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『不屈の詩人』

〈櫻散る後に殘れる春哀れ 涙次〉



【ⅰ】


 じろさん=此井晩秋の詩集が上梓された。

 土曜美術社出版販賣・刊の『不屈の詩人』がそれである。

 出版社とじろさん、折り半でカネを出し合つた。詩集と云ふものは、さう賣れるものではない。従つて、作者:出版社でカネを出し合ふ事は、さう珍しい事ではない。


 中にこんな詩がある。


 〈愛〉


 愛は愛

 さほどさやかな物ではない

 温氣(うんき)を孕んだ曇り空

 のやうな 愛

 しとゞに濡れた人を待つ

 雨季の戀人

 この世界には何も不思議な事はない

 全て心理の内にある氣象が

 實証濟みである


 これはじろさん、若かりし頃の作(この頃じろさんはポール・エリュアールなどを讀んでゐた)で、当人すつかり忘れてしまつてゐたのだが、澄江さんがその草稿を取つて置いたのである。詩集の献辞は、勿論「我が妻・澄江に捧ぐ」であつた。



【ⅱ】


 じろさんとテオのコラボレイト作を作つてみないか、と、木嶋さんが云つてきた。じろさんの自由詩と、谷澤景六の散文、で、それは構成される豫定。じろさんの返事は曖昧だつた。

 谷澤景六のやうな人氣作家と共同で本を出せば、世間の注目をだうしても集めてしまふだらう。しかも、二人は共に「カンテラ一燈齋事務所」の所員である。あつと云ふ間に、じろさんが詩人である事が、世間に知れ渡つてしまふ。何だかねえ、それでいゝのか? カンテラにさう云ふと、「いゝんぢやない?」と、輕い返事が返つてくるばかり。本当にそれが、自分と仲間との為になるのか- じろさんは思ひ詰めた。



【ⅲ】


 咲野薦(さきの・すゝむ)、と云ふ男がいた。親の財産が豊かで、それで株などをやつて、適当に世を渡つてゐる男である。要するに、カネ持ちだ。彼の妻・里加子(りかこ)は、「有閑マダム」であり、それも致し方なかつた。夫の、唸る程の財産が彼女を「それ」にさせたのだ。彼女には、詩人のパトロンになると云ふ熱望があつて、だがその審美眼に叶ふ詩人は、今までにはゐなかつた。


「今までには」と云ふのには、「今、それが現れた」との意味が籠もつてゐる。話の流れから云つて、分かつてしまはれた方も多からうが、その詩人とは、じろさん、此井晩秋である。

 先の【愛】なる詩など、彼女が待ち受けてゐたもの、そのものずばり、なのである。



 ⁂  ⁂  ⁂  ⁂


〈愛は愛愛つてなあに問ふ前に自分の懐見てみな諸兄姉 平手みき〉



【ⅳ】


 里加子は、或ひは、將來有望な詩人の、愛人となりたかつたのかも知れない。夫の、飢ゑた事ないカネ持ち面には、彼女は飽き飽きとしてゐた。また、單に所謂「不倫」の相手には、情熱を求めるのが、人妻の(つね)である。藝術家には、必ずそれが備はつてゐるものと、彼女、勘違ひしてゐた。彼女は中年ながら、美貌の持ち主だつた。自信過剰なところも手傳つて、彼女の慾求は膨れ上がつてゐた。


 じろさんにしてみれば、いゝ面の皮、である。急に彼の生活に割り込んできて、しかも澄江さんとの仲を裂く、など、言語道断である。じろさんは、詩人・此井晩秋としてゞなく、眞つ更な此井功二郎として、里加子の申し出(彼女は、晩秋の詩集出版記念パーティに、紛れ込んでゐた)を断つた。

 彼女の愛人志願は、だうしたものか、あけすけなのだつた。澄江さんの事は、まるきり眼中になかつた。要するに彼女は、自己中心的な心根の持ち主だつたのである。



【ⅴ】


 カンテラ「じろさん、あの女、俺が斬つてやらうか? 實はあの女の旦那から、依頼料はたんまり頂戴してゐる- 他人の夫婦仲を裂かうなんて、おこがましいにも程があるつてね」じろさん「そ、それは困るよカンさん。誰だつて自分の藝からは死人は出したくはないぜ」

 またいつぞやの「殺人マシーン」に、カンテラを戻してはいけない、と云ふ氣持ちもあつた。先日からの不景氣極まりないカンテラ一味を、(おもんぱか)つての事だらうが- じろさん、また、見知らぬ夫婦間の争議に巻き込まれたくはなかつた。


 カンテラ「ジョークだよ、俺だつてヤバい事を無碍にしでかさうつて氣はないんだ」だが、カンテラ、里加子につかつか歩み寄り、「おい、あんた」振り向き様に、剣を拔いた。じろさん「!!」皆愕然とした。

 然しカンテラの剣は、宙空を斬つたのみ、であつた。「秘術・雜想刈り!!」カンテラは太刀を鞘に収め、それで肩を叩きながら、會場を去つた。


 里加子のそれから、は、まるで廢人の生活だつた、と云ふ。刈られた「雜想」が彼女の全て、だと云ふに近かつた。じろさんには、結局大きな「?」(クエスチョン・マーク)が殘つたゞけであつた。カンテラ「ま、それも藝術家の定めなのさ」



 ⁂  ⁂  ⁂  ⁂


〈晝ひとり辛夷(こぶし)と拳見比べる 涙次〉



 云ひ忘れたが、カンテラは現代アートの信奉者で、藝術には理解ある「上司」なのだ。じろさん、それは分かつてはゐたものゝ、「自分の藝」から廢人を一人産んだ事が、だうにも重いのであつた。


 お仕舞ひ。




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