1-1:平和な島
息を殺して、身を隠した。
十五歳になったモノは、島の密林にいた。暗い夜を彷徨っているような錯覚に捕らわれてしまう。うっそうとした木々は、真昼の陽光さえも殺してしまうのだ。
音と臭いが大事だった。遠くの水の音。草と土が臭い立つ。時折、鳥の鳴き声が、不気味な笑い声のようにモノの周りに渦巻いた。
どんなに感覚を研ぎ澄ませても、追跡者の気配は知れない。
(相手も、慣れてるな)
少なくとも彼女より、よほど狩りは上手い。
まずいことになった、とモノは緊張の息を吐く。
地形を確認する。
密林の中には、役立つ地形がたくさんあった。岩や木に登るか、それとも、どこかでやり過ごすか。密林のざわめきは、敵にも、自分にも、平等に厄介だ。
背後で葉っぱが揺れ始めた。危機の気配。いつの間にか、風上に立っていた。
「やばっ!」
駆けていた。裸足で土を蹴って、沢を飛び越える。岩をよじ登り、また駆ける。全身を使った逃亡だ。
すぐ後ろに、息遣い。
垂れ下がった枝を掴んだところで、敵が彼女を捕えた。柔らかい土に、押し倒される。毛むくじゃらの太腕で、仰向けに押さえつけられた。
狩人は、巨大な虎だった。
虎は大口を開けて、彼女に牙を見せつける。犬歯虎というこの島にしかいない虎だった。
虎は大きな口で、そのまま彼女を、舐めた。
何度も唸ってみせる。琥珀色の目は、ちょっと得意そうに輝いた。
「あーあ……」
彼女はしばらく舐めさせるままに、任せた。やがて丸太みたいな腕を押しのけて、立ち上がる。
全身に土と葉っぱ。体に巻き付けている緑の服が、盛大にずれていた。涎に塗れた顔は、服の裾で拭う。
近くの川まで歩いた。その後ろを、虎がノシノシ着いてくる。彼女達が行くと、近くの木から鳥たちがたちまち逃げていった。
「サンティ、ちょっとは手加減してよね」
モノは唇を尖らせて、小川の水で顔を洗った。
顔にこびりついていた土や、髪についていた葉っぱが落ちる。小川の周りには日が差していた。きれいになったモノを、陽光が照らす。彼女は、若木のように成長していた。肌は、土と太陽の色。昔から表を飛び回っていたことが、長い手足と褐色の肌に表れていた。
体つきはほっそりとしている。ところどころ女性らしさが出てきていたが、身長と同じで、まだ成長の途上にあった。
「グルル?」
「んに。あと、顔はやめて。一応、もう、子供じゃないので」
「グゥ……」
モノは褐色の腕を組んで、険しい顔を作った。
猫を思わせるアーモンド形の目に、翡翠色の瞳。口は大きくて、若干、アヒル口だった。
精一杯の険しい顔も、どこか拗ねたような可愛げが出てしまう。
風に、銀色の髪がさらさらと揺れた。その中から岬のように、三角形の耳がひょっこりと突き出している。
島の人々に独特の、獣の耳だった。
その獣の耳が小刻みに動いた。
「あれ」
彼女は声を出した。
虎が怪訝そうに主を見上げる。モノの顔に、笑顔が弾けた。暗い密林の中さえも、明るくしてしまうような笑顔だった。
「おいで、サンティ。もう怒ってないよ」
モノは虎を伴って、岩を上った。
その間も、獣の耳が動き続けている。彼女には、聞こえているのだ。
やがて、岩を登り切る。見慣れた、美しすぎる光景が一人と一匹を出迎えた。
外の世界は、海と空だった。
見渡す限りの水平線に、今日も隣島の噴煙がたなびいている。
青と白だけのシンプルな空を、極彩色の鳥が飛んでいた。乾季が終わり、渡り鳥が島に戻ってきたのだ。
伸びやかな鳥の声は、時の声。新しい季節の予感だった。
「今日は、お祭りだ」
モノは笑顔で言った。
最初の渡り鳥が帰ってくると、島の人たちはいつもお祝いをする。楽器を鳴らして、伸びやかなリズムで季節の変わりを告げる旅人を出迎えるのだ。精霊様も、まさかもう雨を先延ばしにしたりしないだろう。
こんな日に遅くまで狩りをするのは、全く野暮なことだ。
今日は他にも早く帰りたい事情がある。彼女は、今日で十五歳。誕生日であり、島の成人日でもある。今日は彼女の二重のお祝いになるというわけだ。
――モノ。もう子供じゃないのよ。
オネの小言を思い出す。モノは追い掛けっこのために放っておいた弓や縄を、回収した。
「帰るよ、サンティ」
裸足で土を感じながら、木の根を跨ぎ、沢を渡る。足取りは軽い。モノが足を止めたのは、丸太でできた橋を渡ろうとした時だ。
すぐ横には、滝がある。
音を立てる水の壁だ。ひんやりと気持ちいい場所だ。
そんな水の精気がいっそう濃い場所に、いやな臭いが混じっている。
モノは鼻をひくつかせた。油断なく、下をのぞき込む。
滝壺の中に、黒い固まりが見えた。獣の死骸にも見えた。手の形が見えたことで、それが人間だと分かった。
「人? こんな場所に?」
モノは油断なく辺りを警戒する。漂っているのは、紛れもなく、血の臭いだ。
「助けなきゃ。サンティ!」
モノは虎に乗った。危うい滝つぼへの足場も、動物の爪と四本足なら問題ない。
モノは水辺まで近づいてから、声を張った。
「大丈夫ですかー?」
声をかけても、反応はない。体つきは、男性のようだ。黒く見えたのは、彼が身につけた外套が水に広がっていたからだった。
(でも、見ない服だね)
旅人かもしれない。
モノは虎から降りて、水に入った。彼女が入水すると、流れが変わる。不規則に渦巻いていた滝壺の流れが、男性をモノの方に押し出すように変化した。
彼女は流されてきた男性を受け止め、そのまま岸に引っ張ってやるだけでよかった。
「ありがとう」
礼を言うと、水の流れは元の荒々しさとなった。
モノは男の背中をぽんと叩く。あくまで、軽く。どこを叩けば呼吸が戻るか、モノはよく知っていた。
やがて男が咳き込んだ。
「連れて帰るよ」
虎が腹這いになった。モノは手際よく、男の重たい体を虎の背中に引っ張り上げる。
運ぶ前に軽く調べると、腕にはえぐった跡があった。鼻を近づけると、腐ったような臭いがする。
(毒だ、これ)
別の氏族にやられたのだろうか。
島では、様々な種類の人間が、氏族という集団を作って暮らしていた。
男の顔立ちは、どの氏族とも違っている。肌も、島の人間であればもっと日に焼けているはずだった。耳の形も珍しい。頭の上ではなくて、顔の横についている。島の外にある、大陸の人の顔だった。
(これは、村に報告しないと)
いずれにせよ、モノは戻らなければならなかった。短剣を抜いて、薬草を摘んでから歩き出す。
しばらく密林の中を進むと、木が途切れ、村が見えてきた。
すぐ近くを流れる川が、村を縁どるように伸びている。川は、豊かな畑と、赤土の家々を抱え込むように、ゆっくりと弧を描いて海の方へ下っていた。
モノは川沿いの道を歩いた。
なだらかな下り坂に沿って、畑と赤土の家が並んでいる。見慣れた村の姿だ。暮らしているのは、千人くらい。島の村では大きな方だ。
イモの作付けに備えて、畑に出ている人がいた。彼らはモノと虎が帰ってくるのを見ると、手を振ってくれる。
「モノ。この方はどうした?」
モノは応えた。
「怪我人です。毒だと思う」
男達が集まってきた。褐色肌の男達は、布を頭に巻いている。
「待てよ。おい、大陸の男だぞ」
顔をしかめる者もいる。この島は、陸地からは遠く離れている。昔ながらのやり方や、信仰がまだ深く残っていた。
「知り合いかね? モノ」
「まさか」
言い合っていると、声がかかった。
「モノ! ここにいたんだ」
道の先から、友達の女の子が走ってきた。モノと同じ獣の耳がある。黒髪だから、耳の色も黒かった。
大人は布や帽子で獣の耳を隠す習わしがあるから、こうして耳を揺らして歩くのは、子供だけだった。
「長が呼んでるよ」
「え、えー」
モノの耳が、小刻みに動く。視線もそれに従って、方々を彷徨った。最近は粗相も控えているので、心当たりがない。勝手に書物を持ち出したことは、昔はあったけれど。昔は。
「また何かしたの?」
「またとは心外な……! 何もないと思う、今は」
「渡すものがあるって」
なんだろう、とモノは首を傾げる。虎を駆けさせて、怪我人を自分の家まで運んだ。育ての親が腕のいい医者なので、彼女に任せるのが一番確実だった。
長の家に行く旨を伝えると、なぜかいつもよりしっかりと準備をするように言われた。
結局モノが長の家へ向かったのは、虎のサンティを森に帰して、薬作りを手伝ってからだった。
軽く身だしなみも整えた。偉い人の家に行くのだから、色々と持っていくものもある。島は作法や話術を重んじるのだ。
家から広場に戻ると、早速、納屋を四つも持つお屋敷が見えてきた。そこが長の家だった。