薔薇だけが知っている
セオドリックが眠ろうと寝返りを打った、その時だった。
寝室の片隅に置かれた水鏡が淡く光を放つ。
セオドリックの表情が引き締まった。
皇族の血を引く者だけが使用を許された連絡用の魔道具。
この時間に水鏡を使う相手など、一人しかいない。
静かに近づき、水面へ指先を触れる。
揺らめく水面に、皇帝の瞳と同じ黄金色の文字が浮かび上がった。
『朝、薔薇の香る場所にて待つ』
文字はすぐに消え、水面は何事もなかったかのように静まり返る。
おそらく――例の件だ。
皇帝がわざわざ直接呼び出す理由など、それ以外に思い当たらない。
だが。
セオドリックの視線は自然と窓の外へ向いた。
その先にあるのは、クラリッサが休んでいる部屋。
昨日まで敵国の令嬢だった少女が、今は自分の妻として同じ屋敷で眠っている。
考えれば考えるほど現実味がない。
戦場なら迷うことはない。
政務ならいくらでも処理できる。
だが彼女のことになると勝手が違った。
下手なことをして怯えさせたくない。
困らせたくもない。
だからといって、どう接するのが正解なのかも分からない。
「……少し距離を置くべきか」
誰にも聞こえない声で呟く。
明日は休暇を取っている。
城へ向かったとしても、人目につくことは少ないだろう。
皇帝とも落ち着いて話ができる。
そう自分に言い聞かせながら目を閉じた。
しかし、その夜の眠りは浅かった。
◇
翌朝。
身支度を整えたセオドリックは静かな廊下を歩いていた。
ふと足が止まる。
クラリッサの部屋の前だった。
昨日は長旅の疲れもあったはずだ。
まだ眠っているだろう。
それでも。
目を覚ました時、見知らぬ土地で一人だったなら不安になるかもしれない。
せめて一言伝えるべきか。
扉へ手を伸ばしたその時。
中から規則正しい寝息が聞こえてきた。
セオドリックは手を下ろす。
起こす必要はない。
「オスカー」
背後に控えていた家令が一歩前へ出た。
「お呼びでしょうか」
「クラリッサが起きたら伝えろ」
「はい」
「私は城へ向かったと」
オスカーの眉がわずかに動く。
婚礼の翌日。
しかも休暇中である。
普通なら妻と過ごすべき日だ。
だが優秀な家令は余計な詮索をしない。
「かしこまりました」
セオドリックは最後に一度だけ扉へ視線を向ける。
そして踵を返した。
◇
皇城。
朝の冷たい空気がまだ残る時間帯。
セオドリックが向かったのは、皇帝の許可なく立ち入ることを禁じられた庭園だった。
咲き誇る薔薇の香りが風に乗る。
東屋の下では、皇帝が優雅に紅茶を口にしていた。
「おはようございます」
声を掛けた瞬間。
皇帝の手が止まる。
そして珍しく目を見開いた。
「……まさか今日来るとは」
セオドリックは首を傾げた。
「朝、とありましたので」
「そういう意味ではない」
皇帝は額を押さえた。
「都合のいい朝に来いという意味だ」
「失礼しました」
素直に頭を下げる。
皇帝は深々とため息を吐いた。
「お前は昨夜結婚したばかりだろう」
呆れた視線が向けられる。
「新婚だぞ?」
「自覚はあります」
「なら今日くらいは妻と過ごせ」
セオドリックは答えなかった。
わずかな沈黙。
皇帝はじっと従弟の顔を見つめる。
そして何かを察したように口元を歪めた。
「なるほど」
嫌な予感がした。
「クラリッサ嬢から逃げてきたな?」
セオドリックは答えない。
ただ、ほんのわずかに視線を逸らした。
それだけで十分だった。
皇帝は吹き出す。
「図星か」
肩を震わせながら笑う皇帝に、セオドリックは眉をひそめた。
「本当に重症だな」
ひとしきり笑った後、皇帝は椅子にもたれかかる。
「さて、本題だ」
空気が変わった。
「余が即位して何十年になる?」
「四十七年です」
セオドリックは即座に答えた。
皇帝は満足そうに頷く。
「そうだ。アストレア王国の国王が変わり、各地で起きていた人間とのいさかいもようやく沈静化した」
黄金の瞳が遠くを見つめる。
「さらに龍人と人間との婚姻を結ぶこともできた」
その視線がセオドリックへ向けられた。
「そこで記念に宴を開くことにした。もちろんお前も参加する」
皇帝の黄金の瞳が鋭く光った。
「そして必ずクラリッサ嬢を連れて来い」
セオドリックの目が細められる。
「和平の証、ですか」
「ああ」
皇帝は頷いた。
「龍人と人間が共に歩む未来。その象徴だ」
アストレア王国との和平。
その中心にいるのがクラリッサだった。
「彼女が姿を見せるだけで安心する者もいる。逆に不満を抱く者への牽制にもなる」
「心得ております」
皇帝は満足そうに頷いた。
「なら問題ないな」
話は終わりかと思われた。
だが次の瞬間。
皇帝の表情がわずかに険しくなる。
「それと――」
セオドリックも顔を上げた。
「例の件を忘れるな」
低い声だった。
庭園の空気が張り詰める。
「……忘れてはおりません」
それ以上の説明は不要だった。
皇帝もまた頷くだけに留める。
互いに何を指しているのか理解している。
「では下がれ」
「失礼いたします」
一礼し、その場を辞した。
庭園を出て馬車へ向かう道を歩きながら、セオドリックは小さく息を吐く。
記念パーティ。
和平の象徴。
そして例の件。
考えるべきことは山ほどあった。
だが。
真っ先に脳裏へ浮かんだのは、青い瞳の少女だった。
朝、起きた時。
自分がいないことに気付いただろうか。
不安にさせてはいないだろうか。
「……まずは彼女と向き合うべきか」
誰にも聞こえない独り言を残し。
セオドリックは皇城を後にした。
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