2-4:長女イザベラ
それは、ある日のことだった。
フリューゲル家が相続を巡る混乱に突入する、ずっとずっと前のことだ。
「ちょっといいかしら」
愛らしい少女が言った。
肌は白く、唇は押した花のように小さい。服装を見れば、一目で上流階級と分かる。見た目にはあどけさなが残るが、口調は強かった。
銀髪の下で、聡明そうな黒色の瞳が、きらりと輝いた。
「この数字は、本当にこれでいいの?」
ヘルマンは目を瞬かせた。当時、ヘルマンはまだ三十と少し。
家令として帳簿を確認している時、主人の娘に捕まったのだ。
一緒にいた帳簿の担当官と、顔を見合わせる。
机には、羊皮紙が広げられていた。いつの間にか、主人の娘がそれを覗き込んでいたのだ。
「これは、お嬢様。いけませんぞ。ここは、執務室ではありませんか? 公爵閣下からも」
「質問に答えて」
ぴしゃりと言われて、ヘルマンは帳簿の担当官と、もう一度顔を見合わせた。
やれやれ、と目線を交わし合う。
これは遊びに付き合うしかないようだ。
「失礼を。ですが、我々には、帳簿の誤りなどないように思えますが」
担当官は言った。
帳簿の管理者らしい長い指が、羊皮紙の上を滑る。
「帳簿の、右と左があるでしょう。右が借りたお金、あるいは、フリューゲル家の原資。左が土地や債権、船や風車などの設備、未回収の税金など……つまり、運用状況ですが」
分かりますか、と担当官は目で娘に問いかけた。
娘は頷いた。
「分かるわ」
「では。右の金額の合計と、左の金額の合計が、ぴたりと一致しています。これは、均衡を表します。光の神がお創りになった世と同じように、平らかで、歪みがないでしょう? フリューゲル家の資産も間違いなく、管理されているということです」
娘は、じっと羊皮紙を見つめていた。
担当官の説明は、いかにも子供騙しだった。
けれど、これで引き下がってくれるなら、ありがたいことである。
「違うわ」
娘は言った。
「はい?」
「これは、『今』の帳簿でしょう」
担当官が言葉を失う。
ヘルマンは眉をひそめた。自分が出るべきだと思った。
「『今』、とはどういうことですか?」
「今のフリューゲル家の帳簿ということ。ついでに言えば、ついこの間に完成した船が載ってない。一月は前の情報ね」
ヘルマンは舌を巻いた。帳簿の細かい違いに気づくほど、いつの間に過去の帳簿まで読み込んだのだろう。
「アレがない」
「アレ?」
「さっき見たのよ。あの、式典に来てた、お兄様の隣にいた、偉い人にあげる、あの勲章!」
ヘルマンは、気づいた。
「双頭の鷲勲章ですか」
「そう! あれはどこにあるの?」
担当官は、ようやく分かったという笑みを浮かべた。
「ああ、なるほど。あれは、金細工師に発注をして、本日、将軍に引き渡しました。この帳簿では……ここ、宝飾品の欄に記載されています。なにしろ今日のことなので」
「それだけでいいの?」
ヘルマンと担当官は、同時に顔を見合わせた。
娘の目は、じっと帳簿に注がれている。数式に挑む学者のような、期待と緊張の籠った眼差しだ。
「降参です」
ヘルマンは白旗をあげた。
「お嬢様。あなたは、この帳簿に、何を加えるべきだとおっしゃるのですか?」
娘は、腰に手を当てた。
「そんなことも分からないの?」
心から呆れた様子だった。
担当官を徒に怒らせる発言である。
「勲章をあげるってことは、年金をあげるってことでしょう?」
「左様です」
「それは、お金を借りていることにはならないの?」
今度の沈黙は、驚きを伴っていた。
勲章は活躍の恩賞。年金を伴う場合も多い。
年金とは将来に起こる金銭の給付であり、その意味では、確かに借金の返済と違いはない。
「……将来の年金を、帳簿に載せろと仰る?」
担当官は、声を震わせた。
「ええ」
「しかし、払うのは、遥か先ですよ。恐らくは二十年後」
「なら、そのためのお金を積み立てて、今から運用すればいいじゃない。聖教府に寄付して輸出入の権利を買えば、大体、一年で元手の一割は儲かるわ。半分は税金で取られるから、手元に残るのは五パーセント弱。つまり……」
娘は机の裏に回ると、勝手に引き出しを開けて算盤を取り出した。
算盤の石を弾く、小気味よい音が続く。
「できた! やっぱりだわ! 今、年金の八割を用意しておけば、二十年後にはその年金を払えるだけに殖えてる。ねぇヘルマン、帳簿の左側の現金は、その支払いのためにとっておくか、今のうちに預金しておくべきじゃないかしら?」
「なんと……」
担当官は、言葉もない様子だ。
ヘルマンは担当官を弁護してやることにした。
「お嬢様、確かに、仰る通りです。こうした年金は支給額を予め予測しておき、別の帳簿で管理しておりました。決して、担当官の手落ちではありません」
「あら、そうなの」
娘は唇を尖らせた。
「ただ、帳簿を分けるのは、不正経理の温床になります。年金の帳簿で誰かが不正をしないとも限りませんし、見ることを忘れる、あるいは、故意に忘れようとする方もいるかもしれません。残念ながら」
ヘルマンは、敬意を込めて言った。
「払うべき年金は帳簿に載せる。確かに、それなら『今』以上の情報、つまり『未来の情報』を、帳簿に載せることができますね」
「そう、それよ! こっちのほうが忘れにくいと思ったの!」
娘は完全に機嫌を直したようだった。
ヘルマンと担当官は、胸をなで下ろした。主人の長女、それも多感な十歳の少女。扱いに困ること、この上ない。
「決して、お嬢様が誤っているわけではありません」
娘は、大輪の笑顔を咲かせた。
しかし、少女の笑顔を見ながら、ヘルマンは空恐ろしくなった。
若干十歳で、もう帳簿を読みこなし、複利計算をこなし、専門の担当官にもっともらしい指摘をする。
(どんな女性になるか……)
それは、今から十三年前。
フリューゲル家の長女、イザベラの少女時代である。
◆
フリューゲル家長女、イザベラ。
今年で年齢二三。
美しい銀色の髪と、黒色の瞳。唇は薄く、笑うとどこか冷たい印象を与える。
なにを隠そう、彼女はお金が大好きだ。
使わないお金を貯め込むなんて許せない。他人の家のお金まで分け隔てなく愛するため、他の商売に口出しして、そのまま顧問に収まったりもする。そしてその人脈が、新たな金を生むのだ。
その才能、そして性格のためか、家柄と美貌の割に結婚は遅かった。
このまま帳簿と結婚するかと思われたが、彼女は自分の値打ちもしっかり心得ていた。
嫁ぎ先は、リヒテンシュタット家という、商人の家系である。
身分違いの恋愛となり、結納金を荒稼ぎして結ばれたのは、三年前。
すでに一子をもうけて、子育てと商いに奔走している。
リヒテンシュタット家の近郊では、そんな若奥様の動静はとても注目されているらしい。
いろんな意味で、モノの先を走っている女性だった。
色々あって、今回の相続争いで、帝都に拘禁されていた。
罪状は『公金横領』、『許可のない事業の独占』、『聖教に対する特別背任』。
どれも冤罪なのだが、同業者達の反応が彼女の評判を物語っていた。
――ああ、やっぱり。
――やってると思ったよ。
――さぁ、イザベラ様、税金を払おう! 教会には十分の一でいいよ!
――だから冤罪だって言ってるでしょ!?
莫大な保釈金を払うことで、一時的ながら自由を得た。
勿論、普通はそんな手続きがまかり通るはずもない。ありとあらゆる関係者に、小切手と借金免除の書状を送ったそうだ。
(はー……)
モノはため息を吐いた。
ちらりと窓を見やると、海まで一望できる。小高い丘の上に立てられたお屋敷なのだ。
目の前では、一人の女性がくつろいでいる。
手には、小さな紙片。
何かの帳簿らしいが、物凄く細かな字で書かれていて、モノには読めなかった。
白いショースに包まれた足を組み、シャツのボタンは二つ外していた。おかげで見事な胸のふくらみが見えて、モノは同姓ながら目のやり場に困った。
テーブルの上には、オットーのネズミが載っている。
ヘルマンは出入り口の辺りで、彫像のように控えていた。
耳を動かすと、小さな庭や、他の部屋で動いている、多数の人の気配を感じる。
モノは身のやり場がなくて、立ち竦んでいた。
「初めまして」
女性は、帳簿をテーブルに伏せた。
完璧な笑顔というものを、モノは初めて見た。
「あなたは覚えていないかもしれないけど。私は、イザベラ・フォン・リヒテンシュタット。ちょっと前までは、フリューゲル公女だった、あなたの姉よ。こっちへ」
彼女は手を伸ばして、モノの手を包み込んだ。
柔らかい女性の手を想像した。けれど、所々に豆があった。
傍に白い手があると、白粉の剥がれた土色の肌は、より一層目立つ。化粧ではない、本物の白い肌なのだ。
「シモーネと呼んでもいい?」
「で、できれば、モノと」
「モノ? ああ、モノリスだから、なるほど、モノねぇ」
イザベラは考え込むように、顎のあたりに指を添えた。
モノの喉がなった。
窓からの光が、イザベラの銀髪を煌めかせている。男装しているのに、そのまま絵になってしまいそうなほど、綺麗だ。
(私、この隣に立つの?)
モノは眩暈がしそうだった。
世界が違う。
吸ってきた空気の差が、モノとイザベラの間にこんなにも違いを生んだのだろうか。
(いやいや)
モノは思い直す。モノだって、魔の島ではなかなかのものだった。
浮いた話がなかったのは、みんなサンティにビビったからだ。
あと、普通に狩りとかしてたのもよくなかったかもしれない。
「あ、あなたが、その、イザベラお姉様なんですよね」
自分でも呆れる質問だった。
瞳の色は違うが、銀色の髪はモノと同じ。何よりヘルマンとオットーの態度が、彼女の言葉を裏付けていた。
イザベラは悪戯っぽく笑った。
「がっかりした?」
「い、いいえ。その」
モノは口をもごもごさせた。口惜しくて、目を逸らしてしまう。
「あんまり、その、綺麗なもので」
イザベラは、ぽかんと口を開けた。ほとんど無防備に、カウンターパンチを食らった顔だった。
彼女は肩を揺らし、笑いを堪えた。
「ふふ、そう」
イザベラが長い手を伸ばし、モノをソファに引っ張り込んだ。
「可愛いわね、あなた」
「えっ?」
「よしよし。こーんなにおっきくなっちゃって、まぁ」
しばらくの間、イザベラはモノの頭をわしゃわしゃ撫でた。猫の耳をつままれて、悲鳴をあげそうになる。
島であれば、大問題である。
モノは戸惑った。
だが不思議と落ち着いてくるのを感じた。
イザベラとは、八歳差。モノが島に送られたのは、生まれてから間もなくだ。
八歳であれば、これから島に出ていく末っ子のことを覚えていても不思議はない。
モノはイザベラのことを知らなくても、イザベラにとっては、そうではないのだ。
「島はどういうところなの?」
イザベラはそう語り掛けた。
「今はもう、雨が降る頃じゃない?」
「知ってるんですか?」
「ええ。私は、こーんな大きな地図を見て、仕事をしてるんですからね」
モノは、温かいものが心に満ちていくのを感じた。
島ではオネが母親をしてくれた。でも彼女は、そういう役割の母親だった。戦争で引き取られたりした、行き場のない子を育てたこともある。
モノは、オネを独り占めできたことはなかった。
勿論それは、精霊術の師に対する遠慮も含まれてはいたが。
(甘えていいんだ)
そんな理解が起こった時、モノは体から力が抜けていくのを感じた。
同じ銀色の髪が、その気持ちを肯定してくれた。
「あの」
モノが遠慮がちに言うと、イザベラは察したようだった。
「ええ。何でも言って」
「……で、では、もう少しこのまま」
そう言って、頭を預けてみる。力を抜いて。自分の義務も、家柄も、何も考えずに。
モノは知らない間に、全く新しい扉を開けていた。
島ではありえなかった、無条件で甘えられる、血筋に守られた状況に。
「さて、オットー」
モノを抱きながら、イザベラは言った。
「あとで、個別に話しましょうか」
オットーのネズミが、びくりと体を揺らした。
イザベラの目は、冷たい輝きと、炭火のような怒りを宿していた。
なお、その辺りでイザベラの腕がモノの胸や腰に伸び始める。
「え、ちょ、ちょっと?」
「あら、いい反応。骨もしっかりしてるし、これは期待がもてそうね……」
モノが悲鳴を上げた時、ヘルマンが出てきて、イザベラの手をやんわりと掴んだ。
「どうか、その辺りで」
「チッ」
一癖あることは、モノにも分かった。