2-6:炎上前夜
一般的な家の場合、用足しの場は外にある。
モノは目が覚めてしまったため、念のためフードを深く被ってから、裏庭に出た。
大分日は傾いていた。音にさえ注意していれば、襲撃も大丈夫だろう。
使用人たちは付き添うと言ってくれたが、さすがに断った。亜人の耳をもってすれば、むしろ使用人が近くにいる方が、雑音が入って邪魔なのだ。手が空いている者が、男性ばかりだったこともある。
生け垣が周囲を高く囲っており、周りの家から裏庭が見えることもない。
確かにこの物件は、隠れ家には理想的だった。
(こんな家を、すぐに用意できるなんて)
改めて、モノはイザベラの財力の凄まじさを知った。
話では、目くらましのために似たような物件を、近くに二つ、反対側の地区にもう三つ用意したらしい。
モノは歩きながら、他にも色々なことを考えた。
(これから、どうなるのかな)
島を出る時は、確かに興奮と、使命感があった。
でも新しい世界の知識を浴びている内に、もっと言えば現実を見せつけられている内に、よく分からないことも増えた。
自治区の亜人達。
生まれ育った島を巻き込んだ、相続の騒動。
そして予想以上に素敵だった姉。
どれも大変なことだ。
だが、モノはまだ何も知らない。
農業の収穫量? 聖典? 財政赤字? ついでに活版印刷?
オネの授業と、オットーの講義を、モノはなんとか結び付けて理解しようとした。それでも限界はある。
船旅では精霊術の練習もあったため、大陸の現在についていくための情報は、やはり足りてはいないのだ。
目の前のことと伍していけるだけの、何もかもが足りない。
帝都へ行って、騒動を解決した後は、あわよくば島に帰るつもりだった。島が好きだし、オネや、友達にもまた会いたい。そんな希望も抱いていた。
(私、随分、大変な役割ってことだよね)
オットーは島を出る時に、そこまでは説明してくれなかった。ただ考えてみれば、『公爵家』の一員として表に出ていくということは、どう考えても、そういうよく分からないことの中に飛び込んでいくことなのだ。
(船の中で、もっとちゃんと聞いておくんだった……)
思えば、オットーが船で色々モノに教えたり、降りた後に貴族の義務について語ったのは、モノにその辺りの事情を教えるつもりだったのかもしれない。
楽観したつもりはないが、多分、モノが正しく彼の言葉を理解しなかったのだ。
だからモノにも、非はある。あるのだが――
「うーん、でもなー」
呟きながら、トボトボ歩いた。なんとなく落ち着かない。原因は、分かっている。
一度は封印したはずの、家族に対するモヤモヤした気持ち。それが再来していた。
(もうちょっと、詳しく話してくれてもよかったのに)
じっくり話す時間も惜しかったのかもしれない。モノが勉強不足だったのかもしれない。
でも『こんなはずじゃなかった』という思いは、どうしたって生まれた。
モノは北の空を見上げる。
ウォレス自治区を抜けて、聖ゲール帝国へと続いていく空は、その方向だけが薄く濁っていた。
まるで透明な壁があるかのように、陽光が空中の所々で照り返している。
「壁、か」
奇跡『聖壁』。
亜人の侵入を防ぐために、聖教府が南部の国境に引いている奇跡だ。
ゲール人達が、亜人を拒むための魔力の壁だった。
見上げれば見上げるほど、壁は巨大にそそり立つ。
(フリューゲル家は、とんでもないのと戦ってるんだ)
モノも精霊術師。マナを使う者のはしくれだ。
こんな奇跡を実際に開発し、運用してしまう聖教府の頑なさに、背筋が寒くなった。
マナとは、精神の力である。
奇跡は信仰によって精神の力を高めるという。
これほどの奇跡が生まれることこそ、亜人とゲール人の間に、巨大な壁があることの証左だった。
(お兄様やお姉様は、本当は、私をどう思ってるんだろう)
モノは、想像が危うい方向に向かうのを自覚した。
考えてしまう。
例えば、モノがどこかの広場に引き出されて、王様や他の貴族から糾弾を受けたとしたら。
家族は、助けてくれるだろうか。例えば、助けることがフリューゲル家を危うくする場合でも。
モノの存在が醜聞なのは、この聖壁を見ればいっそう明らかだった。
「んににに」
モノは唸る。猫の亜人じみた唸りだった。島でさえ行儀が悪い行為なのだが、本人は気づかない。
首を振って、気を取り直す。
(悩むより、行動だ!)
モノの足が止まったのは、そんな時だ。
声が聞こえたような気がしたのだ。
その方向に足を進めてみる。
下へと降りる、階段があった。
亜人の耳は、その先から聞こえる声を拾っていた。
「誰か、いるのか?」
びっくりした。地下倉庫から、声が聞こえた。
「あ、あの」
「ああ、やはりいたか。ちょっと頼まれてくれんか?」
モノは周りを見回した。誰もいない。
「た、頼み、ですか?」
「おお、そうか! 助かるぞ。うむ、知っての通り、ここから出られなくてな」
「は、はぁ」
そこ、倉庫みたいですけど。
言いかけて、モノはやめた。深い事情があるのかもしれない。
「食堂にハムとワインがあっただろう。それを持ってきてくれんか。ハムには砂糖をかけてくれ」
「はぁ?」
モノは変な声を出してしまった。
「は、ハム、ですか?」
「そうだ、頼んだぞ」
変な人だと思った。使用人だろうか。
だがモノは真面目に食堂に行って、その事実を告げた。
自分は何をやっているのだろう、と思わないでもない。
フリューゲル家の使用人は、驚いたようだ。
「……地下倉庫から?」
イザベラが、額を押さえた。
「貸して。私が持っていくわ」
「で、ですが、イザベラ様」
「いいから」
あっけにとられるモノと、青ざめる使用人に構わず、イザベラはハムに思い切り塩を振りまくる。
「お、お姉さま」
「まったく! あいつは! どこまで!」
あわわ、とモノは口を動かした。
いつの間にかいたオットーが、遥か彼方を見る目をした。
「姉さん、塩にも致死量がある。およそその三倍だよ」
「知るもんですか」
と、勝手口へ向かう。乱暴に扉を開けると、目の前に外套を羽織った男がいた。
フードを目深に被っている。
そのフードには、聖教府を示す二つ星が刺繍されていた。
「イザベラ様」
「……フランシスカの使いね。どうしたの?」
「聖女様から、お手紙が」
その言葉は、台所中に聞こえた。
モノは息をのむ。
フランシスカ。マクシミリアンと同じ神官でもある、モノの二つ上の姉だ。
四人いる兄と姉の中で、一番、歳が近い。
所属は、聖教府だった。
「自治区を抜ける用意が整った、と。奇跡『聖壁』を亜人が通過する場合、フランシスカ様の支援が必要です。それとこちらが」
男は、紙片を差し出した。
「自治区の帳簿です。公開されている方ではなく、担当官がつけているものです。信用性は、十分かと」
イザベラは皿を置いた。
帳簿をまくり、顎に手を当てる。そのスピードは速すぎて、ほとんど読み飛ばしているだけのように見えた。
「あー、やばいわね。最悪」
イザベラはモノに向き直り、彼女をじっと見つめた。
「オットー、モノ。今晩には出るわ。出発の用意を」
オットーが声をあげた。
「もうか?」
「ええ」
「何で」
「ここも危ないわ」
モノは、きょとんとした。顔を青くする。
「まさか、この隠れ家がばれたんですか」
「いいえ。自治区全体が、危ないの」
「根拠はあるのか?」
「宝飾品」
モノも、オットーも、きょとんとした。
「宝飾品?」
「自治区が、この辺りの商人の債券や手形を、次々に換金して、宝飾品に変えてる。それも、昨日」
オットーは、気づいたようだ
「自治区の債券が、暴落するってことか? つまり、襲撃が」
「半分は正解。それだけじゃない。宝飾品は、持ち運びやすくするため。つまり……逃亡準備よ。近々、何かあるんだわ。おまけに、食料も。特に――飼い葉? 馬の食糧ね」
モノは目を瞬かせた。
「この街に、騎兵を送ったやつがいる。多分、聖教府の」
「騎兵、ですか」
「ええ。目撃情報もある。辺境で鳴らした、黒星騎兵隊ね」
モノは息をのんだ。
だがその騎兵の中に、見知った顔がいようとは、想像もしていなかった。
◆
ウォレス自治区の片隅で、騎兵達が出立の準備をしていた。
「頼むぞ、新入り」
そう言われて、浅黒い肌をした青年が、兜のフェイスガードを降ろした。
独特の意匠が彫り込まれた、短槍を獲物としている。
腰に吊るされた極彩色の仮面が、歩く度に、がらんがらんと揺れた。
少し短いですが、多忙にて失礼いたします。