氷青の瞳に選ばれた花嫁
人間が統治するアストレア王国と、龍の血を引く龍人が治めるヴァイスガルド帝国は、長い年月にわたり争いを続けてきた。
国境では幾度となく戦が起こり、多くの血が流れた。
だが、その歴史は一人の皇帝によって変わる。
ヴァイスガルド帝国の新たな皇帝は、戦ではなく共存の道を選んだのだ。
それでもアストレア王国が幾度か侵攻を試みることはあった。しかし十年の歳月が流れ、やがてアストレア王国でも国王が代替わりする。
そして締結されたのが、両国の和平条約だった。
その証として、アストレア王国とヴァイスガルド帝国の王族・貴族による婚姻が取り決められた。
その一人として選ばれたのが、クラリッサ・ファフニールだった。
「クラリッサ」
父であるファフニール伯爵が、娘をまっすぐ見つめた。
その表情は、いつも通り厳格なものだった。
「お前の使命は理解しているな」
「……はい」
「龍人の子を産み、両国を繋げ」
静かな声だった。
だが、拒否は許されない。
それが貴族令嬢として生まれた者の役目だった。
クラリッサはただ頷くことしかできなかった。
相手はヴァイスガルド帝国屈指の名門、ノルデンフェルト公爵家の嫡男。
セオドリック・ノルデンフェルト。
伯爵令嬢が公爵家へ嫁ぐなど、本来ならあり得ない縁談だった。
だが龍人には独特の価値観がある。
瞳の色だ。
瞳の色が近いほど相性が良く、強い子が生まれると信じられている。家格すら覆すほど重視される価値観だった。
クラリッサの瞳は澄んだ青。
セオドリックの瞳も同じ青系統だと聞く。
そのため、この婚姻は龍人側からも強く望まれたらしい。
けれどクラリッサには実感がなかった。
栗色の髪。平凡な容姿。
令嬢として見劣りするわけではないが、誰もが振り返るような美貌でもない。
(きっと破談になるわ)
そう思っていた。
和平婚とはいえ、顔合わせの後に婚姻が取り消されることもある。人間との婚姻を快く思わない龍人もいるだろう。
だが顔合わせの日、セオドリック本人は現れなかった。
来たのは代理人だけ。急務のため欠席。それだけが告げられた。
(会う価値もないと思われたのかしら……)
クラリッサは静かに目を伏せる。
だから破談の知らせを待った。
次の日も。
その次の日も。
けれど何も届かない。
そして一週間後。
ようやく届けられた書簡を開いたクラリッサは、目を見開いた。
そこに記されていたのは破談ではなく――婚姻決定、の四文字だった。
相手はセオドリック・ノルデンフェルト。しかも婚約ではなく、婚姻だった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
普通なら婚約期間を設ける。
顔合わせの後に交流を重ねるのだ。
少なくともアストレア王国ではそうだ。
手元の書簡に目を落とす。
婚礼の日取りまで決まっている。
「これは……」
父が安堵したように息を吐いた。
「国王陛下の命に背かずに済む」
心から安心した様子だった。
その姿を見て、クラリッサは複雑な気持ちになる。
父もどこかで、自分では断られると思っていたのだろうか。
(龍人には婚約期間がないのかしら……)
不思議だった。
だが少なくとも数百年は前例のない婚姻だ。
人間とは文化が違うのだろう。
そう納得するしかなかった。
もちろん真実は違う。
龍人の婚姻が早いわけではない。
セオドリックが異例の速さで話を進めただけだった。その理由を、クラリッサはまだ知らない。
そして婚礼の日。
初めて会ったセオドリックは、噂以上に美しかった。
銀の髪。整った顔立ち。そして氷を閉じ込めたような青い瞳。
まるで人ではなく、彫像のようだと思った。
だが、その表情は終始無表情だった。歓迎されているようには見えない。
婚礼は滞りなく終わった。
そして夜。
クラリッサは緊張しながら夫を待っていた。
父から託された使命。子を成し、両国を繋ぐこと。そのためにここへ来たのだから。
やがて扉が開く。
現れたのは先ほどと変わらぬ無表情のセオドリックだった。クラリッサは立ち上がる。
だが、彼の第一声は予想もしないものだった。
「子どもはいらない」
一瞬、意味が理解できなかった。
氷のように冷たい声だった。
「何かお気に障ることを……」
「君に非はない」
短く否定される。だが説明はない。
和平婚だ。子を成すことこそ意味がある。それなのに、彼は自分との子を望まないと言う。
「国へ帰れ、ということですか?」
その瞬間。
氷青の瞳がわずかに揺れた。
「違う」
即座に否定される。
「君は一生ここで暮らす」
低い声が続く。
「アストレア王国へ戻ることは認めない」
その言葉に、なぜか胸がざわついた。だが意味は分からない。
「ですが……」
「話は終わりだ」
それだけ言うと、セオドリックは背を向けた。
扉が静かに閉じる。
残されたクラリッサは呆然と立ち尽くした。
父から託された使命。和平婚の意味。すべてを否定された気がした。
嫌われているのだろうか。人間だから。
それとも自分だから。答えは分からない。
ただ一つ分かるのは、母国へ帰ることは許されないということだけだった。
「子どもはいらない、か……」
困ったことではある。
けれど――初夜を迎えずに済んだことに、少しだけ安堵している自分もいた。
それでも、このままでいいはずがない。
まずは妻として認めてもらおう。
そう心に決め、クラリッサは広いベッドへ身を横たえた。
その頃。
自室へ戻ったセオドリックは、深く息を吐いていた。
――お前が望むまでは。
――お前が心から俺を愛してくれるまでは。
そういう意味だった。
だが口から出たのは、たった一言。
「子どもはいらない」
龍人は一度伴侶として迎えた相手を、生涯手放さない。
だからこそ、愛のないまま子を望みたくなかった。
瞼を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、春の空を閉じ込めたような青い瞳。初めて見た瞬間から忘れられなかった瞳だ。
セオドリックはまだ知らない。
自分の言葉が致命的な誤解を生み、すれ違いの始まりになることを。
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