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終わらないラブストーリーを君に

作者: 卯月瞳子

どうしてこの本は、こうまでしてあたしの心を重たくさせるんだろう。


人を愛する。

それは、毎日食事を摂り、排泄をし、呼吸をすることと何ら変わらない。


人間にとって、男とか女とかの性別も、年齢さえも全く関係なく、必要不可欠で、それでいて、時々、どうしようもなく不必要だと感じてしまう。


そんなアンバランスで、危うく、脆く、だけどやっぱりどうしても必要な存在。


あたしはそう思っている。


なのに、この本はどうだろう。


いちいち、そういう愛することがなんであるかを、実に、こと細やかに説明し、そして結論づけてしまう。


『終わらないラブストーリーを君に』


あたしはその本を綴じると、ため息をひとつついて、木製のブックシェルフの、一番奥にしまいこんだ。


反対側のベットからは、静かな寝息が、穏やかな波のように繰り返されている。


彼が生きているという、頼りない証。


「おはよう、一成。もう、朝よ」


あたしはベットサイドに腰をかけ、やっぱり頼りなく笑うと、彼の額に軽くキスをした。


毎朝の儀式は、実に静かで気持ちを穏やかにしてくれる。




朝食はクリームチーズに、たっぷりのブルーベリーを載せたマフィン。それからピーベリーの豆で煎れたエスプレッソ。


美味しいエスプレッソがどうしても毎朝飲みたいと、あたしはあの頃、一成に毎朝のように話していた。


一成は新聞を広げて、経済記事に難しい顔を向けながら、はいはい、と相槌を返す。


「だけどどうしても欲しいのよ。毎朝駅前の珈琲スタンドまで買いに走る労力とか手間とかお金を考えたら」


一成は新聞から目を離し、それからあたしを見て、それ以上は言わなくていいよ、と目で語るのだ。


「だから結希はさ、あの角の珈琲屋に置いてある、アンティークっぽいエスプレッソマシンが欲しいって言うんだろ」


あたしは駅前の珈琲スタンドで買ってきたエスプレッソの苦味が喉元を過ぎていくのを感じながら、うん、と頷いた。


一成は、俺には難しい感覚だね。と言って、だけどそこに太陽が生まれたように明るく笑うと、再び新聞に目を戻した。





初夏の太陽の陽射しは、容赦なくこの部屋にも降り注ぎ、気温の波を一気に加速させる。


一成の顔に、太陽の熱が当たっていたので、ブラインドの角度を反対にした。


同棲しよう、と一成が言ってこの部屋を既に契約してあると聞かされた時は、本当に驚いた。


いつも物事を石橋を叩いてしか渡らない一成が。あたしが断ったらどうするつもりだったの?と訊くと、困ったような顔になって、そんなこと全然考えさえもしなかったよ、と言った。


――だってほら、結希は俺に惚れてるでしょ。俺も結希に惚れてるし。



ブルーベリーマフィンを口にして、ほどよく酸味が広がったところで、電話から流れるメロディが、あたしの思考を中断させた。


オレンジ色のディスプレイに、見慣れた番号が規則正しく整列して、あたしはとても久しぶりに、長いため息というものを吐いた。


食べたばかりのマフィンが、消化不良にならないことだけを願いながら、重たい手で子機を手にし、通話のボタンを押した。





「意外と早かったね」


玄関に入るなり、まったくここは駅から遠いんだから、バスはなかなか無いし、不便で嫌になっちゃうわ。と撒くし立てる母の声を遮る為に、あたしはわざと、少し大きめに声を出した。


「紅茶にする。それとも珈琲?」


「温かい紅茶。レモンと蜂蜜を入れてね」


母は昔から珈琲より紅茶を選ぶ。家にいる時も、どこか外出先でも、必ずと言っていいほど。


あたしが珈琲を飲みだした頃、――それは高校生の頃だったように記憶しているが――


母はあたしに、そんな苦くて後味の悪いものを飲むなんて、信じられないわ。と、まるでおぞましいものでも見るような顔つきで、言ったのだった。


あたしにとってはかけがえのない飲み物であるエスプレッソも、母に言わせれば見るだけでも苦々しい代物に格下げされてしまう。


ピンク色をしたバラに、金色の葉があしらわれたデザインのティーカップを選ぶと、レモンと蜂蜜をたっぷりと入れたレモンティーを作ってあたしはそれを母の前に差し出した。





ティーカップの縁に、母のつけているボルドーの口紅がつき、それはまるで小さな蕾のように見えた。


「まだ決心つかないの?結希、あんただってもう25なのよ」


やっぱりきたな。あたしはそう思った。嫌な予感が胸の的に命中したせいか、さっき入れたベーグルが、胃をずしりと重たくさせる。


「決心なんて、もうとっくについてる」


少し時間が経ち、冷めてしまったエスプレッソの苦味は、入れたての美味さの苦味とは全然違った。


諦めにも聞こえる大きなため息を母はついて、テーブルに肘をつき、頭を抱えていた。


――本当に諦めてくれたら、お互いにこんな苦痛を味わうことなどなくて済むのに、とあたしは常々思っているのだが――



「お願いよ、結希。お母さんだって、一成さんを悪く思ってる訳じゃないわ。だけど、私もお父さんも、あんたに幸せになって欲しいから」


「いい加減にしてよ!もうたくさん。帰って」


自分でも、びっくりするくらいの声だった。あたしって、こんなに大きな声が出るのかと、自分自身に感心した。


「………」



何も言わずに、背中を丸めて帰っていく母に、あたしは声をかけることすらしなかった。


テーブルに置かれたままの母が飲んでいたティーカップを洗う。


洗剤をつけたスポンジで洗うと、ボルドーの蕾が、絵の具を上から撫でたように伸び、そして完全にその形を失った。


あたしのカップには、まだ入れ直していない、冷めたエスプレッソが入ったままだ。


母がついさっきまで、この空間にいたことさえ忘れてしまえそうなほど、静かで穏やかな空気が流れている。


毎日変化なく、過ぎ去っていく時間をどれだけあたしは、この空間で重ねていくのだろう。


コーヒーミルの小さな引き出しに、ピーベリーの豆をセットし、あたしはそのまま一成の寝ているベットへと向かった。


ベットサイドに腰を掛けたまま、ゆっくりと豆を挽く。


このミルは、一成が買ってきてくれた。あたしの誕生日、帰ってきた一成は、顔を紅潮させ、息を切らし、少し興奮しているようだった。


一成は腕のなかに、大切そうに紙袋を抱えており、あたしは一成に訊いた。それってプレゼント?一成は少しだけ照れたように答えた。絶対に結希が喜ぶものだよ。


実際、あたしは包みを開けて喜んだ。プジョーの珈琲ミル、グァテマラ。あたしがずっと欲しかった代物だった。





翌朝、稜子の突然の訪問にあたしは驚かされた。


「久しぶり。突然やってきてごめんね。ほら、結希の好きなケーキ買ってきた」


午前中は、風呂の掃除をして、洗濯をして、掃除機をかけて、ベランダでしているプチガーデニングを楽しむと本当は決めている。


だから、親しい友人たちにはもし家へ来るなら、午後にしてもらいたい。これはもう暗黙の了解になっていたはずだった。


あたしは何も言わずに、稜子にシナモン・ティーを準備する。シナモンを常備してあるのは、稜子のため、と言っても過言ではない。



「明日ね、同僚の結婚式に出席するのよ」


稜子は少し、興奮しているようだった。


後輩の結婚式だったんだけどね、短大卒だから入社二年目の22歳だよ、22歳。仕事なんて最初っから、する気なかったんだよ、あれは。営業の一番やり手の金沢さんに近づいて、妊娠して結婚までもってくなんて大したもんだよね。――でも、同じ女としてやっぱり羨ましいんだよね。結局はさ。


あたしには、金沢さんという人がどんな男性なのかも想像さえつかないが、稜子の話に、時々相槌を打ちながら、でも、どこか遠くから流れてくる音楽を聞いているような感覚の中にいた。





「一成さんに、挨拶してもいい?」


躊躇いがちに言う稜子に、あたしは、喜んで、と返事をし、稜子と共に、ベットルームへと向かった。


「一成さん、お久しぶり。稜子です」


稜子はそう言ったあと、一成の顔を覗き込み、そして、泣いた。


――こんなに穏やかな顔をしてるのに、なんで目を開けてくれないんだろうね。


泣いている稜子に、あたしは引き出しからタオルを出し、それを渡した。


「いいの?このままで、本当に」


出窓からベランダへ抜ける風が、一成の柔らかく、真っ黒な髪の毛をゆっくりと揺らす。


目にかかってしまった髪をあたしは元に戻しながら、稜子に答えた。


「このままが、いいのよ」


どうしてか、あたしがそう言うと、稜子は今度は声をだして泣いた。


あたしはただ黙って、稜子のそばに立ち、稜子が泣き止むのを待つより、術がなかった。


泣きながら稜子が、かわいそう、と言った言葉に、かわいそうなのは、あたしのことなんだろうか、一成のことなんだろうか、とそれだけを不思議に思っていた。





稜子が帰ったあと、風は急速に冷たく変化し、厚い雲が覆い、雨を降らした。


急いで洗濯物を取り込み、部屋中の窓を閉める。雨の匂いが部屋中に立ち込めて、あたしの気持ちは徐々に静けさを取り戻そうとしていた。


わかってはいるんだ。母の気持ちも、稜子が言いたかったことも、あたしは感覚的にはちゃんと理解している。


母が言う幸せは、女としての幸せ――例えば、愛する人の妻になる幸せだったり、その人の子どもを産み、育て、母親になるという――を指し示しているのだろう。


それは、あたしが女としてこの世に生を受けた以上、当たり前に求められ、当たり前にまた自分自身も求めることが普通、なのかもしれない。


稜子が言わんとしていたところだって、母と何ら変わらない。


寝たきりで、呼吸をし、心臓を動かし、髪も伸び、爪も伸び、汗をかき、チューブを通して栄養をとり、排泄をする。


だけれども、一成はあたしに向かって愛してるとは決して言わないし、目を開けてあたしを見つめることさえもない。


あたしと一成は、愛を確かめあうことが出来ないのだ。


どこにもないのだ。

この生活をあたしが続ける限り、母の言う、稜子の言う、女としての幸せは。






一成がいま話せたら、この人はきっと言うだろう。


決心をつけただって?俺には難しい感覚だね。それから少し考えたフリをして、今度ははっきりと言うはずだ。結希は自分の道を歩けよ。


あたしは一成を失うことが怖い。彼は呼吸も出来るし、排泄だってしているし、心臓だって確かに動かし続けているのだ。


一成の主治医は言った。

『こういったケース――いわゆる植物状態と呼ばれたりしますが――の場合、何年か後に目を覚ました、という例は、ほとんど0に近い数字です』


まったく0ではないんですね?と食ってかかったあたしに、迷惑そうに主治医は続けた。本当に僅かではありますが、世界規模で見れば前例はないとは言えません。


あれから一年半という月日が、この部屋で過ごす一成とあたしを通り過ぎていった。


その間に増えたものは、珈琲屋で手に入れた、アンティークっぽい銅製のエスプレッソマシン。


毎朝この部屋には、エスプレッソの薫りが立ち込める。


あたしはそんな優しさで包まれた空間のなか、一成の顔を拭き、伸びた髭を剃り、髪を整え、歯を磨き、オムツを変え、そばで新聞を広げ、経済記事を声に出して読む。





充分にあたしは、いまこの瞬間に降り注ぐ幸せを感じている。


それが、女としての幸せからは、少し、外れているのだとしても。


母が蜂蜜たっぷりのレモンティーを好み、稜子はシナモンティーを飲む。そしてあたしは飲み続ける。苦味たっぷりのエスプレッソを一成の想い出と未来への1%未満の希望を描いて。



それで、いいのだ。


突然激しく降り始める夏の雨のように、激しく、優しく、心に叩きつけるようにあたしたちはもう充分愛しあった。


一成もまた、母と同じように、苦味のあるエスプレッソが大嫌いだった。


そんな一成が言ったことがある。結希がエスプレッソを愛しているように、俺も結希を愛しているよ。


あたしは、笑って返した。あたしにとっても、同じくらい大切なものよ。


薫りが染み込んだこの部屋で、あたし達は、形のない愛を積もらせていくだろう。


言葉でもなく、セックスでもなく、それは、エスプレッソの苦味のように、強烈に脳内にインプットされた何か。


儚い、けれど、強い。



今度母が来たら、一緒にあたしは蜂蜜たっぷりのレモンティーを飲むかもしれない。


それから、たっぷり、語り合おう。


(了)





































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