2-3:裏通り
馬車はしばらく、順調に進んだ。
けれど、景色は一変していた。上を見ても、空など見えない。建物が密集して、ひどく暗く、空気も濁っていた。
まるで谷底だ。
僅かな空を区切るように、洗濯物の糸が建物の間に張られている。
(大通りの、すぐ裏なのに)
モノは鼻を覆った。亜人の鼻に、ここの臭いはきつい。
それでも住人はいるのだ。
道の脇に、座り込んでいる亜人達だ。汚れた服に、汚れた肌。施しのための器が彼らの前に置かれていた。
時折、建物の壁に彫り込まれた意匠が目を引く。
抽象化された鷹、蛇、虎――亜人の氏族を象った意匠だ。
元々、亜人が住んでいた建物なのだろうか。
「この辺りは、ひどいもんです」
グレト男爵が言った。
モノは訊ねた。
「ここ最近ですか?」
「ええ、そうですね。ここが貧民街、まぁ、つまり、あまりよくない地域だったのは昔からでしたが」
そこで、グレト男爵は窓を見やった。さっきから、なぜかしきりに外を気にしていた。
男爵は続ける。
「フリューゲル家は、南部の領袖として、ウォレスのような自治区で亜人も雇える事業を行っていたのです」
「事業?」
「ええ。立派な方々でしたよ」
モノは、オットーの話を思い出した。
帝国がフリューゲル家に出した罪状には、亜人を擁護した罪というものがあった。亜人を雇ったことも、その中に入るのだろうか。
「通常、金は出しても、間に何かを挟むんですがね。他の商人とか、あるいは他国の商館とか。でも、公爵閣下は家の名前でそのまま雇っていらした。フリューゲル家の娘で、神官でもあったフランシスカ様など、心労いかばかりであったか……」
「では、これは」
モノは話を遮って、問うた。
「彼らを雇っていた私達が、消えかかっているから?」
男爵は目を丸くした。
「仰る通り。船で、亜人がウォレスへやってきたでしょう。あれは、他の自治区や、帝国外の都市が次々と亜人を切っているからですよ。フリューゲル家の様子を見て、旗色が変わったことに気づいたんでしょうなぁ」
モノは物凄く重い物を飲んだ気分になった。
(これ、私、帝都へ行くだけで済むのかな?)
島が遠ざかっていくような気がした。
オネ、と呼んでみたいに気分になる。
今年の種イモは大丈夫だろうか。急な雨が降っていないだろうか。
そういえば、新イモの粉で作る、あの甘い焼き菓子を今年はまだ食べていない。
そんな風に寂しく思うと、無性に水を使って虎を出したくなる。
「確か、ここに」
グレト男爵が、馬車の中を漁った。
紙を何枚もモノに渡してきた。
「これは?」
「新聞です。あとは、パンフレット」
モノは目を瞬かせた。
「今、保守派と開放派が、ウォレス自治区でも大論争をしてましてね。彼らは、自分たちの主張を広めるために、どんどんこんなのを刷ってるんですよ」
内容は様々だった。
――『聖典に明記のない差別は、神官のねつ造』
――『農業への奇跡の使用は、長期的には収穫量を減らす』
――『黒死病の伝染は、亜人のせい』
――『神官と貴族に対する不課税が、財政赤字を助長している』
あれやこれや。あまりにも知らない単語が、多すぎた。
船の中でオットーから様々な講義を受けたのだが、まだ知らないことも多いのだ。精霊術の練習と並行していたせいで、余計に時間が足りなかった。
ただ、中には気になるものもある。
――『フリューゲル家閉め出し令、可決。ロッソウ大臣の謀略』
日付を見ると、一月以上前の号外だった。
何度見ても、露骨な名前である。モノは喉を鳴らした。ここにあるロッソウという大臣が、オットー達を拘禁した中心人物らしい。
「こんなに沢山、誰が書いているんでしょう」
「いえ、それは、印刷です。活版印刷という、最新のものですよ」
と、男爵。
モノは首を傾げた。
「印刷、ですか?」
「イザベラ様が投資をされておりましてな。今日の需要を読んでいたのでしょう。まぁ、あの人は、多分に山師的なところがありますので」
モノは曖昧に頷いておく。印刷という仕事は知っていた。『活版印刷』というのが紙を刷る仕事なのは分かる。
それがどう特別なのかは、後で聞けばいいだろう。
「他には何かありますか? なんでも聞いてください」
グレトは訊ねる。モノは眉をひそめた。
なにか変だった。
グレト男爵の目線は、時折窓の外へ向かう。まるで何かを待っているように。
今の声も、なんだか猫なで声だった。
「旦那」
不意に、御者がそんな声を出した。
「どうした」
「前に兵士が。止まれと言っています」
「兵士?」
男爵は怪訝な顔をした。
でもそれは、なんだか怪訝な顔を『作った』みたいだった。
馬車がゆっくりと速度を緩めて、やがて止まる。
男爵が馬車を降りて、応対へ向かった。
「隠れるべきですか?」
ヘルマンが素早く囁いた。
「いえ、そのための場所もありません。身を低くしておいてください」
モノは身を屈めて、外の音に耳を澄ませた。
帽子を外す。猫の耳が風を感じ、さらに、妙にピリピリする感じも受けた。
気が立っている。馬の嘶き。
騒動の気配だった。
「グレト卿ですね」
「そうだ」
「あなたは、嫌疑で告発されています」
男爵が、息を呑んだようだ。
「私がか」
モノの疑念が、強くなった。
猫の耳は誤魔化せない。男爵は嫌疑に驚いているのではない。その対象が自分であることに、驚いているのだ。
「お兄様、ヘルマンさん」
オットーも気づいていたようだ。
「……グレトは、イザベラ姉さんとも懇意な、付き合いの長い商人だ」
それでも、外の会話は続いていく。
それも、男爵にとっても、モノ達にとっても、愉快ではない方向に。
「馬鹿な」
「間違いありません」
「確認しろ。そうだ、聖教府に確認をとってくれ」
耳を疑った。
(聖教府?)
マクシミリアンなどの、神官が所属している組織だった。異民族閉め出し令を作った組織でもある。
巨大な組織で、内部には様々な派閥がある。モノ達の味方ともいえる派閥もあれば、明確に敵となる者もいるらしい。
(でも、これは)
空気が、明らかに不穏だ。
「いいえ。ある亜人を不法に通関させた、と。これは具体的な内容です。猊下もあなたの行動に、深い関心をお持ちです」
心臓が跳びはねた。その亜人とは、まさにモノのことに違いない。
「及び、密輸も」
「密輸? ふ、不法通関だと?」
グレト男爵は繰り返した。
辺りで、ささやき声が聞こえる。周りの貧民街の住人たちが、この騒ぎを遠巻きに眺めているようだ。
「大体、その亜人というのはどこの誰だ」
「それは明かせません。馬車には何が?」
「きゃ、客人だ」
「改めさせてもらいます」
足音が、近づく。
モノは慌てて帽子を被った。
扉が開かれる。
兵士は赤いチョッキを着て、黒い帽子を被っていた。
緊張した顔が、開いた扉からモノ達を覗き込む。
「このウォレス自治区の兵士だ」
オットーが囁いた。
「自治区の?」
「ああ。聖教府とは、指揮系統が違う。ここの自治領に直属だから、中立と言っていいだろう。でも、なんだって、こんな、待ち伏せみたいなことを」
オットーの解説を聞きながら、モノは顔を下に向けて、俯いていた。
肌は白く塗ってある。多少不自然かもしれないが、誤魔化せないことも、ないはずだ。
「この方は?」
「さる御令嬢だ。私は、ノイマン伯パウル」
兵士達が顔を見合わせた。
なお、ノイマンとはヘルマンが度々使う偽名であった。
儀礼としてそういう爵位もあるため、追及されても、全くの嘘にはならないらしい。
「お降りください」
モノは、ヘルマンに体を支えられながら降りた。
その様子を、兵士たちがじっと見つめている。
モノは顔を見られないよう、俯いていた。
「おい」
「はっ」
「イザ……じゃない、ご婦人! 確認をお願いします!」
兵士達の間を抜けて、一人の人物がモノの目の前に現れた。
磨き上げられた黒靴。仕立てのよい、白のショース。くすんだ茶色の上着を羽織っているかと思えば、首元には華やかなスカーフを巻いていた。
モノにもう少し知識があれば、法服貴族と称したかもしれない。
(女の人?)
そう思ったのは、白シャツの胸が、見事に膨らんでいたからだ。
モノはゆっくりと、目線を上げる。
女性は、銀色の髪を無造作に後ろで纏めていた。
顔には、
「か、仮面……?」
ビロードの仮面があった。
モノは口をパクパクさせた。
「仮面、仮面です!」
島で読んだ物語みたいだった。モノは何度も読み返したものだ。状況も忘れて、見惚れてしまう。
女性がモノに近寄る。
腰をかがめて、モノの顔を覗き込んだ。
その手が伸びて、帽子を取る。猫の耳が露わになって、周囲がどよめいた。
「銀の髪」
女性にしては低い声だ。
滑らかな指が伸びて、モノの顎を撫でた。
「ひっ?」
女性は、指に付着した白粉を見つめる。
「これは、化粧。間違いない」
女性が手を振る。兵士達がモノに詰め寄った。
通りの奥から、グレト男爵の悲鳴が聞こえる。
「連れていきなさい」
モノは後ろから兵士に引っ立てられた。
兵士が用意した馬車に向かわされる。
(サンティ!)
モノは、念じた。周辺の水を意識する。
兵士達がどよめいた。彼らの足元を通り抜けて、道端に溜まっていた水がモノの方へ集まっていくのだ。
だが、僅かな量だった。
拳くらいの大きさの虎が、ガウガウと可愛らしく吠えた。大きさはオットーのネズミといい勝負だ。
近くに、水が少ないのだ。精霊術は水を操ることはできても、水を生み出すことはできない。
「モノリス様」
ヘルマンが、モノの肩を叩いた。気づかれないほど、微かに、首を振って見せる。
「……え?」
結局、モノは兵士達に捕まった。一番騒いでいたのは、そしてビロード仮面の女性に一番大きな悲鳴を上げたのは、グレト男爵だった。
◆
貧民街から、悲鳴が聞こえた。
彼らは、自分達が出遅れたのだと気づいた。
大通りの先に置いておいた斥候が、ようやく馬蹄を鳴らして戻ってきた。
「事故です」
「事故?」
よほど駆けてきたのだろう。栗色の馬体には、汗が光っていた。
そのやりとりもまた、彼らに注目を集めさせる。
自治区ウォレスを東西に横断する、大通り。
そこの一角で、漆黒の甲冑を身に着けた一団が、たむろしているのだから。
「道幅の狭い曲がりで、馬車が車軸をやっています。連中は、回り道をしたようです」
「では」
「はい。こちらには来ません」
彼らの心を代弁するように、馬が一際大きくいなないた。
「……では、どうする」
「それは」
「猊下に報告をするのかね。標的を逃がしました。我々の仕事はここで終わりです、と」
話している騎兵が、兜のフェイスガードを開けた。
一目で貴族と分かる男だった。
灰黄色の髭を伸ばし、先端をわずかにカールさせている。目じりは優しげに下がっていたが、頬はこけて、戦慣れした精悍な雰囲気を作っている。茶色の目は、大通りの先を見据えていた。
「決行は近い。それまでに、できる限りの手を講じる」
「見つからない場合は、いかがいたしましょう」
「その場合は」
男は辺りを睥睨した。
通行人が慌てて退く。
「……自治区共々、散ってもらうほかあるまい」
騎兵が前進を始めた。
男は速足で大通りを駆けさせながら、後ろを振り返る。
「新入り!」
騎兵の一人が、顔を上げた。彼はまだフェイスガードを閉じたままだ。
他の騎兵が、『二つ星』――聖教府の印がついたランスを携えているのに対し、その騎兵だけが短槍を持っている。
馬上で振るうだけではなく、地上で白兵戦をすることも想定された長さなのだった。
意匠も独特だ。
狼の刻印がなされている。
「期待しているぞ」
短槍の騎兵は頷き、悲鳴が聞こえた貧民窟の方を仰いだ。
聖ゲール帝国へと続く青空は、今日も見えない壁で揺らいでいる。
聖教府の奇蹟――『聖壁』を感じながら、一行は貧民窟へ向かった。
だがそこにあったのは、打ち捨てられた馬車と、簀巻きにされたグレト男爵だけだった。
お待たせいたしました。
次回はもうちょい早めに更新します。
ビロード(ベルベット)の仮面は実在するようです。