2-17:堕ちた精霊
自治区は大混乱に陥っていた。
町並みの先で、黒いもやが屹立している。もやは緩く渦を巻きながら、上空に向かって伸びていた。巨大な生き物が、月に手を伸ばし、飲み込もうとしているように見えた。地鳴りのような音が夜空に響き、自治区の混乱に拍車をかけている。
(すごい大きさだ)
離れた場所からもやを見上げるだけでも、大きさに圧倒されそうだ。
鼻の奥に痛みを感じて、う、と顔を押さえる。臭いも、ひどい。亜人にはきつい環境だ。
――オオオ。
黒いもやから聞こえる咆哮が、モノの毛を逆立てた。
(あれが、精霊? 本当にそうなの?)
精霊とは、故郷の島ではイファと呼ばれる存在だった。
モノは、先ほどの夢を思い出す。
大鷹族の人から、あれが精霊だと教わった。ゲール人が亜人を追い出したことで、精霊を迎える人がいなくなり、あのような姿に堕したのだという。
(な、なんで? どうして、あんなのが)
分からない。ぎゅっと胸の前で手を握る。異常な体験の連続で、心臓が跳ね回っていた。
(そもそも、さっきの夢は、何なの?)
精霊術は、生き物と心を通わせる術だ。
心を通わせた人間がいるからこそ、死んだ動物は隣の世界から、精霊となって帰ってくるのだ。モノにとって、水の虎サンティがそうであるように。
「お前、分かる?」
問うても、水の虎は喉を鳴らすだけだった。
島からずっと一緒の虎は、背中にモノを乗せて自治区を走る。兄が残した騎兵が、モノの周りを守っていた。時折、避難してくる住民がモノ達を遠巻きに見つめていた。
「お、お兄様」
モノはオットーを呼んだ。肩口から、ネズミがモノを見つめる。
でも続く言葉は、曖昧になる。どう説明していいか、分からないのだ。
「え、ええと。なんと説明していいか」
「言わなくてもいい。君は、夢を見ていたんじゃないか?」
驚いた。思わず、肩口にいる兄を見つめ返す。
「島の時と同じだ。君は、とても才能に恵まれている。オネは共感の才能と言っていたけれど、多分、精霊術士としての素養が抜きんでているんだ。だから、あの異様な精霊にも影響を受けたんだろう」
オットーもまた、あの黒いもやを精霊と呼んだ。
深く呼吸することを意識して、気持ちを落ち着かせていく。オットーの知識は、いつだってモノの味方だ。
「お兄様。やっぱり、あれは精霊なの?」
「ああ。少なくとも精霊の定義に沿っている。意思を持った魔力の固まりだ」
夜空には、もやからの叫びが響いている。胸を締め付けるような、もの悲しい叫びだった。この叫びに意味があるのだとすれば、それを理解しているのはモノだけなのかもしれない。
ちょっと迷った末、モノは夢で見たことをオットーに話すことにした。
「変な夢を見たんです。亜人が大陸からいなくなったから、ああいう精霊が出てきたって、大鷹族の人が教えてくれました」
モノは夢で聞いたことを、出来るだけ話した。
「マナは使うだけじゃなくて、別の世界があって、そこに溜まるらしいんです。流された水が、池に溜まるみたいに。精霊はそこから来るもので、それが、その……とにかく大事なことらしいんです」
モノの知識が足りないせいで、説明は曖昧になる。もどかしかった。
オットーが目を丸くした。
「……君は今、ずいぶんと高度な話をしたぞ。多重世界の話だ」
「タ、タジュウ?」
「もう一つ、別の世界というのは魔術の理論で、確かに存在が推定されている。君は、どんな夢を見たんだ?」
サンティが角を曲がると、きつい臭いが一層強くなった。
「ごめんなさい。すぐには」
「……ああ。確かに、今は落ち着ける状況じゃないな」
その時、馬蹄の音が聞こえた。敵かと思って、慌てて振り向く。
さっき一度合流したイザベラとヘルマンが、馬蹄を鳴らしてやってきた。イザベラ達は自治区の兵士の様子を見るため、モノ達と別の道を通っていたのだった。
ヘルマンが馬を竿立ちにさせて、急停止。後ろに乗ったイザベラが、器用に身を捻って馬から降りた。
オットーが肩口から問いかける。
「ヘルマン、そっちの様子は」
「芳しくありませんな。指揮系統が、やはり混乱しています。アクセル様が入ったことで幾らか持ち直しましたが」
自治区の中央部に、黒いもやが現れたことで、混乱に拍車がかかったらしい。
海に向かっていた兵士を、ぐるりと方向転換させて、自治区の中に向かわせたのだ。モノにも、大変であろうことは察しがついた。島では太鼓で伝達をしたりするが、ここではどうするのか、ちょっと気になった。
「火事との誤認。敵への追撃。方針が割れに割れておりましたので」
「そうか。今は?」
「かろうじて、あの黒いもやを広場に封じ込める陣を敷いています。ただ、負傷者も多く、おまけに」
悲鳴が聞こえた。路地から、家族がまろび出る。
痛ましい有様に、モノは目を伏せた。
「ご覧の通り、まだ市民が残っています。今、あの黒いもやが出ているところは、中心部にとても近いのです。恐慌している区画もあって、もはや兵士だけでは手が着けられません」
モノは呻いた。せっかく大鷹族を退けても、これでは意味がないではないか。
一際大きな音がした。ギィ、ギィ、と巨大な金属を擦り合わせるような音だった。
モノはサンティを降りて、近くの家に走る。靴を脱いで、裸足になった。そのまま、雨樋を伝って屋根まで這い上がる。
「お、お嬢様!?」
モノは、三階の屋根から黒いもやを見つめる。もやは徐々に明確な形を取りつつあった。大きくうねり、しなり、人の頭蓋骨に似たものが象られる。
胴体は、細く長い。ゆるくとぐろを巻いて、まるで雨雲を抱き込んだ大蛇だった。
――クルシイ。
モノの猫耳が動く。あの精霊から、また叫びが届いていた。肩口にしがみついていたオットーが、干上がった声で言う。
「だ、だんだん、形を得てないか?」
「はい。ど、どころか」
大蛇の姿は、もやの中に消える。すると、もやが傾いだ。
「移動してます」
もやは、ゆっくりと、動く。向かう先は――
「自治区の、奥? 海の反対側だ」
「陸地の方ですよ! 大変です、あんなのが動いたら」
もやの足下には、兵士達が陣を張っていた。ぐるりともやを包囲しているが、それは閉じこめているというよりも、手の出しようがないという感じだ。
一瞬、もやの足下で赤い色が閃く。炎の色だ。
「騎士団の攻撃だ!」
アクセルが率いていた、騎士達に違いない。今は下馬して、武器を剣に持ち替えていた。
号令が起こり、騎士達が前進する。
重武装の前列。後方からは、火の玉が飛ぶ。モノは目を丸くした。
火の球はもやにぶつかると、爆発を起こす。オネの火の蝶を思わせたが、それよりもずっと火の数は多く、威力も段違いだ。
「火の魔術か」
「あれが」
「ああ。最も単純な、火球という魔術だ。でも、騎士団の中にも使い手は少ないはずだ。攻撃の魔術は複雑で、制限が多い。だから、島に来たような『砲』が開発されたんだ。装置の支援で魔術を簡単にするわけだ」
騎士団は果敢に、もやに向かって攻撃を繰り出していく。
だが、相手が大きすぎた。攻撃の数も、足りない。
もやは前進を続ける。黒い波濤。そう表現するしかない相手だ。騎士達の隊列は徐々に押される。もやが、鼓動するように収縮する。一際大きい叫び。もやから黒い腕が伸びた。騎士達の隊列は大きく崩されてしまう。倒れたまま動かない人も出てきた。
「お、お兄様が」
「頑張ってもらうしかない。精霊だとすれば、マナを使った攻撃でしか倒せないんだ」
マナ。モノは、水の虎、サンティを見下ろした。虎は下から、屋根の上にいるモノを見つめている。
「で、でもサンティを出すのに、水が要ります。例えば炎で水を干上がらせれば、水の虎は消えてしまいます。なら」
「逆だ。君にとっての水は、サンティを象るための媒介に過ぎない。大元は、マナそのものだ。大元のマナを絶たなければ、あれは何度でも出てくるぞ」
つまり、マナを使った攻撃でしか、あのもやは消せないということだった。
植物のようなものだ。見えている黒いもやは、地表に出た茎や葉に過ぎない。根っこ、すなわちマナを絶たなければ、何度でも生えてくる。
「マナは心の力だ。打ち砕くには、同じものが必要なんだ」
モノは考えを巡らせた。島の精霊術士として、力が及ぶ範囲を知覚する。自治区の水路は、先ほど流れる先を貧民窟に変えたばかりだ。広場の近くには水門があるから、そこからまた水を操ってもいいだろう。
――オオオ。
遠くから、もの悲しい叫びが聞こえてくる。
クルシイ、クルシイ、という嘆きも。黒いもやは大きく傾ぎながら、ゆっくりと、内陸の方へ向かっていく。その先には奇跡『聖壁』で遮られた、聖ゲール帝国の国土がある。
ふと、どうしようもない哀しみがモノの胸を突いた。泣きそうになった。もやは悪臭と嘆きを振りまきながら、もったりした動作で、内陸へ向かっていく。
閉め出されたのは、亜人だけではない。
夢の中で言われたことが、少しだけ現実感を伴う。あの精霊は、帰りたいのだ。
さっきの夢は、ひょっとしたらあの精霊がモノに見せたのかも知れない。サンティを迎えた夜に、モノが同じような夢をさまよったように。
広場で、兄は炎を帯びた剣を振り回す。熱風がこちらまで届きそうだった。
黒いもやも、兄の方は恐れたように近づかない。
炎の剣を振り回すアクセルが、唯一、もやの進行を阻む壁だった。だが、防ぐだけだ。敵が大きすぎて、倒すならもっと巨大な破壊が必要なのだろう。
(炎……)
モノは、思い出す。島ではオネの火の蝶があった。
水は炎で熱されると、蒸気になる。島の戦いでは、それを利用して敵の視界を塞いだものだった。
(それなら!)
オネから教わったことを思い出す。
オットーに話すと、兄は驚きながらもモノの考えを肯定した。
「それの圧力は、確かに凄まじい。うまくやれば、爆発といっていいだろう」
モノは、ぎゅっと唇を結んで、黒いもやを見据えた。
「このままじゃおけない。彼を倒しましょう」
モノが地面に降りると、物陰から見慣れぬ装束が這い出てきた。大鷹族だった。
モノ達を見つけると、彼らは武器を落とす。亜人の言葉で叫んだ。
「なんて言ってるの?」
ヘルマンの馬に乗りながら、イザベラが問うた。
「降参するそうです、お姉様」
「……自治区の避難が先よ」
「そんな」
「……ああ、もう。わかったわよ」
姉は武器を落した大鷹族に、着いてくるように顎でしゃくった。ヘルマンに付帯的な指示をし始めたのを見て、モノはもやに向かって前進を再開した。
◆
大男の神官、マクシミリアンは自治区から去りつつあった。大鷹族が乗る船は、航海術に秀でた亜人が用意したものだ。彼はこうして亜人同士を緩く連帯させることが、目的に適うと信じている。だからこそ、まだ牙の折れていない亜人の氏族を探しているのだ。
亜人の公女モノリスが属していた山猫族も、航海に秀でていた民だった。そうした亜人は、意外に多い。
兵士達を回収した船は、急速に遠ざかる。
自治区内に発生した黒いもやは、計画通りに移動を開始していた。目指す先は、大陸の中だろう。
その先には、分厚いマナの壁がある。聖ゲール帝国を囲う奇跡『聖壁』だった。
(できれば、公女モノリスも我々の仲間に加えたかったが)
マクシミリアンは首を振った。もう少し運が向けば、彼女はこちら側に転んだだろうに。
あの娘は、色々な声を聴き過ぎる。そして耳を傾けた以上、無視できない。
「神はもう少し、我々に試練を望むようだ。しかし、いつまでも沈黙してはおられないでしょう」
波の揺れに沿って、錫杖が涼しげな音を立てる。夜空はすでに白み始めていた。
甲板には、腕に青い布を巻いた亜人達が散見される。マクシミリアンの目的に賛同し、聖教へ改宗した亜人達だった。
「マクシミリアン!」
空から、そう呼ばれた。見ると、グライダーがゆっくりと降下してくる。
降りてきたのは、異様に目つきの悪い娘だった。鼻も極めて高く、いつもしかめ面をしているように見える。
だが、少なくとも今はまさにしかめ面をしているだろう。
名前は、ギギという。大鷹族の小部族に属する娘だった。モノリスとは比べるべくもないが、精霊術士でもある。
大鷹族においても、精霊術士は一目置かれる。それは改宗した人間にとっても同じことだ。
甲板で作業していた男達は、彼女のために率先して場所を空けた。ギギはそこにグライダーを着地させた。
ゴーグル越しに、鋭い目つきがマクシミリアンを見上げた。
「あれは何?」
少し鼻にかかった声だ。この声も、彼女が常に怒っているとされる原因だろう。何を言っても、挑戦的に聞こえるのだ。
「精霊です。あなたが持っているのと、同じような。イファとお呼びしたほうが、あなた方にはいいかもしれませんね」
マクシミリアンは応えた。精霊とはゲール語での呼び方で、亜人達はイファと呼んでいる。亜人の方言の中でも、精霊に関する単語は同じ発音だった。
「亜人が大陸から閉め出されたことで、長く、ゲール帝国には精霊が来ませんでした。結果として、あれを」
マクシミリアンは、自治区の中で暴れるもやを指した。
「あのような歪な精霊が、生まれることになりました。様々な精霊が混じり合い、もはや原型は誰にも分からない。堕落した精霊。混沌ですよ」
帝国の内部は、矛盾が沢山ある。その一つが、この歪な精霊だ。マクシミリアンがひっそりと自治区に運び込んでいた木箱は、この精霊を封じたものだった。聖教府はこのような精霊が現れると、奇跡で封じ込めて、そっとどこかへ捨てる。
マクシミリアンが辺境へ布教をし、聖教府の影響範囲を広める任を受けた理由は、ここにもある。聖教府は、ああいう異常な精霊の捨て場を探しているのだ。
通常は、精霊を使役する精霊術士がいる。あの黒いもやのような精霊にはいない。もはや枷の取れた猛獣だった。
「……私達は、あんなの知らないよ。織り込み済みだったわけ?」
「申し訳ありません。あなた方の長にしか、話していません」
秘密を知る者が増えるほど、秘密の維持は難しくなる。作戦が始まる前までは、聖教府に動きを隠したかった。
「あの街には、まだ同胞が残ってる。あれじゃ、自治区で犬死にじゃない」
「覚悟の上での、決起のはずですよ」
マクシミリアンは沈痛そうに首を振った。
ギギはぎゅっと口を結ぶ。風が吹いた。彼女が操る、空気の鷹の精霊だ。風が集まって、鷹の形を象るのだ。
目を凝らすと、確かに波しぶきが中空で不自然に弾ぜている。そこに空気の鷹がいるのだろう。
「あの精霊は、聖壁の中に入ろうとします。うまくすれば、我々が、聖壁を破壊できるかも知れませんよ? 亜人を閉め出した、あの壁を。大きな一歩です。その功績は、あなた方のものになるのです」
甲板に風が吹き始める。船が進んでいることも相まって、風は強い。
ギギがグライダーに腰掛けた。周りの男達が、慌てて彼女を押さえる
「どこへ?」
「もう一度、飛んでくる! 自治区の同胞に、撤退を伝えんのよ」
「今行くのは、危険です。あなたの力は有用です。実際に、各所で聖壁を破った後、我々には地図が必要です。行軍、野営、全てに使える、正確な地図が」
ギギが、元々悪い目つきをさらに悪くさせた。
「大鷹族全体のためなのですよ? 力を貸してください」
マクシミリアンがそう言うと、ギギは目を伏せた。
「愛した土地を取り戻すことは、悲願のはずだ」
若い男の声が、言った。
ギギは、船の亜人達の視線に晒された。この船には、大鷹族以外にも様々な氏族の亜人達が乗っていた。槍を持ち、極彩色の仮面をかぶった戦士がいて、マクシミリアンを守るように前に出た。ラシャという、遠く離れた島出身の亜人だった。
「分からんな。お前は結局、どうしたいのだ」
「……さてね」
ギギは言う。
「どうしたいんだかね」
鷹の目は、自治区の方を見つめていた。