21.勇者カシム
翌朝、私は『朝、起き上がれなかった』というテンプレ展開を、見事体験する羽目になった。
ギルは魔王だった。目が覚めた私が真っ先に思ったのは、それだった。
今朝も今朝で、私を瞬時に回復可能にもかかわらず、「俺がベッドを離れてから回復するように」と敢えて彼は遅効性の魔法を掛けた。察した理由に遠い目をしたのは、ついさっきのことだ。
(遠慮なく使っていい以前に、『ハナキ』を言えた覚えがないのだけど……?)
私は、一段高い場所にある玉座に座ったギルを胡乱な目で見上げた。が、そこでとてもそわそわした様子を見せていた彼が可愛くて、あっと言う間に「まあいいか」という気になってしまった。恋は盲目だ。
「ギル。座り心地でも悪いんですか?」
「いやそうじゃなくて。実はここに座ったの初めてで落ち着かないというか……謁見の間に入ったこと自体無かったし」
「魔王なのに?」
「即いてから忙しかったからな。それに魔族や魔物に用があったら、俺から会いに行った方が早い」
「それはそうですけど」
なんてフットワークの軽い魔王。
「サラに勧められて座ってみてよかったな。記念になった」
そしてこの玉座の価値観である。まあ「座ったところを見てみたい」という理由で座ってもらった私が言うのもアレだけれど。
(ギルの価値観がそうなのはきっと、大事なのは椅子じゃないことを知っているからだ)
肘掛けの握り心地でも確かめているように見えたギルに、口元が緩む。
それから私は足元の、赤い絨毯に目を落とした。
謁見の間を横断するように、入口からギルの座る玉座まで続いている。その中央、昨日ギルが描いた魔法陣が淡い光を放っていた。
中天の刻になれば自動発動するのだからギルがここにいる必要は無いのだけれど、どうせなら発動する瞬間を見たいと思って彼に連れてきてもらった。今日は遅めに起床したので(原因が何とは言わないが)、発動まで後一時間くらいだろうか。
カルガディウムの襲撃はやはり昨日のあれで終わりではなくて、人間側が応援を呼んできて今日もドンパチやっているらしい。ギルが魔界から呼び戻すまで、どうか皆無事でいて欲しいところ。
「サラ。ほらっ」
ギルが私を呼ぶ。両手を広げて。
(そこで膝抱っこなの!?)
玉座で女を侍らせるの図は、ギルにも私にも少々無理があるような。……とか思いつつも、彼の笑顔には逆らえない。私はギルの傍まで行き、促されるまま彼の膝の上に座った。
場所が玉座だろうが何のその、気が付けばいつもと変わらないギルとの遣り取り。
他愛ない話をして、時にお互いが照れて会話が途切れて。
ギィ……
今も丁度そんな会話が途切れた瞬間で、だからこそ私はその静かな音を聞くことが出来た。そんな、些細な音だった。
謁見の間の出入口、両開き扉の片側がゆっくりと開かれる。
「……え?」
そこから現れた人物に、私は自分の目を疑った。
「カシム」
私がそうするより先に、ギルがその名を口にする。
「サラ。お前の結界は効いてるが、俺から離れるなよ」
ギルが小声で言って、それから彼は私を立ち上がらせた。続いて彼自身も立ち上がる。
(カシム?)
扉が開いた時と同様、酷くゆっくりとした動きでカシムがこちらに向かってくる。一見覇気の無いそのゆらゆらとした足取りが、私には不気味に感じられた。
「やっぱりカシムは来たか。面倒だな」
ギルがボソッと独りごちる。
「魔王城全体に魔法陣の効力が掛かってるから、干渉する空間移動は使えない。他の魔法も匙加減が苦手だし……仕方ない、時間が来るまで物理で――」
「待ってギル、あの剣……」
私は、カシムの対処方法を考え始めたギルの服の袖をくいっと引いた。
カシムとの距離が徐々に縮まり、そこで私はようやくその存在に気付けた。
初日に私を殺そうとした長剣とも、精霊の村で突き立てられた短剣とも違う、磨かれた鏡面のような刃をした大剣。
森で見たあの曰く付きの剣が抜かれたなら、きっとそんな姿をしている。そう思うような剣を、カシムは手にしていた。
「まさか、竜殺しの剣?」
ギルが呟く。恐れていた言葉を。
一歩、また一歩カシムが近付いてくる。その度に、剣先から毒々しい紫の液体がポタリポタリと床に落ちた。
カシムが着た服にも、同じような色をした汚れが見受けられた。加えて、蔦や葉の切れ端のようなものも付着していた。
(もしかしてそれ……食人蔦を……?)
カシムのなりから想定した事態に、足元がぐらつく。
そう考えれば、カシムの服の汚れが返り血にしか見えなくなる。本当に食人蔦を斬ってきたというのなら、その表現は正しいだろう。魔物であっても、それは命を奪われた者の血なのだから。
「どういうことだ? あいつのサラとの契約は解けていない。次の嫁は娶れないはずだ」
「考えるのは後! ここは逃げるところ!」
私はハッと我に返って、ギルの手を取った。そのまま玉座の後ろにある扉に向かって走り出す。
ギルはきっと誰より強い。けれど、相手がギルにとって即死な効果を持つ武器を持っている場合は別だ。特定の攻撃でラスボスも一撃というゲームも、稀ではあっても実在するのだから。
勇者を前にした魔王にあるまじき行動と言われても、知ったことじゃない。私にとってギルは、『魔王』の前に『好きな人』だ。
私はギルとともに、全力でこの場から逃げ出した。
◇◇◇
魔王城の廊下を行く。
ギルの魔法で私の足は速くなり、追い掛けてくるカシムとの距離は保たれたままだ。
「これ以上も速く出来るが、そうすると多分サラが曲がり角を曲がれない」
「細やかな気遣い、ありがとう!」
ギルが言うように、今の私の走る速度は人間のそれではない。それにカシムはピッタリ付いてきている。
(覚醒した勇者は竜のような腕力で剣を抜くという話だったけど、脚力の方も増し増しですか!)
通常なら見落としそうな脇道に入っても、カシムは迷わず追ってくる。
何度か試して思い出した。そうだった、勇者もミニマップが見えているんだった。そりゃあ敵のマークを追ってくるよね、参った。
「異世界人のお前が大人しく消えていれば!」
これまで無言で私を追ってきていたカシムが、突然叫んだ。
「お前が消えてさえいれば、エリスは――妹は死なずに済んだのに!!」
「え……」
まったく想定していなかったその訴えに、つい動揺して走る速度が落ちる。
(しまった)
慌てて足を動かすも、立て直す間にカシムとの距離が縮まってしまう。
「そうか。他に身内がいたなら、次の嫁を娶れなくともそいつが条件の対象になる」
ギルが「誤算だった」と続ける。私にはその声が、どこか遠くから聞こえたように感じた。
確かにあの森でカシムが口にしたのは、『一族の犠牲』。『妻』とは言わなかった。
(でも……でも、実の妹だなんて)
「勇者の一族も被害者」、そんな簡単な言葉では片付けられない。カシムが私を恨むのは当然だろう。
私を恨んで、ギルを恨んで。
そして彼は、自分をも恨んでいる。身も心も壊しても、省みないほどに。
「ギル」
一言、彼の名だけ呼び、私は繋いだ手を離した。
長い直線廊下の途中で足を止める。それから私はギルとカシムとの間に立つよう、一歩前に出た。
衰えない勢いのままに、カシムが脇目も振らずこちらを目指してくる。
彼の走った後を点々と、液体が廊下を濡らしている。
先程見た紫色ではなく、彼の赤い血が。
「殺す……お前たちを殺してやる!!」
カシムが竜殺しの剣を構える。
手は放したのに、ギルは私の後方から離れようとはしなかった。念のためそうしただけで私に考えがあることは、彼にはお見通しなようだ。
ダダダッ
床を鳴らしながら、カシムが駆けてくる。
そしてあと一歩の距離まできた彼を――
「させるかぁあああ!」
メリメリグガシャァアッ
私は踏み抜いた床とともに、階下に落下させた。
ズズーーーン
「――あ、闇の精霊の時の」
暫し呆気に取られていたギルが、ポンッと手を打つ。呆気に取られていた理由が、声優さんでもなければ言う機会が無さそうな台詞を言ったせいではないことを祈る。
(勇者は落下してもへっちゃらの法則は、適用される……よね?)
私は恐る恐る、出来たてほやほやの大穴を覗き込んだ。
剣を持ったまま倒れているカシムは、ピクリとも動かない。
「死んでない……よね?」
不安に駆られ、私は先程離したギルの手をまた握った。
「死んでいたら強制送還されるから、死んでないな」
「そういえば、そうでした」
ギルの返事に、ホッと胸を撫で下ろす。いくら自分を殺すつもりで襲ってきた相手でも、こちらまで殺人者にはなりたくない。
「ん?」
やはり動かないカシムの様子を見守っていた私は、ふと違和感を覚えた。
「え? え?」
大穴を覗く私の視界に、映るべきものが映っていない。私の――足が無くなっていた。
「なんっ、何で!?」
私は地面に立っている。その感覚がある。有るのに、無い。
呼吸が浅くなる。ふくらはぎが消え、今は大腿が半透明となって消えようとしていた。
「!? 探索蝶!」
叫んだギルに、私はただ反射的に彼の視線を追った。
そこにあった光景は、天井にびっしりと止まった、おびただしい数の赤い蝶。
『失せ物探し用に飼育された魔物です。情報が伝達されたなら色が赤く変わるので、妨害は間に合ったようですね』
それなら、妨害が間に合わなかったら?
大腿が完全に消え、次に腰が半透明となって行く。
ドクン
心臓が一度、大きく跳ねた。
探索蝶の作用が全身に回ったなら、私はきっと蝶の主の元に連れて行かれる。
その時、もし私が何かを、誰かを手にしていたなら……?
震える自分の手を見る。その手の先を見る。
ギルを見る。
「サラ! 俺の手を絶対に離すな!」
青ざめた彼の顔が目に入った。
(そっか。それが『答』なんだ)
範囲は胸へと広がり、もう時間が無いことを示している。
不意に、ポゥッとギルの身体が淡い光に包まれた。魔法陣が放っていたものとよく似ている。
時間なんだ、私も、彼も。
「ギル……ギルガディス」
ずっと呼んでいなかった、彼の正式名称を呼ぶ。
何だかそれが幸せな響きで、
「――――『ハナキ』」
私は、笑って彼の手を離せたと思う。