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2-8:燃える意思

 早々に自治区を出ることが決まった。

 煮豆と干し肉のスープで食事をすると、モノは早くもすることがなくなった。

 ようやく会えた家族と話をする雰囲気では、やはりない。モノは何か言おうとするのだが、言葉がその度に宙に浮いてしまう。本当に大事なことを言いかけて、言えなくて、上滑りする会話。

 結局、進発の準備が整うまで、モノは寝室で待つことになった。

 目を開けた時、空は赤くなっていた。こんなに早く、朝になったのだろうか。

 眠気眼で、小さな窓から外を見る。

 鮮やかすぎる空だった。こんなにも赤い空を、モノは初めて見た。

 モノは、サンティを失い、精霊術師(イファ・ルグエ)となった夜のことを思う。あの時の空も、見事に色づいていたものだ。


 ――クルシイ。


 モノは、声を聞いた。部屋の中からだ。


「え?」


 振り返ると、奥に黒いもやがある。黒い何かが、汚れ水のように部屋角に溜まっていた。

 ざわり、と寒々しい気配が耳の毛が逆立てた。


 ――クルシイ。


 声は暗がりの中から聞こえる。誰かがモノに呼びかけているみたいだった。


 ――ミンナ、ドコ。


 暗がりは、深淵のようにぽっかり口を開けている。


 ――オイデ。


 その瞬間、怖気が走った。暗がりの中から、視線がモノを捕える。

 逃げようと思った。でも、足は動かない。黒い何かがモノの脚に絡みついていた。

 しゃらん、と涼しげな金属音。


 ――そうなさい。代償のないものは、ありません。


 島で聞いた、神官の声だ。

 本能が警鐘を鳴らす。モノは影を睨み付けた。


「サンティ、お願い!」


 虎の、咆哮。

 サンティは水の虎ではなく、生前の姿で顕れた。

 巨体が影を踏みつぶす。犬歯虎(サーベル・キャット)の言葉通り、鋭い牙と爪が振るわれた。咆哮、猛撃。モノに絡みついていた何かは、ズタズタに引き裂かれた。


 ――残念です。いずれ、また。


 跳ね起きた。手を突くと、柔らかい。ここはベッドの上だ。

 汗まみれの頭を振って、周囲を見回す。

 さっきと全く同じ部屋。しかし、部屋の隅に暗がりもなければ、窓から見える空はずっと褪せて見える。すっかり日は落ちて、夜になっていたようだ。


(夢?)


 あれは夢だった。分かった瞬間、気が抜けた。


「変な夢だな……」


 よろめきつつも身を起こす。備え付けの鏡を覗くと、見事に汗まみれの顔が見えた。猫の耳も、随分とへたって見える。

 島の言い伝えでは、疲れた心が悪い夢を見せるという。ご先祖様が夢を通して、警告するのだ。心が参っていたらしい。


「モノリス様」


 部屋の外からヘルマンの声がした。モノは寝台を這い出て身支度をする。

 白色のショースに、茶色のチュニック。相変わらず旅装に近いが、この状況では仕方がない。島のゆったりした衣服と違って、未だに着慣れない。


「少し、声がしました。何かありましたか?」


 ドアの向こうから、ヘルマンが尋ねた。声音は不安げだ。心配してくれているのだ。


「大丈夫です。少し、その……」


 夢のことは、言わない方がいいだろう。


「寝言です」

「さ、左様ですか。イザベラ様が、お呼びですが……後にいたしますか?」

「いえ、大丈夫です。すぐに向かいます」


 そう言って、モノは鏡を覗き込んだ。

 布で汗を拭いて、無理やりにでも笑ってみる。ちょっとずつ愛嬌が戻ってきた。


(よし!)


 胸の前で両の拳を握って。足を前に出して。敢えて大袈裟な動作で、部屋を出た。

 ここは二階だった。正面の窓から、自治区を一望できる。

 月が出て、海の灯は落ちていた。月光が建物の輪郭を浮かび上がらせている。大きな通りには、ところどころにおぼろげな光が宿っていた。街灯というらしい。

 自治区を東西に走る水路が、月光できらきらと光っている。

 このような沿岸の地域では、治水は重要なことらしい。商業の発展にも相応の理由がある、とイザベラは食事の時に教えてくれた。


 ――治水の責任者がちゃんと決まるから、かなり結束の固くて、規則にうるさい組織が出来上がるのよ。規則を破って水がおかしくなったら、街が沈む。そういう土地柄だから。銀行とか、お金の管理に向いたお国柄になるってわけ。


(話が長いのは、やっぱり姉弟なのかなぁ)


 オットーも話は長かった。この辺りは、今後よくよく話し合う必要がありそうだ。二人の話に平等に付き合っていたら、それこそ日が暮れる。


「イザベラ様は、書斎です」


 モノは頷いて、ヘルマンの後に続いた。

 途中、開け放たれた窓の近くを過ぎる。何かがモノの耳をくすぐった。


(なに?)


 モノは立ち止まり、耳に意識を集中させた。

 人にはない、亜人の聴覚。猫の耳は優秀なのだ。虫の声や人の足音を選り分けていく。

 モノは目を見開いた。


「悲鳴だ」

「はい?」

「それと、馬? ひ、蹄の音です」

「まさか」


 その瞬間、大きな音が空気を震わせた。火山の噴火にも、落雷にも聞こえる。モノには、よく分かった。それは明らかに大砲の音だったからだ。

 海の方からである。


「ついに来たわね」


 男装の美女、イザベラが廊下に出てくる。モノは暗闇の海に目を凝らした。

 星の群れが水平線の付近で不自然に途切れている。


「船だ」


 黒い船。何隻もの船が連なって、ゆっくりと自治区へ向かってくる。

 砲火が瞬くたび、帆や舳先の形が浮かび上がった。鼓動が波打つ。モノがよく知っている船の形だった。


「あの帆の形……」

「亜人の、船です。交易のために、島にもたまに来てました」


 鐘楼で鐘が乱打される。海賊だ、という叫び。


「なんてことだ」


 窓枠にネズミがよじ登ってくる。


「海防隊は何を」

「ヘルマン、忘れたの? 自治区の中にも、敵に通じてるのがいるのよ」

「お姉様。ど、どういうことですか?」

「つまりね。海賊を誘い込むことも、やりかねない。そういうことよ」


 モノは息を呑んだ。体が震える。信じられないが、実際にそうした人間がいるのだ。

 オットーが呻いた。


「強引な、でも、効果的な手を打って来たな」


 異形は、空にもあった。晴れ渡った星空を、大きなものが横切った。


(鳥?)


 三角形の翼を持つ、何か。それが夜空をゆっくりと滑空していく。

 まるで流れ星のように、光が移動していった。


滑空機(グライダー)だ」


 オットーが言った。


滑空機(グライダー)?」

「高いところから飛ばして、ゆっくりと空を滑るんだ。ありていに言えば、ゆっくりと落ちてるんだけど、気流を捕まえれば、ずっと飛んでいることもできる」


 モノは、オネの講義を思い出した。

 跳ねていた心臓を落ち着ける。できることをやっていくのが、動転した時には有効なのだ。


「確か、山岳の亜人の武器ですよね」

「そうだ。空からの偵察は、彼らの門外不出の技術になる。海賊とは、妙な組み合わせだな」


 モノは耳を、空を漂う機械に向けた。疑念が確信に変わった。


「この辺りに、高台は?」

「いや、ないはずだけど。確かに変だ」


 滑空機(グライダー)の飛翔には、高い場所が必要なはずだった。オネから教わったことがある。よほど風が強くないと、地上から飛翔することはできない。


「あれから、精霊(イファ)の力を感じます」

「見えるのかい?」

「いえ。でも、何かはいると思います。精霊術で飛ばしてるんです」


 モノは、夢の中のことを思った。

 あの異様な、叫びのような意思。空にいる精霊(イファ)が関係しているのだろうか。


(多分、違う)


 もっと切実で、もっと恐ろしいものを感じた。


「それにしても、なるほどね。いよいよこれは効果的ね」


 イザベラが口を歪める。


「どういうことですか?」

「今攻めてきてるのって、あなたの話なら、亜人でしょう? 今、ウォレス以外の自治区は、亜人の排斥に転んでる。そんな状況で、亜人の襲撃なんてあったら、もう聖ゲール帝国に亜人の味方をする人なんていなくなるわ」


 イザベラは考え込んだ。そうしていると、とても怜悧な印象になる。


「グレトが裏切っていたのだとしたら、私達がこの自治区にいることも敵に知られている。南部の主張を揺さぶりながら、私達そのものも排除できる、一石二鳥の作戦ね」

「亜人の船ですよ」

「そう。手を組むべき亜人の中にも、私たちの敵はいるってこと」

「でも」


 モノは言おうとした。それは島にいた頃から、ずっと持っていた疑問だった。

 なんで、亜人に味方をするフリューゲル家が、亜人に狙われるのだろう。白狼族もそうだ。この襲撃に亜人が加わっているとしたら、亜人もまた――


「あ」


 心が冷えていく。


「亜人の中には、ゲール人を憎む者も多い。亜人として一くくりにして考えても、色々な氏族がいるだろう」


 オットーの呟きは、水面に落した石のように、モノの心に波紋を広げた。

 イザベラが頷いた。使用人がやってきて、彼女と会話を始める。ヘルマンも混ざって付帯的な指示を始めた。

 どうやら、長女はこの展開も予想していたらしい。脱出計画を前倒しするとのことだった。


保険(、、)を使うわ。地下倉庫へ行って、叩き起こしてきて」


 現実についていけていないのは、モノだけだった。

 敵がそこら中にいる。分かったのは、それだけだ。


「モノ」


 オットーがモノの肩に乗った。


「お兄様」


 モノは、ついに弱音を吐いた。


「私、どうすればいんでしょう」


 知識と知恵は違う。モノは大陸で様々な現実や、知識に触れた。だが、その背後に何があるのかまでは、分からない。街を襲う亜人達に、共感することができないのだ。


「私、ここにいなきゃダメなんですよね?」

「モノ」

「でも……私、分からない」


 分からないまま、また新しい戦いが始まろうとしていた。

 精霊術師(イファ・ルグエ)は共感の力。

 その力は、敵の言い分を理解して振るうべきだった。


「それでもだ」


 オットーは厳しく言った。


「君には申し訳ないと思う。でも、今は僕らは行動しなくちゃいけない。君は死ぬわけにはいかないんだ」

「お兄様、それは」


 その瞬間、モノは自分が嫌な子になったのを自覚した。溜まっていたもやもやが、零れる。


「フリューゲル家が生き残るために、私が必要だからですか」


 オットーが呻いた。モノは自分でも驚いた。

 モノが振り下ろしたのは、刃のように鋭い言葉だった。危うい兄妹の関係が揺らぐには、十分だ。


「ご、ごめんなさい。忘れてください!」

「違う」


 オットーの返事は、思った以上に強かった。オットー自身でさえ、自分の言葉に驚いているようだ。


「オットー。今はよしなさい」


 イザベラがたしなめる。姉弟の沈黙に、オットーの逡巡を感じた。だが彼は聞かなかった。


「多分、君は……僕らに、沢山、言いたいことがあるんだと思う」


 オットーは続けた。ネズミの表情は変わらない。震える声で、モノはオットーの不安を察した。

 だが、兄は続けた。島に迎えに来た、その裏にある生々しい現実と、本当のことを。


「当たり前だよね。それが当然なんだ。十年も放っておいて、一緒に戦おうなんて、虫が良すぎる。巻き込んで済まない」


 オットーのネズミは、モノの目を見つめた。


「それを君が言えないのも、分かる。君は聡い子だ。ここで僕らと不仲になる危うさを、きっと分かっているんだろう」


 モノは島でもそうだった。そうなるべきだと思ったら、自然と、そうなることができた。

 モノは余所者。『明るく、よく笑い、腕が立つ』――そういう人でないと受け入れられないと感じた時、モノはそうなろうと決めた。そして、島でうまくやっていた。

 オットーはモノが思う以上に、モノのことをよく見ていたようだ。

 猫の耳が動く。オットーの言葉を、一つとして聞き逃さないように。


「正直、これほど激しい戦いになるとは、思っていなかった。でも君がこれから立ち向かうのは、こういう場所なんだ。悪意に満ちていて、正しさなんてものはなかなか見つけられなくて」


 オットーは続ける。


「僕は、君に謝らないといけない。君を島から連れ出す時、もっと詳しく、もっと厳しい状況を語るべきだった。君にしてみれば、嘘を吐いたにも等しいんだと思う」


 でも、とオットーは付け足した。

 兄の焦りを感じた。それでも彼は、誠実にすべてを話そうとしていた。


「それでも、僕らを信じて欲しい」


 窓からの熱風が、オットーの髭を揺らす。魔術師のネズミは、生の言葉に、ありったけの思いを賭した。


「島に行ったのは、家のためだけじゃない」


 オットーは言った。


「僕は君に、会うべきだと思ったんだ」


 モノは目を瞬かせた。


「私に?」

「ああ」

「……どうして?」


 モノでさえ、島では家族に会いたいと思っていなかった。オットーはネズミの体で、精一杯に告げた。


「母さんの話を、聞いたことはあるかい。母さんは、君を島に送り出す時、自分で行ったんだ」


 オットーは続けた。


「父さんは、死の床で、家族五人で力を合わせて生きろ、と言った」

「オットー。もう」

「姉さん、言わせてくれ。勝手に島に言ったのは悪かったよ。でも、誰かが、君の島に行かなければならないと思ったんだ。だって十年ぶりなんだよ」


 オットーの言葉は、当たり前のことだった。イザベラが顔をしかめている。そんなこと言っている場合か、と。

 でも、『そんなこと』を気にするのが、オットーだった。モノの兄だった。


「思い上がりかもしれないけど……家族の誰も君を迎えに行かなかったら、君に何かを頼む資格なんて、誰にもないと思ったんだ」


 その言葉は不思議と胸に響いた。

 これがオットーでなかったら、モノはもっと違う反応をしただろう。

 でも、オットーはそう言って、自分で島に来た。それが簡単な決断でなかったことは、生身を首都に置き去りしていることからも明らかだ。

 何度も手に持ったから分かる。肩に乗せたから、分かる。

 オットーの体は、人のそれに比べて弱弱しい。

 モノに魔術の知識は乏しい。けれど、馬車の中で首都に取り残されたと聞いた時の慌てようは、まさか演技ではあるまい。

 そして、兄が隣にいるという事実が、心強かったのも確かだった。

 モノにも確かに、オットーの覚悟に救われた部分があったのだ。


「ヘルマン様、イザベラ様」


 フリューゲル家の使用人が、一階から声をかけた。

 馬車と、何かの準備が必要らしい。二人は付帯的な指示を出しながら、一階へ向かった。

 ちらり、とイザベラが微かにオットーに視線を送る。

 オットーはモノを見つめたままだった。

 長女は肩をすくめて、場を次男に託した。その頬に笑みが宿るのに気づいたのは、すぐ傍にいたヘルマンだけだった。

 ヘルマンは二人に黙礼して、辞した。


「モノ」


 オットーは言った。港で上がり始めた火の手が、彼の姿を後ろから照らす。


「何も分からなくてもいい。説明がもっと必要なら、不安なら、僕に聞いてくれればいい。今は行動するんだ。何よりも、君が生き残るために」


 兄は続ける。島に来た時と、まったく同じ言葉で。


「モノ、一緒に帰ろう。家のことを抜きで、君は大事なんだ」


 目の奥が、かっと熱くなった。そんなストレートに言われるとは、思わなかったのだ。

 意地悪なことを言ったのが、恥ずかしかった。


「そ、そそ、そんな」


 モノは言った。口惜しさを込めて、口をとがらせてやるのがせいぜいだった。

 震える声を隠して、ぎゅっと服を握る。モノは俯き気味に、オットーを睨み付けた。


「しょ、正直、まだ、”今更何だ〟って感じなんですよ? 島じゃ、すっっっごく大変でしたしっ」

「ああ」


 言葉が口を突いて出てくる。モノは自分で自分の声の激しさにびっくりしていた。


「余所者って言われたり。サンティを拾って、育てて、狩人になれなかったら、どうなってたか!」

「うん」

「いじめる子だっていたんです。まぁ、全部やっつけましたけど……」


 モノは拳を握った。短い間だった。涙が零れそうになってこらえる。

 モノは、気づいた。

 自分は我慢していたのだ。家族がいない、という事実を。

 我慢している時間が長すぎて、そうしていることさえ、気づけなくなっていただけで。


「君は、環境に負けなかった」

「……サンティやオネのおかげです。魔獣を倒したのだって」

「君は島じゃ英雄だったそうだな」

「はい。ヤムイモの作付けでも」

「ヤムイモ? 島の作物だね」


 オットーが、きょとんとした。

 モノは驚いた。島で会ってから、一週間は優に過ぎている。

 島の生き物や、天気や、食べ物。そうした当たり前のことを、モノはまだ全然話していなかった。


(もっと話したいな)


 モノは思った。

 兄の本当の姿や、これまでの生き方を、もっと聞いてみたいと思う。

 『これから』の話も。


「お兄様」


 涼やかな気持ちが、胸に流れ込んだ。


「モノ、すまない」


 亜人の少女は、前を見る。褐色の腕に力を、ダークグリーンの瞳に意思を込めて。窓からの熱を帯びた風が、銀髪と、幻想的というにはあまりに生々しい猫の耳を揺らした。


「いいんです」

「でも」


 モノは、笑った。

 いつもの弾けるような笑みとは、少し違う。密やかで、救われた、大人の微笑を漂わせた。


いいんです(、、、、、)


 モノは、兄を許した。島での孤独も、今の騒動も。

 許すことで、前に進める。そういうこともあるのではないか、と今のモノなら思える。

 オットーは頭を振った。再びモノを見つめる目は、厳しかった。


「現実の話をしよう。フリューゲル家はまだ困難にある。君を島から連れ出したのは、相続はせずとも、いっしょに戦ってもらうため。そこには困難がある。例えば、今の自治区がそうだ。敵は具体的に、物理的に、僕らを叩きのめそうとしている」

「はい」

「君は道を行く。険しい道になるが、絨毯は僕らが敷く。敵は騎士の兄さんが倒すだろう。商人の姉さんはいい絨毯を買うし、神官のフランシスカは僕らの無事を祈ってくれる。僕も、及ばずながら、君のポケットの中で囁いてやることはできる。でも」


 オットーは告げた。


「歩くかどうかは、君の意思なんだ」


 夜景には、聖教府の尖塔も写っている。

 尖塔からはマナを感じる。尖塔から発生する力が、聖壁を作り、自治区を帝国から切り離している。戦火に巻き込まれる市街の中で、白亜の建造物は超然と佇んでいた。

 純白にそびえる拒絶の意思。


「いいんだね?」


 モノは、頷いた。


「はい」


 モノは考える。

 その道を歩いた先は、どうなっているのだろう。

 聖ゲール帝国がよくなったり、あるいは悪くなったりするんだろうか。そもそも、何がいいか、とか考え始めると本当にきりがないのだけれど。

 でも、確かなことが一つある。

 モノは窓枠に座るオットーを、両手ですくい、持ち上げた。

 ネズミの後頭部に、そっと唇を添える。気づかれないほど、短く。島でもごく親しい人にしかやらない、親愛の挨拶だった。


「……も、モノ?」

「何でもないです」


 モノは悪戯っぽく笑った。そのくせ、我に帰って急に恥ずかしくなる。ごほんと咳払いして、気を取り直した。

 なお、大陸ではこの仕草にはもう少し重い意味があり、彼女を後々それを知って悶絶することになる。が、それはまだ先の話だ。


「と、とにかく、この場を切り抜けましょう! 街を守らないと!」


 それだけは、正しいことであるはずだ。少女の意思が燃え上がる。

 その時、


 ドン!


 と、外で大きな音がした。裏庭の方からだ。

 起きた、とか、落ち着いて、とか、使用人達のざわめきが聞こえる。


「……な、なんでしょう?」

「ああ、うん。後で説明するよ、後でね……」


 オットーが困ったような、というよりも面倒くさそうな目になった。


「?」


 モノは首を傾げた。そうしたまま、意識を周囲に集中させた。

 精霊(イファ)の力は、生き物との交感の力。

 モノの力が及ぶ範囲が、術領域として展開し、自治区を覆い始める。どうやら、魔力(マナ)はすっかり回復していたらしい。屋敷の近くの水路から、糸のように感覚を張り巡らせていくのは造作もないことだった。

 モノはゆっくりと目を開いた。


「水、ありました」


 備品を運ぶための水路や運河が、自治区には整備されていた。もちろん、海も近い。

 モノは水に、昼よりも大きな力が宿っているのを意識した。


「ああ、それはね」


 オットーが解説してくれる。

 今は夜。満潮の時刻なのだ。水は月の力を受けて、上に行きたがっている。

 船は沖からやってくる。港は敵を防ごうとするだろう。

 でも、市街でも戦いは起こっていた。どうやら何者かが市街にも敵を伏せていたらしい。

 陸と海に敵がいるのでは、港は挟み撃ちになってしまう。


「お兄様。街は、どうしましょう」


 モノはざっと地形を確認してみる。

 それは、精霊術師(イファ・ルグエ)として水に感覚を広げるのと、同時に行った。

 水は高きから低きへと流れる。水の流れを知覚することは、地形を知覚することだった。水の流れ方、留まり方で、そこがどんな地形になっているかは分かる。流れが途絶えているのが、きっと貧民街だろう。


(ひどいところだったし)


 水路が管理されず、水が止まっているに違いない。こんな時にも関わらず、モノ達はあの見捨てられたような亜人達の様子に、胸を痛めた。


「戦うべきです。でも、戦力が」


 フリューゲル家の戦力といえるものが、この街にどれだけあるのだろう。

 馬車から見た街の様子を思う。

 特に貧民街は、今頃ひどいことになっているかもしれない。誰があの寄り場のない亜人達を助けられるのだろうか。


(せめて、魔の島のように、味方がいれば)


 と、階段から足音が聞こえた。金属音が混じっている。

 重々しい具足の音だ。


「え、え」


 戸惑うモノの目の前に、甲冑を付けた男が現れる。でかい。隣に立つイザベラよりも頭二つ、ヘルマンよりも頭一つでかい。

 正面に立たれると、もはや見上げることしかできなかった。


「聞こえておったぞ」


 男は言った。火を吐くような声だ。


「ドーラの髭にかけて、これは公女の意思に応えねばならんな?」


 賞して、男は大笑した。手に持った食べかけのハムに齧りつき、思い切り顔をしかめる。

 モノはぽかんとした。

 男から濃密な納屋の臭いがする。モノは口を半開きにして、オットーへ問う。

 なお、イザベラは終始どこ吹く風だった。


「……誰ですか? この人」

「モノ。紹介が遅れた。これは、なんというか」


 騎士は、まだむせていた。

 モノは思う。そういえば、こんな声を地下倉庫で聞いた気がする。


(……騎士?)


 男の装備は、明らかに物語で読んだ騎士のそれだった。

 家族は、それぞれの道に分かれて大成した。

 大商人のイザベラ。聖女のフランシスカ。宮廷魔術師のオットー。そして――。

 そこでモノは、気づく。

 馬蹄の音は、港の方ではなく、もっと近くから聞こえてきた。数多の馬が、この家に向かって近づいてくるのだ。

 敵襲だろうか。

 モノは慌てて、路地を見る。騎兵がやってくる。月光が、騎士達の純白の甲冑を白々と輝かせた。


「本来なら私が家長だが、今はお前が、唯一の家督の持ち主だったなぁ。うーん、ままならんものだな」


 騎士は言った。


「どれ、命じてみるがいい」


 騎士は、名乗らなかった。同じダークグリーンの瞳が、モノを見つめる。


「それで、お前は、どうしたいのだ」


 ふいに、島でオネに言われていた言葉が蘇る。


 ――もう、子供じゃないのよ。


 モノは目線をしっかりと受け止めた。胸の熱が命じるままに、彼女は宣言する。


「この街を守ってください」


 騎士は笑って、モノの背を叩いた。大きな手だった。


「強い子だな。まるで母君のようだぞ」


 騎士は剣を抜いた。

 騎士の名は、『アクセル・フォン・デア・フリューゲル』。

 フリューゲル家長男にして、次期公爵。モノの、二人目の兄だった。


「我が高貴なる血は、発火する」


 抜かれた剣を、真っ赤な血が伝った。次の瞬間には、剣が炎を帯びていた。

 窓の外で、騎士達が快哉をあげる。

 まるで勝鬨(かちどき)

 地鳴りのように声が響く。その瞬間、砲火も市街の悲鳴も止んだように思えるほどだった。


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