伝説ではない物語
これはもう死んだなと、俺は諦観した。味方の小隊は半壊し、生き残りの兵はさっさと撤退した(賢明な判断だ)。俺は文字通り、矢尽き刀折れ、おまけに片足は大岩の下敷きときた。俺達を襲った魔族の部隊は、今も懸命に戦っている。何とって? …巨大な竜さ。
人間と魔族の領土争いなんて古来幾百幾千と起こったろうが、その度に少しは学習しろと思う。この大地は人のモノでも魔のモノでもなく、本当はこいつら竜のモノだろうってな。そう思わずにはいられなかった。天さえ焦がすかという強力な火炎。剣を通さない硬い鱗。木々や岩を事も無げに薙ぎ倒す尾の一振り。
ここが竜の住処と知らずに作戦行動を取った俺達人間共のミスか、それとも知っていながら襲い掛かったあちらさん魔族のミスかは、この際どうでもいい。竜退治の装備も持たず、戦闘の最中に突然襲われたという時点で、その場にいた者達は例外なくこの竜サマの昼飯でしかなかったろう。
……お? そうでもないか。あの魔族の剣士、結構頑張ってやがる。
俺は見た。不気味な大剣を両手で振るい、竜鱗の継ぎ目を果敢に斬りつける魔剣士の姿を。その身体は禍々しい装飾の施された鎧兜の上からでもはっきりと分かる程しなやかに鍛え上げられており、竜の攻撃を紙一重で避け続けていた。また、その細く長い指は妖しい光を放ち、大剣に竜すら傷付け得る魔力を与えているようだった。……強い。俺は自分の置かれた状況も一瞬忘れて、息をのんだ。
だが奴もまた追い詰められていた。魔族の他の兵士達は火炎や爪や尾の攻撃を避け切れず、一人、また一人と倒れて行く。逃げ出す者もいたし、仲間を庇って犠牲になる者もいたようだ。とにかく、俺が気づいたときには件の魔剣士以外にはまともに戦える者は居なくなっていた。
急に冷静になって我が身の事を考えた。俺はこの後、一体どうなる? あの竜に喰われる? それとも、あの魔剣士に殺される? 恐らくそのどちらかであるのは明白だ。唯一の希望は、彼等が相討ちになることだが…。
俺は自分に残された武器を探る。……剣は折れている。これでは竜とも剣士とも戦えない。魔法は? …不得手だが、魔力はまだ微かに残っており、中級火炎魔法が一発なら打てるだろうか。ならば、勝機が無くはない。勝ち残ったのが魔剣士の方であれば、不意打ちで倒せる可能性が残る……!!
……頑張れ、名も知らぬ魔族の剣士! と、俺は心の中で叫んだ。剣士は単騎となったが、諦めた様子はない。むしろその動きは鋭く冴え渡り、美しくさえあった。まるでスズメバチだ。竜のあらゆる攻撃を紙一重で回避し、鋭い一撃を確実に刺し込む様に、俺は見とれてしまいそうになる。
対する竜は明らかに激昂していた。身体中から赤黒い体液を撒き散らしながらも、逃げようとする素振りすら見せず、時折巨大な咆哮を上げた。その度に空気が激しく震え、俺は恐ろしさで心臓が止まるかと何度も思った。
……どのくらい経ったのだろう。とんでもなく長い時間に感じられたが、実際は僅かな経過でしかなかった筈だ。俺は無意識に、砕けそうな程奥歯を強く噛み締めながら、その一部始終を見ていた。今や状況は、僅かではあるが剣士の優勢と思われた。幾十幾百も死線を越えて繰り出されたその斬撃が、対に竜の命を終わらせようとしていたのだ。何て事だ。俺は奇跡を目の当たりにしているのか? 剣士の渾身の一撃が、竜の首に深々と刺さった時、俺は思わず、声を上げて泣き出しそうになった。
が。
次の瞬間俺は青ざめた。その一撃は鋭すぎた。深すぎた。
剣士がその剣を抜くより一刹那速く、竜の前足が奴の胴を薙いだのだ。
鈍い音と共に黒い鎧が宙を舞った。竜の首から剣が抜け落ち、勢い良く体液が噴き出す。竜はまだ倒れない。剣士もまた、受身を取り立ち上がろうとした。が、間に合わない。竜の顎が剣士の頭部に喰い……つく寸前に、後方へと仰け反った。竜の眉間で火炎呪文が燻っていた。俺の手が、知らず伸びていた。……あ? 撃ったのか? 俺が? 生き残る最後の手段を無意識に?!!
目の前の時間が止まったかと感じたが、それも一瞬だった。轟く竜の咆哮。立ち上がりざまに拾い上げた剣を竜の上顎に衝き立てる魔族の剣士。大剣はどこまでも深く竜の頭部に飲み込まれ、やがて一瞬の沈黙。続いて、地響き。
大地に最後まで立っていたのは、魔族の剣士だった。ああ、つまり今まさに、俺の目の前で「竜殺し」の英傑が誕生したって訳だ。へへへ……凄ぇ栄誉だ。身に余る。
英傑は竜の顎から剣を引き抜くと、当然の様にこちらへと歩いて来た。その歩みには疲労の色が色濃く感じられたが、迷いは感じられない。もう俺に武器はない。魔力も残っていない。虚勢を張る気力すらない。俺は大地に臥せったまま、英傑サマの美しく長く細い指に握られた剣が、俺の眼前に突きつけられるのを他人事の様に見ていた。
「…何故助けた?」
漆黒の兜の奥で、くぐもってはいたが凛とした声がそう問うた。もう考えるのも面倒だ。俺は頭に浮かんだ言葉をただ馬鹿正直に答える。
「……あんたを助けないと、俺も死ぬと思ったからだ」
「無知なドブネズミめ…。今死ぬとは、考えなかったのか?」
「どっちにしろ、あんたは助かるだろ……」
俺はそう呟くと、目を閉じた。
* * *
「それが出会いだっての?」
俺の自慢の長女はまだ小さい下の弟を膝に乗せたまま、呆れ顔でそう聞いて来た。
「ああ」
俺は義足ごとソファに横たわり、愛する妻の胸にもたれかかったまま、自慢げに答える。
「本当に?」
どうにも疑わしいという体で、長女は妻にも問う。
妻はその美しく長く細い指で俺の髪の毛を弄びながら、無言のまま微笑んで頷いた。
「…嘘くさいなぁ」
長女はやってられないという風に肩をすくめてそう言うと、上の弟がはしゃぐ声のする、窓の外へと視線を向けた。
「でも、本当の事さ」
俺は満面の笑みで断言する。
窓の外に広がる青い空の下、街の中央広場から、終戦20周年を祝う式典のファンファーレが高らかに鳴り響いてきた。