは、モノの性格の根本だった。
強くあることが、辛い思い出を、モノを突き放した家族を乗り越えた証になるからだ。
「んに、大丈夫だ」
まだ呼び出された理由もはっきりしないのだ。意外と、すぐに帰ってこれるかもしれない。
褐色の手で目と鼻をぬぐう。裸足のまま海へ入り、景気づけに波を蹴ったり、腰飾りに使うタカラ貝という貝殻を拾ったりした。
しばらくそうしていると、妙に大きな波が来て、飛沫を頭に引っかけた。
「うわっと」
水の冷たさが、熱い頬を冷ました。するとモノはあることに気がつき、はっとした。
(そうだ)
どうしてこんなことを見落としたのだろう。
「長!」
モノは土煙を上げそうな勢いで、長の家へ取って返した。
髪を濡らして駆け戻ってきたモノに、長はひどく驚いたようだ。掴んでいた嗅ぎタバコが、取り落されてぱっと舞う。
「ど、どうした」
「先ほど、私が助けた方なのですが。大陸からの使いだというのであれば、なぜ怪我をしたのでしょうか?」
「まずは髪を拭け」
落ち着いてから、ふむ、と長は頷いた。威厳を取り戻そうとしたのか、何度かわざとらしく咳払い。
「そのことか。お前の心配は、分かる。毒で攻撃されたとすれば、島の誰かかもしれん。つまり、人間の仕業だ」
長は落ち着き払った、大人の目だった。
「だがな、モノ。思い出せ、今は平和週間だぞ?」
平和週間とは、島でありとあらゆる争いを禁止する聖なる時間だった。これは島全体の習慣であり、他の村でも同様に守るべきものだ。
もし大陸の男を、誰かが攻撃したのであれば、他の村に平和週間を破った者がいるということになる。
モノも、そのことを思い出した。
「……この時期の平和が破られたことは、かつてない。獣用の罠にかかった事故の可能性もある」
「で、でも……」
「不安も、当然だな。すでに男を集めて、争いに備えてあるさ」
長がそう言った時、村に太鼓が響きわたった。
戦いを告げる、狂ったような太鼓の音。村が攻められた時に鳴らされる音だった。
「こ、これは」
長が声を出した時には、モノはすでに駆け出していた。
「どこへ行く」
「家を見てきます!」
長が止めるより早く、彼女は消えていた。本物の猫のように、すばしこい娘だった。