06.嫁のお取り扱い
夕食後、私はギルの私室に招かれていた。
ギルの私室に入るのは初めてだなと、呑気に眺めていた五秒前の私は、知る由もありませんでした。
(どうしてこうなった!?)
押し倒されております。ギルによってベッドに、現在、押し倒されております。
「えっと……ギル、これって?」
私の肩の横に両手を突いて覆い被さるギルに、状況の説明を求める。
これもそれも無いような気もするが、何か事情があるとも限らない。
「シナレフィーが初めてミアの唇にキスした時、倒れたと聞いたから。最初から安全を考慮してみた」
事情があったー!
ミアさん、倒れたのか。シナレフィーさんに色々吹き込んでいるあたり、ロマンチストぽいところがあるから。うん、彼女ならクラクラして倒れかねない。
ギルはそれを心配したと。そうか、押し倒してきたのは、ギルの優しさか。前提が、まずおかしい気はするけれど。
ところで、これはやっぱり街で言っていた「予約」の受け取り待ちということですよね。私の要望通り、二人きりになって。私が倒れる準備までしているあたり。
色々考えてくれるのは、素直に嬉しい。でもこう「さあ、するぞ」が前面に出てしまっていてはロマンが無いので、私はミアさんと違って「ああ、うっとり」と倒れることは無さそう。
ボーンボーン……
暖炉の側に立つ柱時計が鳴る。食堂ほど大きなものではなく、私の腰までほどの高さの物だ。
「サラ、こっちを向いて」
無意識に時計を見遣っていた私を、ギルが呼び戻す。
ち、近っ。顔近い。目を閉じたギルって初めて見た。あと、ギルの銀髪が触れている頬がくすぐったい。
そ、それから――
「んっ」
ごちゃごちゃと考えていた全ては、一瞬で雲散した。
(キス、キスして……る!)
同時に今度は目の前のことに、意識が集中する。
うあぁ……駄目、見てられない。あ、見てられないなら目を閉じればいい。
ぎゅっ
固く瞼を閉じる。
結果、視覚に分散されていた意識が触覚に一点集中することに。
(わー、わー)
唇の上、下、端。滑らかに動くギルの唇を、つい追ってしまう。
ただ重ねられただけのはずが、どうしてか触れられるたびに酷く熱い。
外から、内から熱くて。私は息苦しさに、助けを求めるようにギルの片腕に手を添えた。
その気持ちが通じたのか、ギルが少しだけ顔を離す。
「ギル――ん、む……っ」
彼の名を呼んだことで開いた隙間から、ギルの舌が腔内に侵入してくる。
通じてなかった。さらに状況が悪化した。
逃げ惑う私の舌を、ギルがまるで見えているかのように的確に追ってくる。
(うわわ……キスって本当に音がするものだったの)
擬音だと思っていたクチュクチュという音が、まさにそのまま私の耳を犯している。
それが止んだかと思えば、
「ひゃあっ」
その音を生み出していたものに直接耳を食まれ、私の肩は大きく跳ねた。
「サラ……もっと、したい……」
肩ばかりか私の全身を震わせるようなギルの囁きが聞こえた直後、再びギルの舌に私の舌が絡め取られる。
「は、ふ……」
きゅっと、彼を掴んだ手に力が入る。
(そっか、通じてなかったんじゃない)
ギルが口にした「もっと」は、きっと私の本音でもある。
ギルに触れた私の手は、彼を引き寄せている。
「サラ、もっと……」
ギルの片手が私の頬に掛かり、上向かされ、口づけが深くなる。
頭の奥がぼんやりとしてきて、体中から力が抜けていく。
それは固く閉じていた瞼も同様で、薄らと戻ってきた視界に、私を貪るギルが見えた。
「は……」
キスの合間に聞こえる吐息は、ギルのものなのか、私のものなのか。
「もっと欲しい……」
(私も……)
そう答えようとした私の声は、音にならなかった。
そして私は、
「……サラ?」
倒れたというミアさんがロマンではなく、物理的に倒されたのだと、次に目が覚めた夜中に悟ったのだった。
バタン
きゅう
◇◇◇
ドサドサッ
調合室で調薬していた俺の真横、シナレフィーが持ち込んだ革袋を床に幾つも積み上げる。
「もしかしてそれ……触媒か?」
「はい。妃殿下が話していたような店が見つかり、そこであっさり手に入りました」
「おおお……」
「発注するまでもなく、在庫でありました。無かった物も、二月程待てば入荷するそうです。そちらは予約購入しておきました」
「ということは、二月後には全て揃うのか! あれだけ探したのに、そんなにありふれたものだったとは」
「いえ、在庫を抱えたのはここ最近のことだという話です。何でも異世界から『勇者の花嫁』を喚ぶのに、転移魔法用の触媒を国が大量に発注したらしく。その召喚は既に行われたため、出遅れた人間が持ってきたものが、在庫として買い叩かれていたみたいですね」
俺は革袋の山の前に屈み、頂点の一つを手に取って中身を検めた。
質は申し分なく、量は有り余る。
必要分以上に買い取ってきたのは、人間にこれ以上転移魔法を使わせないためだろう。
『勇者の花嫁』をわざわざ異世界から呼び寄せたということは、ここオプストフルクトに条件に合致する対象者がいなかったということ。既に喚ばれたサラは、こちらで押さえた。その上で次を喚ぶ手段を取り上げてしまえば、勇者は覚醒することが出来ず、台座に刺さった竜殺しの剣を抜くことが叶わない。
「サラにとっては災難だったが、俺たちは助かったな」
「確か、勇者と契約状態にあった妃殿下に、陛下が自分との契約を上書きしたんでしたよね。となると、通常の手順を踏んでいないため、勇者の方の契約は外れていない?」
「そう、向こうは再婚出来ない。次の花嫁を喚んでも無駄だ」
「それはまた、好都合が重なりますね。妃殿下は、あらゆる意味で陛下の『運命の相手』だったんでしょう」
「そうだろう、そうだろうとも」
まったくもって、その通り。
俺はシナレフィーに、大きく頷いてみせた。
「ああ、好都合と言えば、サラのすごい能力がわかった。サラは近くまで行けば、部屋に入らずとも中に宝があるかわかるらしい。彼女を連れて行けば、オーブがどこにあるか格段に探しやすくなる」
「? 言っている意味がわかりませんが」
「サラが言うには、サラを中心とした簡易地図のようなものが見える? らしい。で、それに宝や、探しものがある場所にマーカーが付くとか。その場にいる人数や、敵味方の判別までわかるみたいだぞ」
「ますます言っている意味がわかりませんが」
「俺もわからないが、実際に今日、街に潜伏中だった魔物攫いを彼女のその能力で捕まえることが出来た」
「ああ。戻ってきた時に街が騒がしかった理由は、それですか。「妃殿下に乾杯」といった言葉が飛び交っていましたが、てっきり陛下が嫁自慢をしただけかと思っていました」
「あ、それはした」
「したんですか」
「するだろ」
「まあ、しますね」
あれ、何の話をしてたっけ。
あ、オーブ奪還の話か。
コホン
咳払いを一つ。話を本題に戻そう。
「そんなわけで、相手の人員配置はサラの能力で筒抜けになる。だから、奪還の際は、交戦を避けて盗む方向で動くつもりだ。残りの触媒が手に入り次第、仕掛ける」
「そうですか。そうなると私は向かないので、陛下の方で対処して下さい」
シナレフィーが答え、それから彼は「ところで」と続けた。
「随分ご機嫌のようですが、どう――いえ、わかりました。それで話は変わりますが――」
「いやいや、そこはわかっても聞いておけよ」
聞いて欲しい話題に、触れる直前で通り過ぎようとしたシナレフィーの肩を、ガシッと掴んで引き止める。
そんな俺に、シナレフィーはあからさまに迷惑そうな顔をした。
「解けた謎には、興味無いのですが」
「お前が昔からどうしてモテるのかが、俺には本当にわからない。いいから、聞け。サラから唇へのキスの許可が下りた。そして、した!」
「予想通りの答ですね。何の面白味もありません」
「お前、普段ミアとどんな話してんだよ。会話になっているのか?」
「ミアには、彼女の提案で一日の会話で予想した内容とどれだけ一致したのか、日の終わりに結果報告することになっています。それはそれで面白いので、自然、彼女の話は聞くことになりますね」
「お前の嫁が一枚上手だった……」
さすが、この掴み所の無い男を掴んだ女である。
「そう言えば、魔界に転移した後は、そこから妃殿下を元の世界に帰すと言っていませんでしたか? そこまで深入りして、帰せるのですか?」
シナレフィーが言外に、「無理でしょう」とこちらを見てくる。
同じ竜族として、経験則からの言葉だろう。シナレフィーのミアに対する入れ込み方は激しく、彼は過去にミアを生け贄に差し出した村を半壊させている。
そしてそういった傾向は、シナレフィーに限らない。多くの竜族に共通する。
俺も含めて。
「俺はサラに「帰せる」とは言ったが、「帰す」とは言ってない」
「……ああ。陛下も、たまに魔王ですよね」
「たまに!?」
「しかし何故、そんなまどろっこしい真似を?」
シナレフィーが、さっきとは違い興味有り気に尋ねてくる。まったく答えが予測出来ないといった、そんな顔で。
「何でって、そりゃあだって。選びようがないから仕方無く嫁になりました、みたいな顔されたら俺が凹む」
「陛下は大概、臆病ですよね」
「そこは「たまに」にしておいて欲しい!」
「それで、結局のところ妃殿下は、そのまま貰い受けるつもりなんですね。そういうことでしたら、やはり持ってきて正解でした」
言って、シナレフィーが脇に抱えていた本を差し出してくる。
そうやって持ってきているあたり、先程シナレフィーが話そうとしていたのは、これについてだろう。
受け取って、俺は、その妙な装丁に首を傾げた。
先日貸してもらった『恋するあなたへ ~初めてのデート編~』とは、随分と印象が違う。表紙にタイトルが書かれておらず、何より鍵が付いている点が不可解だ。
「何の本だ?」
「人間と子供を作る方法が載っています」
「へぁ?」
本を裏返そうとした手が滑り、取り落としそうになったのを慌ててキャッチする。
「なん……な、なん……」
「実際、ミアとの間に子が生まれましたので、有用性は証明されています」
「あ、うん。ちょっと待て。話を進めるな。まず落ち着く」
すー、はー、すー。
集中。呼吸に意識を集中。
……よし。
「サラを嫁にはしたが、正直、まだそういったことは考えたことがなかったな……」
「そう思いましたので、用意しました」
「いや、その、ほら、今忙しい時期で。つまり、今すぐ必要なわけじゃなくて。だから、一回返す。手元にあったら落ち着かない」
俺は最早、本を直視出来ず、余所を向いてシナレフィーに突っ返した。
しかし、「いえ、今すぐ必要です」と、向こうは受け取ろうとしない。
「実行するのは先でも、知識は必要です」
「その心は?」
「態度に表れるからです。匂わせるものが無ければ、唇にキスをしたところで子供がじゃれているのと変わりませんよ」
「ぐはっ」
確かに。言われてみれば、確かに。
あ、もしかしてそれ? こいつがモテるのってそこ?
そういや、シナレフィーは結局未遂だったものの、初対面でミアを手籠めにしようとしたらしいからな。そういう危険な香りが必要とか、そういう?
え、無理。俺は無理。冗談でもサラに襲い掛かるとか、無理。絶対途中で恥ずかしくなって自滅する。やる前から目に見える。
「で、でもほら、唇にキスしていいって言った時、サラは照れてたし。子供とは思われてないはず。そのはず」
「今朝の魔王城情報では、妃殿下が「ギルは格好いいのに、可愛い」と言っていたそうです」
「やっぱり借りておく」
反射的に引き上げてしまった本を、俺はつい凝視した。
いやほんと、どうして読むために存在するはずの本に鍵が掛かっているのか。封印しておけと、そういうことではないのか。
見れば見るほど、禍々しい。魔王な俺が見て禍々しいと感じるとか、相当やばい代物に違いない。
「ああ、一つ注意点が」
「なん、ゲホッ、……何だ?」
生唾を飲んだ瞬間に声は掛けないで欲しい。頼むから。
「一度に五頁以上は試さない方がいいです。前にそうしたときミアに酷く叱られ、一週間、口を聞いてもらえませんでした」
やばい代物確定。
もっと初心者向けのは無かったのか。
内心、文句を言いつつも、自分で買いに行く勇気も無ければ売り場もわからない。
「わかった……」
先達シナレフィーに従う他ない俺は、そう答えるしかなかった。