2-15:水に流します
足元から、水が噴出した。水は塔のようになって、モノを夜空へ押し上げる。路地の谷間から抜け出た時、視界が一気に広がった。
街のあちこちで火事が起きている。炎と月明かりが、混乱の自治区をぼうっと浮かび上がらせていた。
遠くには、港が見えた。そこから真っ直ぐ伸びる大通りが、最も激しい戦場だ。
亜人とゲール人が、隊を組んで切り結ぶ。生暖かい風に乗って、怒声や悲鳴、そして亜人の言葉が届いてきた。久遠の蒼穹――すなわち空を称える、大鷹族の戦叫だ。
戦況は、恐らく亜人に有利だ。すでに浮ついている自治区の兵士に対して、大鷹族の攻撃は激しい。両手に武器を持って、舞うように戦う人もいた。戦いの経験が、亜人と自治区では圧倒的に違っている。そもそも身体能力からして、亜人の方が優れているのだ。
早めに手を打たないと、あの大通りは潰走するだろう。
「急がなきゃ」
周囲から、視線を感じた。こちらを指さしている人や、見上げている人がいた。突然現れた水の塔に、貧民窟の人々は呆然としている。
「モノ!」
下から声が聞こえた。馬車の近くで、イザベラが声を張っている。落水から逃れるためか、ヘルマンが彼女に傘を差しだしていた。
「いい? とにかく派手に、目立つようによ! あなたがここにいるってことを、自治区中、いえ、帝国中に教えてやるくらいに!」
派手好きの姉らしく、そんな指示を出した。
「仕上げだ、モノ」
オットーのネズミが、モノのポケットから顔を出した。
「ここは一つ、派手にやろうじゃないか」
珍しく、オットーとイザベラが同じことを言った。姉と兄の言葉が、モノの背中を押した。
「はい!」
モノが手を振ると、辺りの水が動いた。
水路に行き届いた水を操り、火事のある場所へ流していく。次第に、貧民窟の様子が変わってきた。この水の塔が敵じゃないと気づいたのだろう。黒星騎兵隊を倒していることも、あるのかもしれない。
「あ、あんた達は、いったい」
眼下から、そんな声が聞こえた。貧民窟の亜人だった。年配で、外されたフードからは、白髪に埋もれた獣の耳が見える。
威勢よく応えたのは、イザベラだった。靴を鳴らして、舞うように言った。
「私達は、フリューゲル家!」
周囲がどよめいた。さすがというべきか、目立ち方が堂に入っていた。彼女は優雅な仕草で、モノに一礼する。周囲の視線が、次はモノに集まった。
「わ、私は」
息を吸う。水の塔で高い場所にいるから、離れた場所からも注目されていた。わざわざ屋根に上って、モノを見物している人までいる。
覚悟を、決めた。背筋を伸ばし、口を開く。
「フリューゲル家の、モノです!」
フリューゲル家、という言葉がよく響いた。自治区のあちこちで起こるどよめきを、モノの猫の耳が拾う。亜人は耳がいいから、今の言葉はよほど遠くまで届いたろう。
(これから、大水で敵を海まで押し流す)
さっき黒星騎兵隊に対してそうしたように、敵を押し流してしまうのだ。
それが精霊術師にして、公女モノリスの最初の仕事だった。島でも十五歳は成人として扱われる。名実ともに、大人としての初仕事だ。
――私に、何ができるんだろう。
ぎゅっと胸を押さえる。鼓動は早くなるばかり。
海には、敵の船。自治区はまだ大混乱で、亜人とゲール人との歴史とか、これからの相続とか、分からないことばかり。モノの足場は、この水の塔と同じくらい不安定だ。
でも、分からないことが、モノをワクワクさせた。肩に感じる重さが、モノの意思を強くさせる。一人じゃない。オネのように、ここにも家族がいるのだから。
いつの間にか、貧民窟のあちこちで、快哉があがっていた。
絶望が深かった分、モノの行動も鮮やかに映るようだ。亜人には、精霊術はなじみ深い。彼らにとっては、まさに仲間が助けに来たように見えたことだろう。
モノが騎乗する水の虎を見て、亜人からは精霊術師と、ゲール人からは公女様と、それぞれ声が送られた。
彼らの祈りが、モノの心を揺らした。応えねばならないと、ごく自然に思えた。
こんな辛い戦いは、もう終わりにしてしまえ。
「全部、水に流すよ!」
水を、解き放った。
水路という水路を、さらなる水が迸る。港から浸透していた大鷹族の一人一人を、片っ端から水が襲った。抵抗を試みるものもいた。だが、それは滝の水をコップで受け止めようとするようなものだった。
水門を動かし、自治区の水という水を、この周辺に流し込んでいるのだ。モノの意思が及ぶ水が、今や自治区の半分を駆け巡っていた。島の時とは、比べ物にならない水の量だ。それでもモノは、苦も無く水を操っていく。
ただ、予想されたことではあったが、放棄された水路を寝床にしている人がいた。申し訳ないが、人だけ助けて、寝床はそのまま押し流した。
港から入った大鷹族は、混乱しただろう。水路に水が戻ったかと思えば、次の瞬間には、海に押し戻されているのだ。
「……モノ、君は」
オットーが何かを言いかけて、口をつぐんだ。
また快哉が聞こえた。野太い、火を吐くような笑い声も。公園から真っ直ぐ進んで突き当りの、大通りとの合流地点だ。
騎兵隊が鋼の輝きをまといながら、モノに近づいてくる。長兄アクセルの、馬に乗った騎士達だ。どこかで合流したのか、数は百騎近くに増えている。
「モノリスぅ! よくやったぁ!」
モノとのタイミングは、完璧だった。一番前の騎兵が剣を天に掲げる。剣から炎が噴き出して、高々と舞い上がった。
「準備ができた! 着いて来い!」
「お兄様! 水の通り道は!?」
モノは、馬車で通った道を思い出す。
騎兵は貧民窟を真っ直ぐに進み、大通りの方へ向かった。大通りへは、彼らを追って真っ直ぐに進むだけでいい。
水路の数といい、噴水の位置といい、申し分ない。貧民窟は、水を大通りに持ち込むのに、うってつけの場所だったのだ。
「案ずるな、すでに道は確保した!」
モノは、足元の水柱を操った。水がうねって、騎兵を追うように流れだす。路地に沿った水路から次々と水が補給されて、水は丘のように盛り上がった。
アクセル達の後ろに、膨大な量の水が続く。百騎近い隊列の後ろに、水の塊だ。振り返ったアクセルが身を反らして驚き、大笑した。
「見ろ! 巨大な水の竜のようだな! 我らは、さしずめ竜の露払いというわけだ!」
もっとも、大笑しているのは兄だけだ。続く騎兵たちは、全力で馬を走らせている。彼らにしてみれば、大津波に追いかけられているようなものだ。
「退け退けぇ!」
先頭でアクセルが吠える。どうやらアクセルは、すでに先触れを送り、大量の水を通すルートを決めてあったらしい。貧民窟を抜けた先では、騎兵がすでに通りを空けて待っていた。
「モノ、次の角を曲がれば、大通りだ! 港へ一直線、敵が攻めこんでいる道だぞ!」
いよいよ、一番大事なことだった。
角を曲がる。道幅が、一気に倍になった。
港へ一直線に通じる、大通りに出た。猫の耳が、無数の音を捕える。絶叫と、砲声、そして武器を打ち鳴らす音。全ての音が一緒くたになって、モノの耳を襲った。風が暖かいのは、そこかしこに炎があるせいだ。
ここは激戦区、逆に言えば、敵の戦力はここに集中している。ここにいる敵を押し流せば、自治区の勝利はぐっと近づくだろう。
(すごい数だ)
敵は、何百人? 気が遠くなりそうな人数だ。
なんとか自治区を守ろうとする兵士と、海からやってくる海賊で、港からの道は激戦になっている。敵には刃の反り返った曲刀が多く、こちらには槍が多かった。
前から、怒声。
大鷹族が彼らの言語で叫び、曲刀を振り回していた。馬に乗っているものがいないのは、船で来たせいだろう。でなければ、騎馬民族である彼らが歩いて攻めてくるはずもない。
(馬がいたら、どうなってただろう)
今でさえ、自治区の兵士は押され気味だ。大鷹族の迫力に、逃げ腰になっているのだ。
その大鷹族が、急に動きを止めた。自治区の兵士も動きを止めて、モノ達へ振り返る。
「頭を下げて!」
モノは、水の上から叫んだ。足元から、凄まじい水の音がする。勢いづいた水は、もはや己の重さで勝手に前に進んでいた。
大鷹族は、鷹を模した仮面を被っているため、表情の変化はうかがえない。だが間違いなく、目を見開いているだろう。だって戦っている目の前から、水が襲い掛かってくるのだから。
「退いて!」
モノは、大鷹族の言葉で叫んだ。島の母、オネが教えてくれた言葉が、知識が、この時モノに味方した。
亜人の言葉は、最も古いものを源流として、幾つかの方言に枝分かれしている。大鷹族のそれは、もう別言語といえるほど、異なっているのだ。
「そろそろ、限界です!」
「よぅし! いいだろう!」
アクセルが剣を持っていない方の腕を回して、後続の騎兵に指示を送った。騎兵の速度が緩む。サンティが、大波の上でぐっと身を沈めた。
「た、た、た」
自治区の兵士が、口々に言った。ほとんど同じことを、敵の亜人も叫んだ。
「退避――――!」
「退避――――!」
水は、まるで巨大な布を路地に被せるようだった。
モノとサンティは、自治区の兵士達の上を飛び越えた。そのすぐ後ろを、激流と言っていい水が着いてくる。水は、自治区の兵士達の上を飛び越えると、大鷹族の戦列、そのど真ん中に突っ込んだ。水は奔流となり、亜人を巻き込みながら一直線に海まで迸る。
大鷹族は、最前列以外、ほとんどの兵士を失った。綺麗なものだった。残っているのは、地面に据え付けられた銅像や、ベンチ、それから街路樹くらい。
(やった)
モノはサンティの上に乗って、ぐるりと大通りを一望した。大鷹族と自治区の兵士の真ん中に、モノは立っていた。
誰も彼も、唖然としていた。
「亜人だと」
と、大鷹族は、モノの猫の耳と、褐色の肌に呟く。
自治区の兵士は呆然としていて、モノを見守るだけだった。
「よくやった!」
大きな声が、聞こえた。
戦列から、一際大きな馬と、騎士が現れる。その馬が進むたびに、地面の水たまりが蒸発した。アクセルだった。
「後は、こちらでやろう」
アクセルが剣を振った。彼が率いる百騎が、槍と盾を構えて、一歩前に出た。一糸乱れぬ動きだ。
水にはない圧力があった。モノでさえ息を呑んだ。
完全武装の騎兵が進んでくるという恐怖。大鷹族の戦列に、騎兵を停める手立てはない。今や浮足立っているのは、大鷹族の方だった。
「我こそは双頭の鷲の子、フリューゲル公子アクセル! 公女の不戦の意思に応え!」
アクセルが剣を振る。刀身に炎が纏う。
「貴殿らを塵にする前に、猶予を与える! 一!!」
声が大きくて、思わず耳を塞いでしまった。騎兵達が、また一歩前に出る。
「二!!」
カウントが始まると、残された海賊たちは海へ向かって逃げていく。アクセルの騎兵はその背を追うが、それは敵が乗ってきた舟へ追い込むようなやり方だった。
一瞬で、相手の士気を折ってしまったのだ。
「す、すごい」
物語で読むのとは、迫力が大違いだ。
「ここが落としどころだ、シモーネよ」
騎兵の指揮を執りながら、アクセルはモノに近寄った。
「戦の止め時は、互いの了解が必要だ。連中にとって、これ以上の進軍は無用となろうよ」
アクセルは、丘の上をあごでしゃくった。大砲が設置された、砲台である。煙があがっていたが、まだ撃ち返していた。
「あそこもよく健闘した。寡兵をもってよく持ちこたえたと、言っていいだろう」
自治区から張り出した岬の上に、陣地が組まれ、そこから湾内に大砲を打ち込めるようになっているのだ。
オットーが説明してくれた。もともと、高所と低所の撃ち合いでは、高所が圧倒的に有利だった。今の戦いで、敵は砲台を無力する一番の手段――すなわち、市街から砲台へ攻め込むという作戦を、根本から覆されたのだ。この大通りを抜けなければ、大砲の陣地へ辿り着けないからだ。
「この自治区の人間もまた、自治区を救ったのだ。ごく当たり前に、己の場所を守るためにな」
モノは胸を押さえた。まだ戦いは終わったわけではない。沖にはまだ敵の船がいる。大砲の音は、まだ続いていた。
それでも、モノ達はなんとか自治区を守り切ろうとしていた。
「ここの者には、苦労をかけたものだ」
「ああ。フランシスカがいれば、奇跡でもう少し、マシだっただろうけど」
オットーとアクセルが話し合う。二人は、大通りの中にある、聖教府の教会を見上げた。
フランシスカ。モノの姉であり、まだ会えていない、最後の兄妹だった。家族の話が出た瞬間、ふっと気が抜けた。
「あいつか。そういえば」
「お、お兄様」
「うん?」
「も、もう、大丈夫でしょうか」
猫の耳が、へたった。虎のサンティが、モノを気遣うように見上げる。アクセルが兜を振って頷いた。
「油断は禁物だがな」
「よかった」
「うむ! では行くぞ! 港に出て、逃げていく敵へ名乗りを行うのだ!」
へ、と変な声が出た。兄が、モノの腕をがしっと掴む。強引なところは、イザベラとそっくりかもしれない。
「兄さん、待ってくれ。さすがにまずい。ここでモノが亜人に喧嘩を売ったら、自治区の中で対立が再燃しかねないよ」
オットーがたしなめる。モノの肩からアクセルの腕に飛び移った。
「おう。そこにいたか」
「兄さん、僕としては、兄さんのそういうところが」
「ふん、気の小さいやつめ。戦場に出ないでどうする? 水を操るなど、無敵ではないか。水攻めが捗るぞ」
「そんなこと考えてたの!? 妙に、モノの力を信じたと思ったら」
その時、モノの猫の耳が動いた。
――クルシイ。
そんな声が聞こえたのだ。背筋がぞくぞくした。明らかに、人間のそれではない。地の底から響いてくるかのように、重苦しくて、不気味だった。
内陸のほうで、咆哮があがる。しゃらんと、金属音。錫杖の音だ。
――代償のないものは、ありません。
疑問を挟む間もなく、視界が赤い色に染まった。




