B級映画みたいなボーイミーツガール
帰りそびれたまま小一時間が過ぎていた。雨が止んだら帰ろう、なんて思ったのが失敗だった。傘はあるのに濡れるのを面倒くさがった自分を恨んだ。
曇天で陽が入らない教室、電気も付けないまま窓際の机に片足を立てて座り、雨で憂鬱になるほど歪んだグラウンドを眺めている。何も楽しくなかった。
かと言って今から帰るのはどこか負けた気がして嫌だった。とどのつまりは意地、なのだ。俺はそういう人間だ。
「君はなんで帰らなかったの?」
俺は窓越しに雨を見たまま、教室にいるもう一人である女子生徒にそう聞いた。
「今日の雨は強くて痛そうだからね。傘が傷みそうだから雨宿り」
その言葉に意味はほとんどないんだろうな、と思った。彼女はいつもこんな風に独特な雰囲気と価値観を持ち合わせている。
「傘は傷ませるものなんじゃないのか?」
「違うよ。モノは大切にしなさいって小学校の頃の道徳に胸を打たなかった?」
「風の噂だと、最近俺に道徳を教えてくれた元担任がセクハラでどこかに行ったらしいよ」
「教育者がクズでも教科書の教えは不変で普遍だよ」
「その教えを説いた誰もが傘を傷めてるよ」
「心じゃなくて?」
「傷心自殺した、なんて聞いたことがないよ」
「最低な世界だ」
「そうな」
そしてお互い黙る。
雨の音も景色もいい加減聞き飽きてきた。
スマホをいじるのは簡単だけどなんとなく気が進まなくてしない。
ふと、彼女を見る。彼女は俺の左側で同じような格好でじっと雨を見ていた。
長い黒髪から覗く顔はつまらなそうでいて、けど楽しんでるようにも見え、その瞳は何かを見ているようで、その実なにも写してないように見える。つまり、よくわからない。
俺はそんな彼女の不明瞭な感じが好きで、そのわからなさに前から惹かれていた。だから今の状況は僥倖なのだ。けど、だからといって何をするわけでもないから、今もこうして与太話をしている。
「このまま朝まで止まなかったらどうする?」
俺の視線に気付いた彼女がこっちを見て言った。視線が合う。俺は窓に目を逸らした。
「……その前に諦めて帰るよ」
「それまでの時間を無駄にするの?」
「どうでも良いよ。急いで帰らなかったってことは、イコール早く帰ってもすることがないってことだから」
「勉強とか、すれば良いじゃん」
「君はするの?」
「しないよ。つまんないもん」
「人生、豊かになるよ。多分」
「映画観るから平気」
「じゃあ俺もそうかな」
「君も観るの?」
少し意外、といった風に聞いてくる。
いや、これは疑っている声色。俺がお眼鏡に敵うか否かを色眼鏡で品定めしているんだ、間違いない。知らんけど。
「……語れない程度には」
「……それは、私も。私たちってつまらない人種なのかもね」
彼女はため息を吐くように笑った。
どうやら査定は合格らしい。
「面白かったら肌が緑だったりした?」
「血液だってピンクかも」
「それは嫌だな」
「ポップな感じで可愛くない?」
「可愛くない」
「そっか」
「そうだよ」
「……本当に?」
「何を求めてるのさ」
俺が笑ってそう返すと、彼女も子犬みたいに笑った。子犬って表現、よくわからないけど。でも子犬みたいだ、と思った。
それから俺たちは噛み合ってるようで噛み合わない、そんな戯言じみた会話を続けた。犬か猫を食べるならどっちの方が良いだとか、宇宙と深海のどっちの方が深いトークが出来るだとか、実はこの世界は仮想空間で、死んだら12歳の少年少女として目覚めるだとか、そんな他愛のない話だ。
「良いニュースと悪いニュースがあります」
映画を楽しめないのは映画のせいか、はたまた観てる側のせいか、という議論が終わったところで彼女はそう切り出した。映画繋がりでこんなフリなのだろう。こういうのは大抵ロクなことにならない、だから「ニュースってのは日本独自の読み方で英語圏での正しい読み方はニューズらしいよ。他にも駅のホームじゃなくてフォームが正しいらしいよ」と話を逸らしてみる。
「それは初めて聞いた、というか話の腰を折らないでよ。泣くよ」
ダメだったみたいだ。
「悪かったよ……じゃあ悪いニュースから」
「悪い子だね」
「一生子供だからね。それで?」
「雨は止みそうにないので、私、泣く泣く泣きじゃくる傘をDVしながら帰ろうと思います」
どうやらこれまでの時間を無駄とすることに決めたようだ。
「傘、傷ませて良いの?」
「よく考えたら私、野菜は炒めるし、死んだ人も悼むし、果物もよく傷ませてる。だから傘だけ特別扱いは、ちょっとね」
よくわからなかった。ただ自分ルールに忠実な辺り軸がぶれないな、なんて思う。
「その方が傘も泣くよ」
「痛いから?」
「嬉しいから」
「Mってやつなのかな?」
「それは知らん。それで、良いニュースは?」
「一緒に入れてってあげる」
それは、驚いた。
「確か帰る方向、一緒でしょ?」
何気ない言葉。悪い気はしなかった。
というか、俺も傘は持ってる。
「あの〜」と言い出そうとしたところで彼女が口を開く。
「一緒に濡れて帰れば、憂鬱だってグッバイさよなら、笑えて愉快でハッピーじゃん?」
妙な節をつけて流暢に言い切った。
「それは、そうかもね」
「じゃあネズミの整体模倣だ」
そう言って彼女は笑顔を浮かべた。
濡れ鼠と言いたいのだろう。くだらない。
そしたら俺は鼠男だ! とはすんでのところで言わなかった。橋はよく叩くに限る。
結局傘は役割ごと学校に置いて行くことにした。嘘をついた罪悪感と傘への申し訳なさにちょっぴり胸を痛めた。彼女の言っていたことがわかった気がする。嘘だけど。
昇降口で悲しい未来を決定付けられた靴に履き替える。一応心の中でごめんな、と謝っておく。化けて出られても困る。
靴にヘコヘコする僕に、先に靴を履き替えた彼女が傘を開いて言う。
「誰かに見られたらなんて思われるかな?」
彼女が傘の下で手招きをする。
ただ格闘家よろしく、手のひらが上で指をクイってするタイプのやつだった。
「ハッピーでラッキーで馬鹿な二人」
そう言って俺は、動じないフリをして同じ傘に入る。
据え膳食わぬはうんたらかんたら。
ひとつ屋根ならぬ、ひとつ傘の下。
よく考えたら傘って漢字、四人で入ってないか。すごい。
「それは笑える?」
俺が隣に来ると彼女は雨の中に進み始めた。
「トムジェリぐらいは」
瞬間、傘を打つ雨の音が耳に痛いほど入ってくる。だけど隣を歩く彼女の声はしっかりと聞きとれた。
「じゃあ最高じゃん」
傘の下で微かに漂うシャンプーだかリンスだかオイルだかの香りに心臓が鳴るのを感じる。少しして香水と柔軟剤もあり得るのか、と気づく。けど、それでも跳ねるから俺の心臓はチープなのかもしれない。
「俺たちを映画化したら最低だろうけどね」
そんなことを悟らせないように平静を装う。
「良いんだよ、B級、C級で。無名の俳優とか、売れないコメディアンが私たちの役をやったならきっと良い感じの喜劇になるから」
「アイアン・スカイ、みたいな?」
「全然ジャンルが違うと思うけど、B級としては絶妙なレベルだね」
すでに肩と靴は水没していた。半分コの傘、こうなるのが当たり前。きっと彼女もそうだ。
それなのに目の前の水たまりを、うりゃって彼女が蹴り上げる。ローファーなのに、馬鹿みたいだ。でも、馬鹿じゃなきゃやってられない、俺たちは馬鹿だから。
俺も水たまりを蹴り上げる。
馬鹿みたいに彼女が笑う。
馬鹿だから俺も笑う。
あぁ、なんか本当に映画の登場人物みたいな気分だ。今ならきっと、なんだって出来る。これは主人公的感覚、楽観的観測だ。でも大丈夫、これは映画、アルコールもLSDもないけど、最低に面白くなるにキマってる。タランティーノやエドガーライトより上手くやる。
「今度、二人で映画でも観に行こうよ」
俺はそう提案してみる。
意思に反して俺のチープな心臓はBPM200を軽く超えた。
そんな俺に、彼女はまた子犬のような笑みを浮かべて言う。「一日中観よっか」
「一日中観て、興味ないやつばっか観て、そのあとサイゼに行ってドリンクバー片手に何やってたんだろうねって笑って、UFOについて語ろ」
「ウィズプレジャー、M、ウィズプレジャー」
俺は照れ隠しにおどけてそう言った。
「あはは。楽しくなりそう」
「いつかに泣くかもしれない一日だけどね」
「惜しまないよ、四半世紀、半世紀経っても。今日のことだって」
その言葉ほど嬉しいものはないと思った。
この世界はそう悪くプログラムされてない。
もう一回、俺はうりゃっと水たまりを蹴った。