2-16:大鷹族
モノは気づくと、草原にいた。まるで凪いだ海原のように、どこまでも緑の大地が渡っている。青空には鳥が飛んでいて、伸びやかな声で歌っていた。
モノは、目を瞬かせた。
視界が揺れていることで、モノは自分が移動しているのだと知った。揺れ方に、なんとはなしに察する。これは動物に載せられて、移動しているのだ。馬かもしれない。
なんだろう、とモノは思う。体を動かすことはできなかった。頭がくらくらした。
やがて視界がゆっくりと暗くなる。火が吹き消されたように、闇が訪れた。
(夢?)
モノはこんな場所は知らない。なのに、風が頬を撫でる感覚さえあったのだ。
次いで現れた光景も、似たようなものだった。
草原だ。夜が明けていないのか、まだ薄暗い。馬の世話をしている若者がいて、彼がモノの方へ振り向く。肌の色は、浅黒い。亜人だ。彼の耳は、横顔に押しつけたような、潰れた形をしていた。これは大鷹族のしるしだった。
若者はモノに手を差し伸べ、何ごとか囁く。おいで、という意味の言葉だった。彼はモノを抱き上げて――夢の中のモノは、どうやら小さな子供になっているらしい――馬に乗せると、そのまま駆け出した。
草原はどこまでも続く。夜明け前の空気が涼しい。馬と人の息遣いが、いっしょになって弾んでいた。時折、石でできた塚が目に入る。草原で道に迷わないように、一定距離にこうした塚を用意しているのだろう。目印がないという意味では、夜の草原は、夜の海原とそっくりだった。
(これって)
だんだんと、分かってきた。
(大鷹族の、暮らしだ)
オネから様々なことを教わった。今の光景は、まさしく教えてもらった大鷹族の暮らしそのものだった。
彼らは何年も、何百年も、こうして草原で馬と暮らしてきた。彼らは遊牧民。土地の境目を必要としなかったし、そういう概念も持たなかった。
不意に草原の端が、明るくなった。地平線が一本の線になって、光を帯びる。太陽が昇ってきて、一面の草原を光が洗った。あまりの雄大さに、モノは息を呑む。全てのものに光が当たっていた。巨大な大地の営みは、慈しみに満ちているように感じた。
やがて太陽は西に沈む。情景が暗闇に消える。しばらく、断片的な記憶が、浮かんでは消えた。
(これは、誰かの記憶……?)
そう、記憶だ。モノ以外の、誰かの。
モノは誰かの人生の一部を、飛び飛びに眺めているようだ。物語を気まぐれにめくり、断片的に読み進めていくみたいに。
情景は移り変わる。子供から、大人へ。仕事を覚えて、やがて結婚する。草原の革と布で作られたテントの中で、式を挙げ、やがて子をもうけた。この記憶は女性のものらしい。
色々と戸惑う場面もあったが、目を逸らしたり、瞼を閉じたりする権利は、少なくともこの夢の中のモノにはないようだった。
(夢?)
今更に、モノは思う。
(本当に、これって夢なの?)
抱いた子供を見下ろすその視線は、モノを戸惑わせた。赤ん坊を抱いた感触さえ、その柔らかな手の感触さえ、あったのだ。子を抱いた時の胸の温かさが、自分のものなのか、大鷹族の誰かのものなのか、分からなくなっていた。
やがて、状況が変わる。
大鷹族はテントで生活している。そのため、彼らは自らをフェルトの家の民と呼んだりする。テントが減り、集落の人数も減ってきた。大鷹族の面々は噂する。もうすぐ、北からゲール人がやってくると。
(ゲール人が南へやってきて、亜人を追い出した)
モノは歴史を思い出す。ゲール人は二度と亜人を国土へ入れないように、奇跡『聖壁』を作ったり、『異民族閉め出し令』という法律を下したりした。だからこそ、モノは大陸から離れた島に隠されていたのだ。
夢はまだ続いている。
一際大きなテントの中で、男達が話していた。深刻な気配。モノはお茶を出したり、煙草の葉を換えたりする役目で、その話を聞いていた。何かを察しているのか、外の家畜達の鳴き声さえ、不吉だった。
――別の氏族もまた、戦うそうだ。我らも、戦うことになるだろう。
誰かが結論を下す。男達は、沈黙していた。一番年長の男が、モノの方を見やる。モノは全然別の作業をしていたが、会話は全て聞いていた。
――頼むぞ、精霊術師よ。
モノが見ていた視界は、大鷹族の精霊術師のものらしい。
視界が揺らぐ。途方もない感覚の波が、モノを翻弄した。
精霊術は、共感の力。ありとあらゆるものの意思や思い出が、モノの心に流れ込んでくる。
◆
「モノ!」
オットーが叫んだ時、モノは頭を押さえてうずくまっていた。
水の虎、サンティが唸り、腹ばいになる。崩れ落ちたモノを、下馬したアクセルがすんでのところで抱え込んだ。
「どうしたのだ?」
「分からない」
妹の急変が、オットーの声を干し上げた。ひどく悪い予感がした。モノはうなされたように、何かを呟いている。オットーは、倒れた彼女のおでこに、鼻で触れた。熱かった。
ウォレス自治区での戦いは、まだ続いている。沖には敵の船がある。モノの水で敵を押し流したとはいえ、危機が去ったわけではないのだ。
さらに悪いことに、自治区の中で重大な変化が起きていた。
内陸の丘から、黒い煙が立ち上っている。そこから、どす黒い何かが、塔のように突き出していた。
風に乗って、凄まじい悪臭がやってくる。オットーは使い魔の、鼻の感覚を遮断した。アクセルの鎧が方陣を輝かせて、毒物に対する耐性を強化させる。それほどの悪臭だった。
「閣下! ご指示を!」
アクセルが指揮する騎兵達が、馬蹄を鳴らしてやってくる。数は百騎に迫る。先頭の一人が、兜の中から焦れた視線を送った。
「あれは、敵の作戦でしょうか」
いかにも鍛え上げられた騎士だった。海賊との戦いが一段落したと思った直後の、自治区内部で起こった異変である。そう考えるのが、いかにも道理だった。
アクセルは首を振る。
「分からん」
地鳴りのような音が、自治区の丘から聞こえてくる。もやの高さはすでに教会の尖塔を上回り、月を突き刺さんとするかのごとく、真っ直ぐに伸びていた。
オットーは、兄に言った。
「あれから、魔力を感じる。強烈なやつだ」
「魔術か?」
「いや、そうじゃない」
「では、まさか奇跡か。敵に与する神官がいるのだろう」
「それも違う」
オットーは、呻いた。マナの使い方は、三種類ある。奇跡と、魔術、そして――
「一番近いのは、精霊術だ。あれは、とんでもなくでかい精霊かもしれない」
モノが身じろぎをした。吐息は、荒い。猫の耳が小刻みに動き、何ごとか呟いていた。集まった騎兵達が、モノの異変に気付く。
ざわめく彼らをアクセルが手で制した。これ以上の混乱は、避けるべきだ。
「精霊だと?」
「ああ。意思を持ったマナの塊だ。『精霊』と呼ぶ以外に、あれを表現する手がない」
オットーは魔術師として様々な知識に触れてきた。それでも、こうした形で現れる精霊を見るのは、初めてだった。
精霊術師の亜人と行動を共にし、気性はごく穏やか。それが学術で扱われる精霊だった。神官の影響で野蛮とされる亜人の術だが、虎や蝶などの形を取る通り、精霊とは元々はごく普通の生き物なのである。
あれほどの大きさの精霊は、聞いたこともなかった。
「シモーネは、どうしたのだ」
アクセルが問う。兄は、まだ時折モノの大陸式の名前を呼んだ。
「……彼女は、僕らが思った以上の、才能を持っているのかもしれない」
「才能だと?」
「ああ。島の時から、強力な術を使っていたけれど……」
オットーは思い出す。モノがこうして意識を失うのは、初めてではない。初めての精霊を迎えた時もまた、彼女はこうして気を失い、高熱を出していた。オネの言葉を思い出す。
――先天的に、共感能力が高すぎる。
死んだ虎を精霊に迎えた時、彼女もまた死に近づいたのかもしれない。だからこそ高熱を出し、苦しんだのだ。
オットーは自治区に突如として現れた、黒いもやを見つめる。あれが精霊だとすれば、モノに影響を与える可能性はあった。あまりにも強すぎる適性の、代償とも言えた。モノの精霊術は、諸刃の剣だった。
(モノ、君は、何を見ているんだ)
――オオオ。
遠くから声が聞こえる。今から象られようとしてる、天を突くような巨大な精霊の声だった。
どこまでも響く、どこまでも暗い声。
オットーはモノの手を握る。ネズミの手は小さく、モノの手は大きすぎた。今更どうしようもない後悔が、オットーの胸を突いた。
彼女はここまでやった。そうできるだけの能力があったし、強さもあった。
それに期待し、引き込んだのは、紛れもなくオットー達なのだ。
謝りたかった。だけど、そうすべきでないのは、分かっていた。決めたことだし、それが血筋というものだった。
アクセルはじっとモノとオットーを見つめている。やがて頷いて、背を向けた。
愛馬に跨る。騎兵達が鳴れた動作で隊を組み換え、アクセルを先頭にした。
「五騎を残す。ここは任せた、オットー!」
「どこへ行くんだ。こんな時に」
「あれを」
アクセルは、顎で丘の上を示す。どす黒いもやが溜まっている。
「あれを、なんとかせねばならん」
「兄さんでも、厳しいかもしれないよ。あれは」
貴族の血統として、芳醇な魔力を持つアクセルではあるが、あれほどの大きさの精霊と善戦できるかは未知数だった。モノのような例外はともかく、精霊とは、もっと小さくて穏やかなのが普通だった。
「それでもだ」
アクセルはすでに背を向けていた。
「妹がこれだけ体を張ったのだ。次は、我々の番ではないか?」
「……僕は、どうすれば」
「情けない声を出すな。だからフランシスカのやつにも……いや、あいつはちと出来が良すぎたか」
アクセルは笑う。兜の下は、獰猛な笑みだろう。
「自分で考えろ。心配せずとも」
モノの瞼が震える。
「お前もまた、シモーネのために体を張って島まで行ったのだ。イザベラは無駄なことはするなと言うが……行動でしか購えないものは、確かに、俺はあると思う。お前は珍しく、我々に意地を張って見せたのだ」
意地、という言葉がすとんとオットーの胸に落ちた。長兄アクセルは歩き出す。
「我々はすでに選んだ。シモーネを守れ」
オットーは必死で考える。オットーにモノのように絶大な魔力も、才能もない。彼にできることは、とにかく考えることだった。論理的に、確かなことを。石を一つ一つ積み上げていくように。
「モノ」
オットーはネズミの小さな手で、モノに触れた。生き物のぬくもりを通して、何かがモノに伝わるように。不器用で、臆病で、そのくせ心配するのを止められない。そして意地でも、妹を死なせたくなかった。
「大丈夫だ。僕はここにる。一緒に、家に帰ろう」
置きっぱなしにした体が、ひどく恋しかった。モノの手を、オットーは包み込んでやりたかった。
◆
モノの夢は、まだ続いていた。目覚めるどころか、草原の情景は鮮明さを増していく。
気づくと、モノは草原の中で老人と向かい合っていた。簡素な装束だったが、物腰に独特の落ち着きがある。長か、あるいは相応の地位にいる人物なのだろう。
その人物は、細目でモノを見つめた。夢の中と思えないほど、相手がいるという生の実感があった。
「あの音が、聞こえるかね」
老人が煙草を吸いながら、モノに向かって問いかける。夢の中でのモノは、本当よりもずっと年上で、大鷹族の装束を着ていた。モノは目を瞬かせた。
大鷹族の長は、染み入るように笑う。長と一対一で向き合って話すというのは、故郷の島での暮らしを思い出させた。こんな時でも教えられた、慣習に則った仕草をしそうになって、なんだかおかしかった。
「あの声は、忘れられた精霊のものだ」
老人はそう語り掛けた。モノは首を傾げる。
「精霊?」
「ああ。精霊とは、亜人と共にあるもの。亜人がおらず、迎えるものがいなくなれば、彼らはこちらへ来れなくなる。それは」
長は、言った。
「正しい流れが淀む、ということなのだ」
モノは首を傾げた。ぼんやりした頭では、うまく理解することができない。
「魔術や精霊術の源、マナと呼ぶものには流れがある。土水火風――この世を象るすべてのものが流転していくように、心の力もまた、流転する。我々の足元の、見えないところに、マナの川が流れているのだ。草原の下に、豊かな水脈があるようにな」
まだ、よく分からない。オネにさえ、そんなことを習った覚えはなかった。
(あれ)
モノは奇妙に思った。頭に、鈍痛。オネって、誰のことだろう。段々と、思考がまとまらなくなる。
座ったままよろめいたモノを、老人は見つめた。
「魔術や奇跡を使うと、心の力が失われる。だが、消えるわけではない。ただ流れに乗って、我々の手の届かないところへ流れ去っていくだけだ。その流れ着く場所が、我々が神話に歌う場所だ。神様と精霊が暮らし、亜人達の祖先が最初の実を割った場所」
モノは、精霊を迎えた夜のことを思う。あの時も、奇妙な夢を見た。空は薄桃色に色づいていたものだった。
「近いが、決して交わらぬ。すぐ隣の世界だ」
似た言葉を、モノはどこかで聞いた気がした。
(そうだ)
すぐ隣の世界。モノが精霊術に目覚めた夜も、そんな言葉を聞いた。
「我々は、精霊を迎えてきた。それは流れが淀まぬように、常に水を入れ替えるようなもの。隣の世界へマナを流すだけでなく、時にはこちら側へマナを汲み上げてやらねば、流れが滞り、淀むということだ」
長は話を続ける。
「あの声が、聞こえるだろう」
――オオオ。
遠くから、鳴き声のような音がする。草原の世界は晴れ渡り、さわやかな風が吹いている。それなのに、声はひどく悲しげだった。
「亜人は土地を追い出された。精霊がこちらへやってくることはなくなり、隣の世界でマナは沼のように淀んだ。亜人の精霊術は、マナを流転させるのに、不可欠のものだったのだ」
長が、手を振った。その瞬間、情景が一変した。
草原が、燃える。大鷹族の楽園が、騎兵によって進撃され、燃え堕ちる。神官の奇跡が巨大な落雷を落し、大鷹族の戦列を破壊した。降伏したものも、戦ったものも、平等に始末された。あるものはわざわざ巨大な穴を掘らされて、そこに仲間の死体を埋めることを手伝わされた。穴は土で埋められ、花の種が捲かれた。
「閉め出されたのは、亜人だけではない。亜人と共にあった精霊もまた、閉め出されたのだ」
長は長く息を吐き出す。
「戦いによって生まれた淀みは、戦いによってしか消えない」
戦いという言葉が、モノの思考に蹴りを入れた。少しずつ、意識が戻ってくる。
手に温かさを感じた。
「お、お話、ありがとうございました。長」
モノは頭を下げた。言い知れない怖さを感じた。
「私、もう行かないと」
大鷹族の長は目を細める。吸い込まれそうな、深い意味を湛えた笑みだった。
「どこへだね」
長はモノに手を伸ばす。まるで、この手を取ってくれと言うように。
「お前は、亜人だろう。我々と共に、戦うべきではないか?」
胸がざわついた。夢で見た光景が、モノの胸に熱いものを押し込む。戦え、戦え、という囁きがすぐ傍で聞こえるようだった。
「お前は、誰だ?」
「わ、私は」
「亜人だろう。ただの、一人の、亜人の娘だ」
手にぬくもりを感じた。耳に、誰かがモノを呼ぶ声が届く。モノは無意識に、唇へ触れていた。そこに微かに残る、ほんの少し気恥ずかしい感触が、モノの記憶を呼び覚ました。
もう一度、心から頭を下げる。
猫の耳が揺れた。モノは大鷹族の誰かではなく、いつもの、魔の島で生まれ育った、猫耳のモノの姿に戻っていた。
「お兄様が、呼んでいるんです」
長は、苦笑して頷いた。光がやってくる。真っ赤な光が草原を洗い、夢を終わらせていく。
(え?)
夢が終わる瞬間、長の顔が、一瞬だけあのマクシミリアン神官の顔になった。柔和な顔の神官は、ゆっくりと頭を振ると、消えた。しゃらん、と涼しげな金属音が鳴った。
「残念です。しかし、用心なさい。あなたの大きな耳は、色々な声を聴き過ぎる」
◆
ゆっくりと目を開ける。モノは、オットーに気づいた。
「モノ!」
オットーは、ネズミの姿でへたり込んでいた。
「よかった。もう目覚めないかと……!」
モノはしばらく、ぼうっとした。小さい声で、呟く。
「声が、聞こえていましたから」
「え?」
「な、なんでもないです」
モノは自治区の様子を聞くと、オットーを抱える。大変なことになっているようだ。水の虎、サンティが唸って、モノを背中に乗せた。
モノはオットーをポケットに入れる。見つめる先は、自治区の中にそびえる黒いもやだ。
もやの場所は、自治区の広場近くだった。先程、人でごった返していた場所だ。もやは徐々に明確な形をとりつつあった。
猫の耳をそばだてる必要もなく、広場から悲鳴が聞こえた。港を振り返ると、大鷹族の船は徐々に自治区を離れつつある。
「お嬢様!」
大通りの先から、一頭の馬がやってきた。ヘルマンが、姉のイザベラを載せて馬を駆っている。小回りの利かない馬車は、路地に置いてきたらしい。
モノは勇気を振り絞って、もやの麓へと向かう。
家族と、仲間と、あれに立ち向かうのだ。
モノ達の上を、大きな翼を羽ばたかせて、巨大な白い鳥が追う。巨鳥はモノ達を視界に納めると、ゆっくりと弧を描くように、大通りにある教会の一つへと飛んでいった。




