あのね 猫が空の色を教えてくれたんだ
夏の昼下がり、小学校の夏休みの宿題をするべく、蒼平は画板と絵具セットを抱えてある場所へと向かっていた。
ジリジリと照りつける太陽と高い入道雲が、青い空をバックにして堂々としている。雑木林へと続くアスファルトの道は、追いつく事のない蜃気楼を常に遠くに見せていた。
目指すは自分だけの秘密基地。
流れる汗などつゆ知らず、蒼平は今朝の雨で出来た水溜りをピョンと飛び越えた。
鬱蒼とした木々に半分飲み込まれた一軒の廃屋。曇った窓ガラスに、黒く変色した木の柱。ひっそりと佇む姿は、まわりの世界とは別の所にあるようで、頼りなくどっしりと構えていた。
土壁に立てかけた木の板をずらすと、子供が張って通れそうなくらいの穴が現れた。荷物を先に穴に通し、続いて蒼平が進入する。中はジメジメと埃臭く、畳が剥げて床板や古い新聞紙が剥き出しになっていた。ネズミでも居るのか、カリカリと音が聞こえた。蒼平はそんな部屋の様子にはもう慣れ、怖気ることなくさっさと階段を見つけて二階へ上がった。
この家は元々二階建てだったようなのだが、蒼平が見つけた時には、人はおろか屋根までもが無くなっていた。その為、二階には真夏の日差しが直接差し込み、雑木林で鳴くアブラゼミのジーィーという音が直接響いていた。
こっそり持ち込んだレジャーシートに水溜りが出来ていたので、隅っこに画板やらを置いてから、端と端を持って床に流す。残りの水滴は絵の具セットの中の雑巾を使って適当に拭き取り、まだ湿っているのも気にせずにどかっとその上に座った。
首にかけていた水筒を開けて冷えた麦茶を蓋に注ぐ。喉を鳴らして一気に飲み干すと、ふぅと息を吐き、慣れた手つきで蓋を閉め、早速絵を描く準備に取り掛かった。
「先生からもう一つ、夏休みにやってきてもらいたいことがあります。それは絵を描くこと。毎日使っているランドセルだとか、遊びに行く時に乗る自転車だとか。何でもいいですよ。いつも見ているものを描いてきてください。すると、描いているうちに新しく発見することがあるはずです。それを、夏休みが終わったらこっそり先生に教えて下さい。手紙でも、内緒話でも、一人ひとつ、私に教えて下さい。そうしたら、私が見つけた新しい発見をみんなだけに特別に教えます。」
夏休みが始まる前の終業式の日、担任の若い女の先生がそれこそ内緒話をするみたいに言っていた。他の生徒が、何を描くだとか面倒くさいなどと声を上げ、教室が一気に騒がしくなる中で、蒼平は何を書こうか既に心に決め胸を躍らせていた。想像しただけでとても良いものが出来そうな気がして、鼻高々にその日は帰ったのだった。
画用紙を挟んだ画板を首から下げ、まずは鉛筆で下書きを始める。高校生で美術部員の姉が絵を描くのを側で見ていたので手順はしっかりしているが、描く線はやはりどこかおぼつかない。書いたり消したりを繰り返し、何とか自分で納得出来るまでの出来になると、とうとう絵の具セットを取り出した。
外の水道で水入れに水を汲み、こぼさないよう慎重に二階に運ぶ。パレットに絵の具に絵筆を並べ、床に置いた画板と対峙した。
最初に使うのはみどりときみどり。時々あおも混ぜたので、みるみるうちに葉が青々と茂ってゆく。次に使うのはしろとあお。二つを混ぜたり水で溶いたり、試行錯誤を重ねて作り出したのは、晴天の空の透けるような淡い青。筆につけ、思うままに空を描いていると、雲を書き忘れたことに気がつく。しかし蒼平はめげずに、これは雲ひとつない快晴なんだと思い直し、隙間なく塗り切った。最後の色付けをする前に水入れが全部濁ってしまったことに気づき、色が混ざると嫌なので休憩も挟んで水を入れ替えることにした。
画板や絵の具を蹴らないように、四肢を投げ出して仰向けに寝転がる。雑木林の天然の屋根で直接日差しが当たることはないが、葉の隙間から溢れる光が眩しくて思わず目を瞬かせる。青い空にはさっきの入道雲がまだ端っこにいて、他の小さな雲はそれを避けて流れていた。
蒼平はこの自分だけの空が好きだった。
休憩も済んで水も入れ替え、最後の仕上げに取り掛かろうと意気込んだ。しかし、ここで壁にぶつかった。
太陽の色はどうしよう。
考えなしにあかを出して筆につけたところで、ふと思い至ったのだった。青空に赤は何か違う気がして、一度たっぷりつけたあかを水入れで落とす。次に目に留まったのはきいろとレモンいろで、二つ出して混ぜてみた。なかなか良い感じになってきたが、もう少し色が欲しくて、しゅいろを少し混ぜてみた。すると、前使った時についてしまったくろの大きな塊が一緒に混ざり、明るい色が一気に陰ってしまった。
ああもう、やり直し。
苛立つ気持ちを堪えつつ、また水入れでシャカシャカと色を落とす。そしてまた、他の色が混ざらないように集中して絵の具を絞った。
みゃあ
ふいに、後ろから高い鳴き声が聞こえた。びっくりして振り返ると、階段の上り口にまるで人形みたいにちょこんと猫が座っている。体は白く、眉から耳にかけて八の形にキャラメルのような淡い茶色がついていた。同じ色の尻尾をピンと立てて、また猫はみゃあと鳴いた。
「どこから来たの?」
どうしようもなく話しかけたくなって、周りに誰かいるわけでもないのに蒼平はこっそり声をかけた。
みゃ
猫も何か応えるように鳴くもので、蒼平はますます機嫌が良くなった。
「猫って麦茶、飲めるかな。」
蒼平がいそいそと準備を始めると、猫も首を傾げて近づいてきた。そして、その猫が明るい日向から木陰に足を踏み入れた時、いつも見かける野良猫等と違うところに気づいた。
「…君の目、空色なんだね。」
青というよりも空色という方がしっくりくる気がして、蒼平はそう言った。空色の瞳は蒼平を見てまたみゃあと返事をすると、蒼平が注いだ麦茶を美味しそうに飲み始めた。
近くで見ると、思ったよりも頭が小さくて毛がふわふわとしている。恐る恐る撫でてみると、ちらっとこっちを見はしたものの、すぐに逸らして麦茶を飲み続けた。猫に受け入れたような気がして、元々動物好きだった蒼平は天にも昇る心地がした。
しばらく堪能してから、絵を描いている最中だったことを思い出し、名残惜しくも猫をそのままにして定位置に戻った。急に撫でる手がなくなって、物足りなくなった猫も後を追う。画板と筆を持って唸る蒼平を交互に見て、不思議そうにみゃあと鳴いた。
「ちょっと待ってて。」
蒼平がこっそり言うと、また猫は理解したみたいに、水入れの隣にちょこんと座った。
「やべ、絵の具固まってる。」
ずっと放っていた所為でカピカピに乾いてしまった絵の具。それを溶かそうと、蒼平は筆で水入れの水を吸ってパレットに移す作業を数回繰り返した。目の前に蒼平の手と筆が往復するのを、顔で追いながら見ていた猫は、隣の水入れが気になって、くんと鼻を近づけた。
「あっ、飲んじゃダメだよ!」
色水を飲もうとしていると思い、焦って大きな声を上げてしまう蒼平。その声に猫は驚き、ぴょんと飛び上がった。そして、運が悪い事に色水に前足を突っ込んでしまい、それにも驚いてバタバタと暴れ、ついに水入れをひっくり返してしまった。
「ああっ絵が!」
溢れた色水が画用紙の空の半分にかかってしまう。急いで取り上げて、雑巾で叩いて水を吸い取ろうとした。しかし、滲んだ色はどうやっても落ちなかった。
目頭が熱くなって涙が溢れる。絵がダメになったからとかではなく、ただ、悲しいという気持ちで胸がはち切れそうになって、それを逃がすために蒼平は声を上げて泣いた。
そんな蒼平を見て猫は目を丸くさせ、どうしたらいいものかとその場をウロウロする。そして、先ずは目から溢れる水を止めなくてはと考えたのか、蒼平の膝に足をかけ、ザリザリとした舌で頬を舐めた。
痛痒さにびっくりして蒼平が目を開くと、空色の瞳が目の前にあって、みゃあと鳴いた。
「…なぐさめてくれてるの?」
みゃあ
「そうなんだ、ありがとう。」
みゃ
「…おれ、泣き虫やめるってねぇちゃんと約束したんだ。けど、ダメだったみたい。」
なぁお
「怒ってる?」
みゃあ
「分かったよ。もう泣かないよ。」
みゃう
「うん、君と約束する。」
まるで旧知の仲であったかのように、蒼平と猫は会話をした。
気づけば太陽は西に大きく傾いていて、蒼平は涙を拭い、急いで後片付けをし始める。パレットや絵筆を外の水道で簡単に洗い、水入れと一緒にカバンに入れる。ビショビショなレジャーシートも置いておけばそのうち乾くだろうと思いながら、居座る猫を抱えてどかし、水滴を拭いて終いにした。そして最後に残ったのは画用紙と画板。色水の所為でふやけてよれよれになり、暗い朱色が滲んでいる。
最初からやり直しだな。
少し沈んだ気持ちで取り上げて見ていると、ちょうど太陽が山に触れようとしているのが向こうに見えた。
「あ。」
思わず声が漏れる。そしてすぐに、まだ乾いていないシートに仰向けに寝転がった。猫は蒼平の行動を不思議そうに見ながら、頭の横に座っていた。
視界の下から、空色に染みるように茜色が現れている。蒼平はそれを確認してから、ゆっくり画板を空に重ねるように掲げた。
「おんなじだ!」
少し不恰好だが、色水の滲んだ所が夕焼けのように見えなくもない。それでも蒼平は物凄く嬉しかった。
「ねぇ見て、おんなじ!」
猫にも見せながら同じように蒼平が言う。蒼平が嬉しそうにしているので、猫もみゃあと鳴いて尻尾をゆらゆらと揺らした。
茜色に染まる帰り道も、蒼平は鼻歌を歌いながら上機嫌に歩いて行く。その隣には、ピタリとくっついて離れぬ猫の姿があった。
先生には何て言おう。
そんな思いを膨らませながら、蒼平は水溜りだった跡をピョンと飛び越えた。
蒼平が猫の名前を『そら』と名付け四人と一匹の家族になるのは、ほんの少し後の話。