2-13:奇跡的適性
モノは、水門の前にいた。正確に言えば、水門と言われた装置の前にいた。
後ろには下馬した騎兵と、姉イザベラ、そしてヘルマンや自治区の役人が続く。広場から、わざわざモノを追い掛けてきた人もいた。
まさに戦火の渦中にある自治区で、人がぞろぞろと連れ立って歩くのは、異様だったろう。もっと言えば、先頭に猫の耳を生やした亜人がいるというのも。
(す、すごい注目されてる)
モノは息を何度か吸って、吐いて、呼吸を整えた。
「これ、何です?」
まずは問うた。巨大な円形の装置があり、円の中は水で満たされている。淵からは水が流れ落ちて、その先にある水路で回収されるようだった。装置の巨大さのせいか、水音は滝のようだった。
「円筒分水嶺という、水の配分装置だ」
オットーが応えた。兄が操るナナイロネズミは、モノの肩で紫色のトサカを揺らす。
「エントウ……?」
目の前にあるのは、巨大な円筒形の装置だった。故郷の島の広場が、この装置一つですっぽりと埋まってしまうだろう。近くの看板によれば、五十人が手を繋いで、やっとこの装置を一周できるらしい。
「サイフォンの原理で水を下から汲み上げる。丸い形をしているだろう? 巨大なコップをイメージすればいい。つまり、コップの中を汲み上げた水で満たして、溢れさせる。溢れさせた水を、どの方向に、どれだけ流すかは、コップの淵の仕切りで視覚化されている」
確かに装置の淵には、幾つかの仕切りが見えた。仕切りに区切られた円の淵を、零れた水が流れ落ちていく。つまり、円筒からあふれ出た水が、自動的に分割される仕組みになっているということだ。
淵の下には水路があって、色々な方向へ伸びていた。水路の先にはアーチ型の水門がある。一つを除いて、水門は開かれていた。
オットーが嬉しそうに言う。
「とっても簡単な原理だろう? きれいだよね」
「え、うーん、と」
よく分からないとも言えず、モノは口をもごもごさせた。
「ここに水が集まっているのは、分かりますけど」
「そこが重要な点だ。ウォレス自治区は、ごく最初は亜人との協調も謳われた。異民族同士だから、こうして目に見える形で、平等に水が分配されていることを示す必要があったんだよ。円筒分水嶺は、元々は、農業用水を均等に分配するための装置なんだ」
装置の淵にある仕切りを見れば、確かにどの方向にどれだけの水が流れているか分かる。
「今から魔力を流して、この淵の仕切りを動かす。作戦を始める場所に、水を集めるようにね」
「は、はい」
「イザベラ姉さんと、ヘルマンも来てくれ」
「私達もやるの?」
「ああ。どんなに魔力があっても、これは一人では動かせない。安全のためにね。それから」
オットーは、自治区の役人を見やった。先程、混乱を極めた広場から、イザベラに呼び出された男性だ。
髪に白いものが混じった、困り顔。どことなく犬を思わせる。ちょっと失礼だが、運のなさそうな顔つきだった。
「えっと、ノイエ次官でしたね?」
「は、はい」
ネズミに話しかけられ、次官は困り顔だった。オットーの使い魔であると信じさせるのに、結構な時間を要した。
「言っておきますが。この水門は、そう簡単に動きませんよ」
「そうかもしれない。その時は、別の方法で代用するけれど……」
オットーは、肩口からモノを見上げた。モノは精霊術師の力で、この装置の中の水を感覚した。確かに流れを変えることはできそうだった。
(すごい音だ)
猫の耳がピクピク動く。
「でも、大丈夫だ」
オットーがモノの肩を降りて、先導する。装置のすぐ傍に、小屋があった。石造りの頑丈なもの。次官に鍵を開けてもらうと、中には、これまた石造りの台座があった。
オットーのネズミが身軽に動き、台座に乗った。鼻を押し付けて、台座に刻まれた模様を読む。
「うん、稼働するよ」
やがて、治水のための装置が動き出した。水の流れが変わる。
長年ずっと閉じていた水門が開き出すと、集まっていた人々の間に、どよめきが広がった。
◆
オルトレップは、逃げた。あの恐るべき騎士から。
大鷹族の恰好をしているため、まさか自治区の人間に助けを求めるわけにもいかない。
夢中になって逃げた先は、先ほど殺戮を行った貧民窟だった。相変わらずの異臭が鼻につく。不潔なだけではない。不潔さがこびりついた臭いなのだ。路地は狭く、左右の建物から圧迫感を感じる。まるで谷底だった。
オルトレップの姿を見ると、貧民たちは先を争うように逃げていった。亜人もいたし、ゲール人の貧民もいる。彼らは先ほどの虐殺を覚えているようだ。
オルトレップに対する畏怖が、彼の自尊心を満足させた。
「はは、逃げろ、逃げろ。怖い怖い、大鷹族が来たぞ」
オルトレップは笑う。数は減っても、騎兵は騎兵だった。馬蹄の音が、裏路地に響いていく。
「例の公園で、集合を待つぞ」
「はっ」
貧民窟は、部下との合流地点でもある。待っていれば、モノリスの追撃に回した部下が戻ってくる。そしてもう一度、騎兵が組めるというわけだった。ラシャと合流してもいい。成功していれば、きっとモノリスの身柄か、首でも持ってくるだろう。それを持って、とっとと逃げてもいいのだ。
「オルトレップ様」
案の定、部下が戻ってきた。彼らはしきりに上を指している。見上げると、グライダーがランプの光を振っていた。
「なんだ、これは」
直後、うるさいくらいの笛が聞こえる。鳥の声のような、長く続く笛の音だった。
グライダーの乗り手が鳴らしているようだ。亜人同士の伝達では、笛や太鼓がよく使われる。
「あれは……」
逃げろ。そういう指示だった。
「逃げろだと? なぜだ?」
周囲でざわめきが起こった。オルトレップは眉をひそめる。亜人達が騒ぎ出し、しきりに水路を見下ろしていた。
徐々に、徐々にだが、周囲にある水路の情景が変わっていた。水が枯れていた水路に、水が戻ってきている。水かさは増していく。まるで何かが、ここに水を集めているかのように。
新しい水が、水路に溜まったゴミや泥を押し流し、ゆっくりと、確実に、貧民窟を変えていく。
「亜人の貧民窟に、水が戻っただと?」
自治区にも、かつて亜人とゲール人の共存が謳われた時期がある。だが、失敗した。かえって差別が強くなっただけだった。
「なにが起こっている」
「誰かが……水門を開けたのでしょうか」
「馬鹿な。宮廷魔術師が仕組んだ水門だぞ。今の自治区に、勝手に動かせるものか?」
宮廷魔術師は、魔術の専門家としてその地位を確立している。魔術は学問であり、技術である。彼らは一流の技術者とも言えた。
その時、突き当りの路地で、一際大きな歓声が起こった。
そこは亜人に扮したオルトレップ達が、貧民窟で虐殺をした時に、演説をしたあの公園だった。馬車がやってきて、公園の中央で止まる。中から、数人が降りた。
銀色の髪を持った少女が、オルトレップの目を引いた。彼女がやってきた瞬間、水路の水が太さを増したように見えた。
(本当に誰かが、水門を開けたのか?)
噴水に、少女が飛び乗った。身軽だ。彼女はゆっくりと手を上に掲げる。
「あれ、亜人ですよ」
部下が報告する。噴水に、少女が佇んでいる。月の光が、彼女の髪と耳に神秘的な光をまとわせた。
(銀色の、髪?)
オルトレップの体に、悪寒が走った。本能的に悟った。噴水に佇む、あの少女。あれこそがモノリスに違いない。
「なぜここに」
まさか合流地点が、敵に知られているはずはなかった。観察している内に、オルトレップは気づいた。敵は明らかに目的を持った動きをしていることに。
「オルトレップ様、水が」
「分かっている!」
オルトレップは、モノリスの精霊術がここまで強力とは聞いていない。知っていれば、自治区での奪取など諦めただろう。
ごうごうと、水路の水が音を立てはじめる。ただの水路が、激流のようになっているのだ。
「精霊術師という話では、なかったのか」
オルトレップは目を血走らせた。
「この威力、この範囲。まるで、神官の奇跡だぞ」
こうした超常現象を起すには、魔力、すなわちマナがいる。
マナの使い方は、三種類ある。
精霊術、魔術、そして奇跡。
奇跡が最も高等とされる。奇跡の効果、威力は、魔術や精霊術を凌駕するのが定説だった。
なぜなら奇跡は術士一人のマナだけではなく、周辺にいる信徒のマナも活用できるからだった。帝国が擁する膨大な数の信徒が、聖ゲール帝国の奇跡の威力を支えていた。マナとは精神の力。信仰による結束が、大勢のマナを束ねて、巨大な奇跡を発現させるのだ。
モノリスの精霊術は、そんな奇跡にも近い威力を持っている。
(まさか)
不吉な想像が、生まれる。マクシミリアン神官の柔和な表情が、頭をよぎる。彼は亜人を自治区に動員し、ラシャも彼が黒星騎兵隊に遣わせたのだ。だというのに、肝心なモノリスの強さの度合いを、なぜオルトレップ達に教えなかったのだろう。
あの神官が、知らぬはずがない。
(まさか、まさか、まさか……!?)
黒星騎兵は、捨て石にされた。マクシミリアンはオルトップ達と協力する気などなく、どこかで彼らに脱落してもらいたかったのだ。
「ラシャ! どこにいる!」
オルトレップは、叫んだ。
その瞬間、真上のグライダーから誰かが飛び降りた。飛び降りた人物は、呆気にとられるオルトレップ達に構わず、姿を消した。逃げたのだ。
「マクシミリアン!」
オルトレップは叫んだ。この街のどこかに潜む、あの柔和な笑みを張り付けた神官に向かって。
「貴様! 聖教府に、我々に弓を引くつもりか!?」
噴水に、少女が佇んでいる。
オルトレップは怖気を感じた。いったいどれほどのマナがあれば、こんなことが可能なのだろう。自治区の水という水が、開け放たれた水路を通って、あの少女に集まっているかのようだ。
付近のざわめきは高まっている。このような街の住民は、空気の変化に敏感だ。
「まずいぞ」
噴水に水が戻った。枯れていた噴水から、水が噴き出す。
それは、地面から垂直に吹き出す、間欠泉じみた勢いだった。水の塔。月を背負って、屹立している。
「公女様だ」
道の脇で、誰かが言った。声には聞き覚えがある。
ゲール人の男だった。先程、見せしめに脚を射抜かせた哀れな男。彼らの周りには、夫人と、亜人の貧民がいる。けが人の手当てをしていたらしい。
「亜人の、公女様だ」
オルトレップは、槍で前を指した。
「全騎、突撃」
逃げられないとと悟ると、オルトレップは叫んだ。騎兵をモノリスに突撃させた。享楽者は、散る時さえも潔い。
見捨てられていた区画に、清流が迸る。清流はやがて激流となり、オルトレップ達を路地の彼方に押し流した。彼らは水路に追い落とされ、馬も兵士も、そのままゴミと一緒に海まで流されていった。
◆
「手はず通りね。これで、モノの存在はこれ以上ないアピールになる」
――モノリスの存在は、早いうちに、大々的に明かす。
フリューゲル家長女イザベラの思惑は、彼女自身の意思をさえ超えて、実現した。長女は小躍りして喜んだ。
だがモノを見守るネズミだけは、真剣な眼差しで状況を見守っている。宮廷魔術師は、妹の能力の強さに驚いた。明らかに、島にいた時よりも強い力を、自分の意思で振るっていた。
路地の貧民達は、美しい面立ちと、銀色の髪、そして同色の耳を持つ少女を呆然と見上げていた。やがて視線は、陶然となる。『亜人の公女』を称える声が、路地に満ち始めた。
「さぁ、行きましょう、お兄様」
モノが手を伸ばす。噴出し、彼女の周囲に渦巻く水が、その時だけ途切れた。
オットーはおずおずと、その手を取り、妹の肩に乗った。




