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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

秘密を守れない者を招き入れるなかれ

作者: 浅賀ソルト

 夏の合宿中にコーチに呼び出され、合宿所の一室で二人きりになるとコーチは僕の頬や首をべたべたと触った。

「綺麗な肌だね」といつものコーチとはまったく違う声色で話しかけてきた。

 僕は何が起こったのか分からずに身を固くしていた。

 コーチは——あとになって気づいたことだが——お腹のフェチで、シャツの裾から手を突っ込んでかなり長いこと僕のお腹を撫で続けた。

 それからゆっくりとズボンのウエストに手を下げていくと、下腹というか鼠蹊部というか、性器以外のあのあたりをまたゆっくりと撫でていった。

 僕はじっとしていた。

 怖いという言葉すらなかった。これが恐怖という感情だと理解したのもあとのことで、あとになってから、自分はあのとき怖かったのだと理解した。

 話は脱線するけど、怖かったのだと理解してから、さらに言葉にして——ここで文章にすることも含めて——あのとき怖かったと誰かに伝えるのにはさらに時間がかかった。

 報道で、ローマカトリックの神父たちが信者の子供たちに性的虐待を繰り返していたというニュースを見て、さらに例のジャニー喜多川のニュースを見て、やっと自分に起こったことを理解した。

 理解したというとまたちょっと自分の感覚とは違うので、これを読んで「ああ、やっと理解したんだね」と納得されるとそれもまた違う。

 この理解したという感覚を分かって欲しいんだけど、安易に分かったと言われると分かられてない気がして腹が立つという、自分でもうまく説明できない厄介な感情だ。

 話を元に戻そう。最初の被害と、その後の被害と、僕自身も含めて周りの人間がそれを無視したという話だ。

 最初の接触はそこまでで、何か気持ちは悪かったが、マッサージとも体調のチェックとも言えないこともない、微妙な〝検査〟だった。

 コーチはまた手をシャツの裾に戻すと下腹からお腹のあたりをぺたぺたとしばらく触り、そこで不意に、「よし大丈夫だな」と言って僕のシャツから手を引っ込めて両肩を掴み、練習に戻させた。何が大丈夫なのかは分からなかった。

 僕は野球の練習に戻った。

 クラブの夏合宿は一週間で、グランドのある海沿いの建物を使って毎年開かれた。保護者の参加はほとんど不要で、送迎の車の協力に何人か手を貸すくらいで済むというお手軽さだった。買い出しや料理、洗濯、その他もろもろはコーチの知り合いの旧知の人達だけで運営されていた。

 少年野球という言葉もあったが、記憶にある限りけっこう女子もいたと思う。大人の女性も一人だけだが参加して、みんなの面倒を見てくれていた記憶がある。

 蝉の声も潮風の匂いも覚えている。みんなで食べたカレーや海水浴や花火大会。いい記憶だってたくさんある。

 なんだかんだいって運営をしてくれた大人たちは優しかったし、悪い人ばかりではなかったな。

 みんな野球が好きだったんだと思うし、面倒見はよかったんだと思う。

 僕は野球が好きというよりは、友達と遊ぶのが好きだったし、友達がいたからその野球クラブに入っただけだった。

 練習が厳しくないそこは実際に居心地もよかった。

 夕食後、合宿所でみんなで一つの部屋で就寝前のひとときがあり、そこでまたコーチに誘われてついていき、また触られることになった。

 そのときに性器にまで手がのびたかは覚えていない。

 合宿の最終日には完全に下半身を裸にされたのは覚えている。僕は目を閉じていたが、コーチはなんか見たり触ったりしていた。想像だけが膨らんで、とにかく早く終わることだけを考えていた。

「綺麗だね。君は本当に綺麗だね」

 こうやって文章に書くと気持ち悪いが、自分の耳には言葉の意味はほとんど入ってこなかった。

 声と態度にある、ものすごい欲望の圧というか、逆らったら殺されるんじゃないかという抑えきれない支配というか、そんなものがあった。

 文字にすると誉め言葉だが、褒めてるわけでも、こちらを喜ばせるでもなく、それを口に出して言うことでコーチ自身のテンションが上がり、自分のために口に出しているだけだった。こちらに聞かせるつもりが無いということが声の感じから分かる。

 つまりそれは独り言だった。

 うつぶせにされ、肛門のあたりを執拗に舐められた。まったく知らない感覚で、僕は戸惑いつつも声を抑えて体を固くしていた。

 それでもたまに自分の口から「うっ」と声が漏れた。

 声が漏れると明らかにコーチは興奮したので、それからはなんとか必死に声を抑えた。

 コーチは肛門を舐め続けた。

「我慢しないとみんなにバレちゃうからね」

 よだれで口のまわりをべちゃべちゃにしながらコーチはそう言った。

 合宿が終わってからも何度か二人きりになることがあった。

 なるべくなりたくなかったが、実際に周囲を固められると逃げられなかった。

 大暴れするとか、とにかく遠くまで遠くまで走って逃げるとか、そういうことはなかった。

 あ、来るな、と思うと体が固まり、意識が固まり、周囲の音が遠くなった。

 肛門に異物が入ってくる感覚はどうしても慣れなかった。

 助けを求めるという話について、あまり思い出したくない。

 情けない話だが、結局、練習行きたくないということしか言ってないからだ。

 なぜ行きたくないのかは説明できなかった。

「練習行きたくない」では助けを求めたことにはならない。それでも、「行きたくないなら行かなくていいよ」と誰も言ってくれなかったときの、沈むような気分は今でもフラッシュバックする。誰も助けてくれないという確信だったからだ。

 何年も経過して、コーチのターゲットが他に移った。

 そしてさらにクラブから離れて何年も経過した。

 ニュースを見たのはそのときだ。

 クラブを手伝いしている三十代の男が女児にいたずらしたというものだ。

 新規スタッフの採用においてうかつで慎重さに欠けた馬鹿を招き入れたことによる崩壊だった。

 組織はそういうところから穴が開くのだろう。


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