2-1:聖ゲール帝国
魔の島から大陸への移動には、船を使った。第三国の港を経由しつつ、目的地へ向かう流れだ。モノは移動の間、地理や歴史をおさらいした。
「まず、僕らの国の正式な名前から行こうか」
船室で、オットーのネズミは棒切れを振った。鯨油のランプが、船の揺れに沿って炎をちらつかせた。
「聖ゲール帝国。正式には、『大陸の人々のための聖ゲール帝国』」
それが、国の正式な名前だった。
「歴史をおさらいしよう」
最初は、単なるゲール王国だった。
起源は、およそ二百年前に遡る。
大陸の北方で栄えていた国があった。民族はゲール人。彼らのゲール語が、今は大陸の公用語になっている。このゲール人の国が、次第に南下した。その途上で、肥沃な南部にあった小国や都市国家を、次々に飲み込んだのだ。
南下当時の国王は、カール一世。もうめちゃくちゃに強かった。
ただ、この当時はまだ『ゲール王国』だった。頭に『聖』の文字が付き、『帝国』に化けるのはもう少し後になる。
「ゲール帝国は、聖教府の守護者なんだ」
聖教とは、光の神を掲げる、大陸でもっとも信仰されている教えだった。
教団は、そのまま聖教府という。
大陸の南には、聖教府の中心部がある。
南部に進出したゲール王国は、聖教府の守護者となり、頭に『聖』の文字が付いた。また、聖教府の指導者、教皇により、ゲール国王は皇帝を名乗ることを許される。
「皇帝が頭になったから、王国じゃなく、帝国になった。ややっこしいけど、聖ゲール帝国の成立からして、聖教府が噛んでいたってことが分かればいい」
今でも、聖都における皇帝戴冠式は、帝国最大のイベントとのこと。
こうして後ろ盾を得て、聖ゲール帝国は南下をさらに進めた。その過程で、ある民族と戦争をした。それこそが、聖教府が帝国に求めたことでもあった。
「正式な国名には、『大陸の人々のための』という言葉が入るだろう。これが、今の騒動の原因なんだ」
わざわざ帝国の名前にしたのには、理由がある。
人々のくくりに入らない――いや、『入れたくない』存在が、大陸にはいたからだ。
それが亜人である。
彼らは動物の特徴を持つ。獣の耳であったり、鼻であったり、瞳であったり。
聖教府は彼らを悪魔の使いと呼んだ。聖教府の中心部も大陸南部。その大陸南部に進入し、住んでいたのが、この亜人達だった。亜人達がそれぞれ固有の信仰を持っていることも、問題を複雑にした。聖教府は一神教だったからだ。
聖教府は彼らを憎んだ。
聖地である南部を、土着の信仰で荒らしまわる亜人達。
特に南下当時の教皇アレクシオ二世は、亜人達を生涯に渡って憎み続けた。
だからゲール人を、諸手をあげて迎えたのだ。
「人々のための、ていうのは、要するに人じゃないやつは入れないよってこと。『異民族閉め出し令』によって、明文化された」
亜人の特徴を持つ者は、聖ゲール帝国に住むことを許されない。
だが帝国は南下してくる。帝国の動員力と、聖教府の奇跡が相手では、あまりにも分が悪かった。
玉突きのように亜人達の移動、いや、逃亡が起こった。
移動を余儀なくされた者には、幼い子もいただろうし、老人も病人もいただろう。彼らを守るために、猛々しく戦った亜人もいるだろう。
だが、およそ五十年前、帝国の南下は完了した。
元々住んでいた亜人達は、帝国に治められた地域から完全に閉め出された。
正確な数は分からない。数十万人とも、百万人規模とも言われている。
山猫族も、白狼族も、そうして大陸を出た一族だった。
「閉め出し令には、副作用があった」
この閉め出し令によって、聖教府は帝国と合体した。閉め出し令の及ぶ範囲が、すなわち帝国の国境である。
聖教府は関税を取る権利を得た。加えて、貿易する権利を商人や貴族に高値で販売するようになった。
「でも、組織は必ず劣化する。鉄が錆びるように。権力を持てば尚更だ。聖教府も最近では、かなり汚職や腐敗が目立つようになった」
そこで、とある神官が『九十九条の提言』という訴えを起こした。
『九十九条の提言』自体は完全に宗教的な内容だ。だが、論争はやがて商業の南部(開放派)と、伝統を重んじる北部(保守派)との間の政争に発展した。
フリューゲル家は、南部の領袖である。帝国南下の要諦を務めた一族でもあるのだ。今も昔も、騒動の中心にいると言えた。
だからこそ、わざわざお家断絶のための法律が作られたわけである。
「分かったかな?」
「スー」
「ああ、もう。つまり、帝国は今、南部と北部に分かれていて、僕らは南部に属してるってこと。僕らが勝てば、差別されてる亜人だって得するんだ」
船の中でそんなやりとりをしつつ、モノは大陸へ向かった。
◆
大陸へ上陸する日、モノはひどくドキドキした。
緊張と不安、そして期待。だから水平線の上に、美しい街並みが見えた時、弾けそうな笑顔を浮かべた。
「すごい」
白い街並みが、玄関のように横たわっていた。陽光が建物の壁を洗っている。
街の左右にも緑の陸地が続く。まさに”大”陸なのである。
「ウォレス自治区という。ここは閉め出し令の例外で、亜人でも入れる場所なんだ」
「自治区?」
「そう。法律上は、帝国の外部に当たる。だから亜人でも入れるってわけ。鎖国政策における外国人特区と言ってもいいだろう」
なるほど、とモノは頷いた。
オネからある程度の歴史は教えられている。オットーの講義と相まって、それくらいなら思い出せた。
(そういえば、そんな話してたなぁ)
島でもうっすらと感じていたが、オネがモノに教えたことは、かなり高度なことも混じっていた。モノは島の母に感謝した。
「上陸した、その後は?」
「なんとかして帝国の内部に入る。流動的だが、幾つかプランがあるんだ。街で現状を確認して、一番いいものを採用しよう」
「はい!」
モノは船の舳先から、大陸を見つめた。
(これが地平線かー)
島では、水平線は見えても、地平線は見えない。そんなに大きな陸地がないからだ。
ついでに言えば、今乗っている船も、三本マストの最新式だ。こんな立派な帆船は、見たことがなかった。
少しして、進行方向に水先人のボートが現れた。
「そろそろですな」
ヘルマンが、モノに近づいてきた。
壮年の戦士は、革の旅装に身を包んでいる。整えられた髭を持つ精悍な顔に、革の帽子。鷹のように鋭い目が、鍔の下から甲板を警戒した。
モノも甲板を見渡す。
すでに下船予定の人が集まっていた。モノのような、褐色肌の人がほとんどだ。色白の人は、数えるほどしかいない。ズボンのお尻が不自然に膨らんでいる人もいた。
(尻尾だな)
亜人の特徴は、耳だけではない。尻尾もあれば、獣毛もある。
「客は中へ戻ってくれー!」
船員が大声を出しながら、甲板を練り歩いた。
「帆を畳むぞー!」
「手伝わないやつは降りてろー!」
乗客が、船室へ戻り始めた。
「私達も戻りましょう」
モノも、自分達の船室へ戻った。
通関の前には色々と準備が必要だ。
マクシミリアンを逃がした以上、モノの存在は敵対勢力に知られている。おまけに閉め出し令のせいで、亜人が歩けるのはウォレス自治区などの例外だけだ。行く先は限られるというわけだった。フリューゲル家をこのまま断絶させたい勢力が、自治区の通関に網を張っていないとも限らない。
なるべく目立たないよう上陸するのだ。
(服は、大丈夫かな)
モノは自分の服をざっと確認した。
マント、そして鋲がついたチュニックに、頑丈そうなズボン。最後に、革の帽子を被る。これで猫の耳を隠すのだ。
「どこからどう見ても、何の変哲もない旅人ですね」
服装は大丈夫そうである。残る問題は、肌だ。
土色の肌は、明らかに亜人である。これを誤魔化せれば、強力な目くらましになるだろう。
「よし!」
気乗りしなかったが、やるしかない。
モノは荷物から木の筒を取り出す。開けると、粉っぽい匂いがした。肌を白く塗る化粧品だ。船旅の間に仕入れたものだった。
(時期を見て、これも塗っておこう)
通関の直前がいい。さすがに部屋に入った亜人が、出る時に白い肌をしていたらおかしいだろう。うまく塗れるだろうか。大陸の化粧をこんな形で使うのは、予想外なのだ。
「そろそろ、通関ですな」
モノは身を固くした。
いよいよ自治区に上陸するのだ。
「だ、大丈夫でしょうか」
「ウォレス自治区は、フリューゲル家に友好的な有力者が、多数居住しています。ご安心ください」
言い合っていると、船室に男が入ってきた。
黒色の制服に、黒色の帽子。ただし、帽子には赤い羽根が差さっていた。
港の役人だろう。よく見ると、服には聖教府を示す『二つ星』が縫い込まれていた。彼はヘルマンと目配せをし合う。
「こちらへどうぞ」
モノは船倉へ案内された。降りていく他の亜人達とは逆方向だ。
「この中にお入りください」
示されたのは、樽だった。
「…………え?」
「さぁ、早く」
モノは樽の中のリンゴを食べながら、上陸した。
白粉を肌に塗るのは、その場でやっつけるしかなかった。
鏡を見ないで白粉を塗ったことが、後々悲劇を生む……かもしれない。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。




