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約束の赤葡萄酒

作者: 平山海人

 佐伯氏は疲れていた。何をやってもうまくいかなかった。


 佐伯氏の家柄は悪くない。華族の出で、祖父が西南戦争で功績があり、明治政府下で上院議員となった。父親は一貫して大蔵省勤務だった。佐伯氏も帝国大学を卒業したが、そのころのはやりで公務員ではなく、一般企業に就職した。しかし、その後会社を辞め、鋼鉄に関連するに事業を始めたが失敗して、彼の財産すべてを失ってしまったのだ。また、佐伯氏はある令嬢と婚約していたのだが、その噂が流れ、ご破算となった。


 彼はとぼとぼと力なく阪急の梅田駅のホームを出て南に歩いた。小一時間ほどいくと道頓堀に着いた。グリコネオンをまぶしそうに見上げて、「あんなに元気に人生を走っていければいいのだが......」とつぶやいた。


 実際、佐伯氏には、他に道がなさそうに思えた。「このまま生きていても何もいいことはない。すべては終わってしまったんだ」心の中で言った。


 道頓堀沿いには近頃できたカフェやレストランが並んでいる。


「では、最後においしい葡萄酒でも飲んですべてを終わりにしよう」


 佐伯氏は一軒のカフェに入ると、山高帽を脱いで、腰を下ろした。そして、白いエプロンをした女給が持ってきたワインリストから一本の赤葡萄酒を注文した。いや、別にそのワインに特別な思い入れがあった訳ではない、最後だからなるべく上等なワインを選んだだけだった。


 女給はワインを開け、グラスに注いだ。佐伯氏はワイングラスをゆっくり傾けた。フルボティのふくよかな香りが漂った。


 ウィンドウからは家路を急ぐサラリーマンが足早に通り過ぎたり、職業婦人たちのグループが楽しそうにおしゃべりしながら道を歩いたりしているのが見える。佐伯氏はそれらの人々を何の気なしに眺めながら、自分の人生を振り返っていた。


「僕みたいに恵まれた環境にいながら、人生を台無しにする人間もいるんだ」彼は自分の悲しみに酔っていたのかもしれない。そして、その悲しみは心地よくさえあるようだった。


 そのとき、一人の紳士がドアから入ってきた。


 佐伯氏より、歳はひとまわりほど上に見えるその紳士はよい身なりをしていた。その紳士もかぶっていた山高帽をおろすと、ワインリストを持ってきた女給にメニューも見ずにオーダーを告げた。しかし、その後、その紳士と女給は何ごとかを話し合っていた。しばらくして、その女給はおもむろにこちらのほうを向くと、それに誘われたかのごとく、その紳士もこちらを向いた。佐伯氏と目が合って、少し会釈をした。



 直後、紳士はスッと席を立つと笑顔を見せながらこちらの方に近づいてくる。


「いったい、何事だろう。僕が何をしたって言うんだろう」佐伯氏は怪訝に思いながらも、その紳士の笑顔からして、それほど深刻な事ではないだろうと踏んだ。


「こんばんは。突然失礼をいたします」その紳士は穏やかな声で話しかけた。


「実は、私は今晩、このカフェで一本の赤葡萄酒を注文するつもりで参りました。ところが、あの女給から、その最後の一本をあなた様がご注文されたと聞かされました」紳士は言った。


 佐伯氏は少しとまどいながら、「しかし、赤葡萄酒は他にもたくさんあるでしょう?どうしてもこの赤葡萄酒でないといけないのですか?」と尋ねた。


 紳士はまじめな顔で、「どうしてもです」と答えた。


「できれば、どうしてその葡萄酒でなければならないか、私の話を聞いてくださいませんか?そして......もしよろしければ、その赤葡萄酒のお代を私に払わせてください。そして、一杯でいいのでご一緒させていただければ......」紳士は少し言いにくそうに提案した。


「結構ですよ。暇を持て余していたところです」佐伯氏は答えた。


「本当ですか?」男の顔が輝いた。「ほんとにありがとうございます」


 その紳士は佐伯氏の勧めた椅子に座り、注いでもらったワイングラスを揺らしながら、そのワインを眺めた。まるで、愛しい人を眺めるようなまなざしで......。


 その水口氏と名乗る男は語り始めた。


「今から十年前のことです。私も佐伯さんと同じ関東の出身で、こちらに来たのです。いや、関西で生活すると、言葉が違うので、否が応でも自分たちがよそ者だということ痛感させられますね。


 私は、その頃勤めていた会社をやめて、事業をするためにこちらにやってきました。初めは順調にやっていたのですが、ある大きな取引に失敗して以来、会社の経営は傾いていきました。なんとか立て直そうと懸命に努力したのですが、一度赤字経営に陥ると、借金は雪だるまが転がるごとく増えてゆきました。そして、ついに倒産に陥りました。


 まさに絶望のどん底でした。実際何をやってもうまく行きませんでした。親からもらった財産もすべて失った。婚約者も私を離れてゆきました」


 水口氏のはなしを佐伯氏は固唾をのんで聴いていた。まるで自分のことを聴いているようだった。


「それで、私は生きている希望を失って、たまたまこの店の前を通りかかりました。この店で最後の赤葡萄酒を注文してから、すべてを終わりにしようと思ったのです。この店で一番高い赤葡萄酒を頼んで外の様子を見ながら飲んでいると、玄関から一人の紳士が入ってきました。歳は私よりひとまわりほど上のその紳士はオーダーしているとき、なぜか私のほうを振り返って近づいてきたのです。」


「その紳士はなんと言いましたか?」佐伯氏はもうこらえきれずに言った。


「その紳士は、そう丁度今日私が佐伯さんに頼んだように、どうしてもその赤葡萄酒が飲みたいので、お代は払うので、一緒におつきあいさせてくれと頼みました。」


「それであなたは?」佐伯氏の喉がゴクッとなった。


「申し出を受け入れました。最後に見知らぬ人と酒を飲むというのも悪くないなと。すると、その紳士は自分の身の上話を始めたのです。それが.......」


「ご自分の身の上にとてもよく似ておられたんでしょう?」水口氏の話を遮って、佐伯氏が言った。


「ええ、そうです」水口氏は淡々と答えた。


「その紳士は、自分がどうやってそのどん底から這い上がれたから聴きたくないか、と尋ねました。私は是非とも聴きたいと答えました。ねえ、佐伯さんも私と同じ立場ならそうなさったでしょう?」水口氏はグラスから目を上げて佐伯氏を見据えながら尋ねた。


「え、ええ、もちろんです」佐伯氏は少しうわずりながら答えた。


「その紳士曰く、その人もある日このカフェで別の紳士と知り合い、赤葡萄酒を飲んだそうです。その紳士が言ったのはこういうことでした。つまり、自分は負け犬だと思っていていた。自己憐憫の心地よさに浸っていていた。でも、人生はいつでもやり直せるし、自分の意志で変えていけるんだと」


 佐伯氏はハッとした。自分は運命みたいなものを信じて、その中で弄ばれていると感じていた。抗うことなどできないのだ。そう考えることで自分が成功できないことの言い訳にしていた。たしかに、その考えは心地よい、心地よい故にぬるま湯につかっているように出て行きたくなかった。


「佐伯さん、どうですか?」水口氏は言った。


 佐伯氏は我に返って、水口氏を見た。


「もし、佐伯さんがこれからもう一度人生をやり直すことができたら、毎年今日と同じ日にこのカフェで、あの葡萄酒を注文してくださいませんか?そうすれば、また他の人を救う事ができかもしれません」


「わかりました」佐伯氏は小さいが、確信に満ちた声で返事した。


 二人は分かれた。




 ある事務所の客間に三人の男に囲まれた水口氏がいた。


「水口さん、あの一件ではほんとうにお世話になりました」代表者の頭のはげ掛かった中年の男性が言った。


「いえ、私は自分の仕事をしたまでです」水口氏は淡々と返した。


「いったい、こんな難題をどうやって解決したんですか?」別のポマードをべったり頭に付けた男が訊いた。


「そうです。もしあのままあの男に自殺などされていたら、私たちもおしまいでしたからね」一番若い黒い丸めがねの男が言った。


「私は彼に少し生きる希望を与えただけです。人は約束を果たしたいと願うものです。それで、彼と一つの約束をしたのです」


「へー、そんなことですか?自殺を止めただけでなく、私たちの会社に対する借金もぜーんぶ返済できるほどやる気のでることって一体どんな約束だったんです?」はげの社長は迫った。


「残念ですが、それは企業秘密です」水口氏は言った。


「そーいわれちゃ、しゃーないですな、まあ何にしろ私たちにとっちゃ救われたわけやから」とあと二人と見合わせながら、「これは謝礼です」風呂敷に入ったものを差し出した。


「この前お支払いした自殺をとどめた分とは別に、私たちへの返済が完了したことのお礼です」社長は言った。


「そうですか、では遠慮なく受け取らせていただきます」水口氏は受け取った。


 客が引き払ってから、水口氏は窓の外を眺めながら思った。


 そろそろあれから一年になる。佐伯氏は一年後にきっとあのカフェで、あの約束の赤葡萄酒を飲んでいることだろう。これでこれから私が毎年あのカフェに行く必要はなくなると......。


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