沼
ああ〜、引きずり込まれる!
死にそうだ 助けてくれ
僕は死ぬのか?
足が抜けない。助けてくれ。あ、やっぱダメだ!来たら、お前も巻き込まれてしまう。
ああ、入らなきゃよかった、こんなとこ。なんでこんな泥沼に、わざわざ足突っ込んだんだ?
そうだ、最初は、綺麗な湖に見えたんだ。
「そんな感じだよ、今の俺の気持ちは」
「何よそれ!私、そんなに汚く見えてるわけ?」
語尾を荒げた彼女は、しかしそんなに怒っているようにも見えなかった。楽しそうだ。余裕があるのも、獲物を完全に捕まえたと確信しているからか?
「違う、違うよ。君は可愛いし、美人だ。かっこよくもある。完璧だよ。なんていうか、これは心情的な話なんだよ」
「心情的に茶色い泥沼ってこと?それ、最悪だから」
彼女は綺麗に染め上げられた茶髪を白いベットの上で躍らせながら、不貞腐れたように寝返りを打つと僕に背を向けた。
「もー、違うって!ゆり〜!」
焦ったような声を出してみせる。芝居と分かって楽しむそれは、驚くほどに心地がいい。
「そんなことしてると、他の女に目移りしちゃうよ?俺、ケッコーモテるんだから」
彼女は背を見せたままでちらりと僕を振り向く。
「そんなふざけたこと言ってると、ほんとに底なしになって頭まで沈めてやるわよ」
そしたらもう、誰も助けに来てくれない。すがる棒さえ呑み込まれる。
呑み込まれたら、そこは静かだろう。息をすることさえ許されない、自然の鼓動さえ聞こえてこない。なぜなら、沼は全てを引きずり込んでしまうから。
「う〜ん、それもイイかも」
僕は背中から彼女を抱きしめた。
波打つ絹の髪からは、ほんのりと甘い香りがした。
「...嫌よ。私は殺しちゃうなんて。だからギリギリのところで捕獲しとくのよ」
彼女は楽しそうだった。
「あ〜、俺、やばいのに捕まっちゃったのかも?」
「いやね、沼は沼の方で、獲物を離すことはできないのよ。」
勝手に沈んでいく体。
そもそも、沼に沈める意思は、あったのか?
「生殺しだ」
彼女が腕の中で身をよじり、小さな唇を近づけてくる。
卑怯だなぁ、と思う。いつか僕が抜け出す時、彼女は僕の身体中に泥を残して行くのだろう。自分は何も知らないふりをして。
悔しい。
僕は彼女の口内に舌を滑り込ませた。生き物の暖かさが絡みついて、僕は自分から絡まりに行くほかなくなった。
靴ぐらいは残していってやろう。彼女という沼から抜け出す直前に、片足分だけ。
いつか彼女が水分を失って、周りの地面と同じように硬い乾いた土となる時、彼女はその腹の中に僕を片足分だけ感じるのだ。永遠に。いつか自分が分からなくなって、空気と一体に溶け合っても、その中心に彼女は異物を感じ続ける。そして、僕は異物ではなく、彼女そのものになる。
素敵な思い出、ってやつ。
「焦って抜け出そうとする頃に気付くのよ。抜け出せないって」
「ちょーエロいね」
彼女はそう言うが、そのとき焦るのは彼女も一緒だ。
僕の全てを受け入れるしか無くなる。焦ってももう遅い。
「ふふ、ね、もー一回...」
「やぁね、あんまり愛すと、ほんとに底なしになっちゃうわよ」
彼女は澄んだ笑顔で微笑んだ。