2-14:最初の実
窓から、自治区の惨状が一望できた。
港から侵入した亜人達は、手はず通り部隊を二つに分けたようだ。一つは、港へ通じる一番大きな道を占拠する部隊。もう一つは、港から市街に侵入し、略奪を働く部隊。拠点を一つ確保し、そこから細い路地へ浸透していくという作戦だった。
大鷹族は、鳥を模した仮面を被っている。望遠鏡で観察すると、一人一人が目を爛々と輝かせていた。血に染まった刀を掲げ、雄たけびを上げる者もいる。港からの叫びが、風と炎に乗ってこの丘の建物まで届いていた。
怨みも、当然だ。彼らは、亜人として土地が貧しい場所に追いやられた。『異民族閉め出し令』。愛した草原から追い出され、ほとんど荒れ地といっていい地域へ活動の拠点を移したのだ。
土地が変わっても、人口が減るわけではない。大鷹族は内情をさらに複数の部族に分けている。彼らを待っていたのは、限られた土地を部族間で奪い合うことだった。
部族間の略奪さえも、日常だったに違いない。彼らにとってウォレス自治区への略奪、人さらいなど、何の罪悪感もないだろう。彼らはそうした生き残ったし、彼らをそうさせたのはゲール人なのだから。
それにしても惨い、と首を振った時、彼を呼ぶ声があった。
「マクシミリアン殿」
大男の神官、マクシミリアンは振り返った。純白の法衣が、窓からの炎に照らされている。微笑は、彫り込まれたように微動だにしなかった。
「これは、猊下」
「どういうことだ」
「どうとは?」
猊下と呼ばれた男は、マクシミリアンとは対照的な男だった。小柄で、やせ形。細い顔はほとんど蒼白で、僅かな髭が脂汗で顔に張り付いていた。わなわな震える口元は、今にも怒鳴り出しそうだ。
聖教府の神官には、明確な階級がある。上下のない組織は機能しない。猊下と呼ばれるのは、極めて高位の神官だった。
「やりすぎだぞ、マクシミリアン!」
マクシミリアンは苦笑する。怒鳴っている神官は、ウォレス自治区を統括する神官である。自治区に黒星騎兵隊を放った張本人でもあった。
今更何を、とマクシミリアンでさえも思う。
「予定通りです。亜人に海賊をさせ、自治区を混乱に陥れる。犯人が亜人とあっては、彼らとの協調を望む南部の勢力は、減退を免れないでしょう」
「限度がある。自治区内の混乱は、オルトレップが……しゅ、黒星騎兵隊が手引きする手はずだ。そのために、奴らに亜人の装束を着させたのではなかったか!」
神官は、窓の外を指した。
「あの亜人共、明らかに、自治区に攻め入っているではないか! これでは、神官にも、教会にも被害が出る!」
港では、ごうごうと火の手が上がっていた。巨大な舌のように、赤い火が夜空を舐めている。望遠鏡を覗けば、裏路地を跋扈する大鷹族が見えるだろう。ゲール人が何人死んだか、もはや数えることさえ愚かしい。
「彼らはゲール人ではありません。聖教府の威光も、ゲール人ほどには通じませんから」
「だが」
「それに、あなたはもう査問を気にする必要はありません」
神官が、呻いた。胸を押さえ、もんどりうって倒れる。目を見開き、胸についた血を、信じられないといった顔で見つめた。
「は、白狼、族……!」
部屋に、いつの間にか亜人がいた。闇に紛れていたのは、黒い服装を着ていること以上に、彼の肌が黒かったせいもあろう。
浅黒い肌に、ざんばらの黒髪。机にあった布で、槍の穂先に着いた血を拭った。暗い中で、狼の瞳がきらりと輝いた。
「もう心配する必要はありません。光の神が望むことは、きちんと実現するでしょう」
倒れた神官は、恨めし気にマクシミリアンを見上げる。叫ぼうとしたようだが、ひゅうひゅうという息が漏れるだけだった。
「実現させるのは、聖教府ではなく、私ですが」
「あ、じん……」
神官は、かすれた声で言った。
「棄教は、本当だったか……」
マクシミリアンは神官を一瞥する。
棄教とは、聖教府の教えを捨てることを言う。
マクシミリアンは、元々異民族へ聖教を広めるための神官だった。こうした者には、棄教する者が多い。辺境で捕らわれ、拷問と迫害の末に教えを手放してしまうのだ。
「いいえ。私は、教えを捨てたわけではありませんよ。より深く、理解したのです。深く、深く……誰よりも深くね」
マクシミリアンは跪くと、死んだ男に向かって臨終の秘跡を執り行った。
棄教という言葉を聞くと、記憶が蘇る。
マクシミリアンは、確かにその淵まで行ったことがある。
彼は辺境で布教をした時、聖教を憎む一団に捕まった。僧衣の下には、今も当時の拷問の跡がある。
マクシミリアンは、大きな深い穴に投げ込まれた。そこは一日に一度、太陽が真上に来た時だけにしか光が差し込まない、暗黒の世界。暗く、深く、古い穴だ。その底で、一日にほんの数十秒差し込む太陽の光を、マクシミリアンは待ったものだ。
何日も、彼に与えられるのはその光しかなかったから。彼は何日も太陽の光を待って過ごした。彼をそこに投げ込んだ亜人達も、彼をそこに派遣した聖教府も、彼のことを忘れただろう。それでも太陽の光は、毎日、変わらずにやってきた。光が、今なら掬い取れるような気がしたものだった。
そしてある日、深い穴の底を陽光が洗った時、マクシミリアンは壁に刻まれたものを目にしたのだ。亜人しか住んでいない辺境に残された、ずっとずっと昔の痕跡に。
――最初の実が落とされた時、誰が実を割り、種を取り出したのか。
モノリスを迎えに行った『魔の島』では、そんな神話があった。地面に落された実を、亜人の先祖が割り、種を取り出した。そして実りを得る方法を見出し、亜人が増えていったというものだ。他の氏族の間でも、似たような神話は多い。
マクシミリアンは、言いたかった。
亜人達よ。あなた方が正しい。
「マクシミリアン殿」
呼ばれて、彼は我に返った。亜人が、彼の指示を待っていた。
ラシャという白狼族の亜人だった。腕も立ち、モノリスの顔も知っているので、マクシミリアンは彼を重用した。
「失礼。モノリスは、どうしました」
「逃げました。恐らく、今回もやるつもりでしょう。島でそうあったように」
マクシミリアンは頷く。想定の範囲内だった。ラシャをモノリスの奪取に向かわせたのは、黒星騎兵隊がモノリスを殺さないよう、監視の意味合いが強かった。
その時、地面が揺れた。ラシャが油断ない動作で、窓辺に寄る。
「水だ」
水の塔が生まれていた。ラシャが目を細める。
「貧民窟の方ですね」
運河の水がたちどころに氾濫し、火事が起こっている場所に精密に躍りかかっていた。
「モノリスの精霊術でしょう。相変わらず、凄まじいものです。奇跡にもひけを取らない」
二人はしばらくの間、市街から聳え立つ水の塔を見つめた。石造りの街に、巨大な水の建造物が屹立する様は、まるで神話の世界だった。
「あれは、本当に精霊術なのですか」
ラシャは問うた。興奮のせいか、島の言語が混じっていた。
「俺に、術に関する知識はない。だが、あんな強いもの、氏族の伝承にさえなかった」
マクシミリアンは、頷く。島にいた時から、確かに違和感はあった。
「あくまで仮説ですが……神官と同じ原理で、術を強化している可能性はありますね」
ラシャは顔をしかめてマクシミリアンを見やった。
「説明が遅れて申し訳ない。魔力とは精神の力。それを巧く扱おうとして、奇跡や魔術が発展しました」
マナの使い方は、三種類ある。
精霊術、魔術、そして奇跡。精霊術は最も下等とされていた。
「奇跡は同じ信仰を持つ信徒のマナも取り込んで、奇跡の威力を高めます。例えば聖教府が国境に張る『聖壁』は、維持こそ聖教府が抱える神官が担っていますが、力の源は聖壁の庇護下で暮らす信徒達です。彼らのマナが、聖教府への畏敬と共に神官へ流れ込み、奇跡の効力を支えます。いわば」
マクシミリアンは、水の塔を見つめる。
「いわば、信仰とは、聖教府にとって人々の意思をまとめ上げるための、仕掛けなのです」
では、と神官は言葉を切った。
「では、信徒のマナを取り込むとは、どういうことか分かりますか?」
ラシャは首を振った。
「方法の一つは、共感することです。モノリスは、先天的にこの共感能力がとても高いのでしょう。彼女の姉には、神官もいます」
「共感?」
「ええ。太鼓や、鐘が振動で音を増幅するように。揺れやすい心は、周囲のマナを増幅させると、私は見ています」
ラシャは首を振った。直接的な彼らしく、大きな欠伸をしてみせる。
「俺には難しすぎる」
「失礼、確かに、仮説で話すべき内容ではありませんな」
ふと窓を見ると、外でグライダーが光を振っていた。
今はまだ、現実的な話をする時間だった。
「行きましょう。そろそろ、運んでおいた積み荷を起す時間です」
力には代償がある、とマクシミリアンは思う。
帝国が享受してきた奇跡にも、モノリスの精霊術にも、代償はあるべきだった。それはもうじき自治区全体が知ることになるだろう。
地下室に行くと、異様な臭いが垂れこめていた。
子供の背丈ほどの木箱が、鎮座している。あらかじめ海から自治区へ運んでおいた積み荷だった。
「私は亜人と交わる内に、幾つも、幾つも、気づかされました」
マクシミリアンは、そっと木箱を撫でた。
「その一つが、『代償がないものはない』ということです。聖教府の奇跡は強力で、帝国中で使われていますが、代償があります。みんなそれに気づいていないだけで」
マクシミリアンは続ける。
「この自治区で、ゲール人は気づくでしょう。今まで目を逸らしてきた、代償に」
カタカタと、木箱が震えた。




