4 漢倭奴国王(前編)1
吹きすさぶ風と打ちつける雨の中、遠比士の遺体を包んだ布の包みが運ばれ、船に乗せられる。船は流されぬように綱で結び付けれらたまま、浜を離れていく。
この場に居る多くのものは、そこに入っているものがもはや死んだ遺体であるとは思っていない。生きた遠比士が、自ら嵐を鎮める人柱として海に沈もうとしている。比士謀殺の現場にいなかったものは、誰もがそう思っていた。
遠比士の死より、3日が経とうとしていたが、その光景は岐峰の胸から離れることは無かった。
倒れた遠比士を前に、岐峰も、美君も言葉を発することが出来なかった。比士の口からは吐いた血が流れ、胸の傷に更なる血を注いでいる。その憎しみに満ちた眼差しは、未だ岐峰と美君を睨んでいた。
ふと、撥耶の手がその眼差しをふさいだ。撥耶の手が、比士の目を閉じさせたのだと気付くのに少しの時間が要った。
撥耶は剣の血をぬぐい鞘に収めると、
「誰か!」
大声で人を呼んだ。駆けつけた夜警の人間がその事態を正しく把握する前に、撥耶は言葉を継ぐ。
「主は、伊舎那大王、美君との面会中に血を吐いて倒れられた。我らは主を居室に運ぶゆえ、諸君らは事態を遠家重臣達に伝えよ。」
「医、医者を…」
「俺が見る。もはやこの時間だ。」
「は、はい。」
動揺を隠し切れない見張りの兵は、ともかくも比士が倒れたことを重臣達に伝えるため、のろのろと動き出す。
「加えてもう一つ。」
「は、はい?」
「これより先は、兄、比士を代行しこの撥耶が遠家の政務を取り仕切る。それも各々に伝えよ。」
「は、はい!」
兵達は、そこで撥耶が実質の遠の当主となることに気がついたのだろう。その場に額づき、礼をしてから部屋を走り出た。
「兄様…。」
美君が、搾り出すような声を出す。
「…岐峰、美君。運ぶぞ。」
撥耶に言われ、岐峰は比士に、比士だったものに近づいた。顔を伏せたままの美君も、それに続く。岐峰は、比士のこわばった体が少しづつ熱を失いつつあるのを、運びながら感じた。戦場で何度も味わった死の冷たさがそこにあった。
比士を居室に運び、美君の部屋に入れていた刺客たちを牢へ移し、再び居室へ戻った頃には、既に空は少しずつ白み始めてみた。美君を先に休ませ、岐峰は撥耶と供に比士の居室にあった。比士の傷を縫う撥耶の後ろ姿に、岐峰はやっと声をかけた。
「殺さなければ、ならなかったのか。」
撥耶は、手を止めることなく言う。
「ならどうする。兄上の望みどおりお前が死ぬのか?」
「だとしても、」
「それとも、裏切りの罪人として捕えるか。遠の大夫を。」
それは岐峰をはっとさせる言葉だった。比士自身が自分を指して言った“東夷”と言う言葉を思い出す。東夷の民によって罪人として裁かれる。比士にとってこれ以上の辱めはないだろう。
岐峰の頭に、別れ際の美君の言葉が頭をよぎった。
“言えた義理ではありません。でも、岐峰。お願いです。せめて最後に父に、温情をお与えください。”
比士の裏切りを暴く。それは確かに、遠家の誇りを地に落とす行為に他ならないだろう。それでも、美君は身を張って自らの父を糺そうとした。恐らくは人としてこれ以上堕ちることを止めるために。
そして撥耶は、それを止めるために、比士の胸を貫いたのかもしれない。そう思うと岐峰は、これ以上撥耶にかける言葉が思いつかなかった。
「哀れよな。」
ポツリと、撥耶がこぼす。
「劉秀に敗れ河南を逃げ出た時点で、遠の誇りも、皇帝の野望もとうに地に落ちていたのだ。堕ちた誇りと夢に縋った挙句がこのざまだ。」
撥耶の声は、むしろ、岐峰ではなく比士に向かっているように聞こえた。
「この世にたった3人しか居ない血を別けた身内すら、信用ならなかったか、兄上。」
打ち明けられれば、諌めていたのだろう。供にやりようを模索することも、供に裏切ることも出来たのだろう。岐峰にはそれが出来なかった自分を責める言葉のように思えてならなかった。撥耶の声にならない慟哭を聞いた気がした。
「失礼してよろしいでしょうか。」
扉を叩く音とともに見張りの声が聞こえた。
「用件を言え。」
遺体の処理は終わっていたが、流石に室内に入れるのはまずいと思ったのだろう。入室の許可をせずに撥耶は言葉を返す。
「主への見舞いに、伊舎那の提羅子殿、筑紫殿、巴太の廉劫殿がおいでです。いかが致しましょう。」
「構わん、通せ。」
撥耶の言葉に、見張りの兵が遠ざかっていくのが聞こえた。外の薄い明かりが、その降り止まぬ雨と厚い雨雲の上空に、太陽が昇っていることを示していた。
「大王、よくぞご無事で。」
「そなたも。」
額づいた廉劫の言葉に、岐峰は返した。岐峰は恐らく廉劫のもとにも刺客が向かったはずだと思っていた。故に、自分達が遠の屋敷に赴くのと同時に筑紫と羅子を巴太の陣地に向かわせていた。
「巴太の寝所にもぐりこんだ兵は布津殿が片付けられました。生きて捉えることはなりませんでしたが。」
羅子の言葉に、筑紫が頷く。
「用心が功を奏したところではありますが…」
廉劫はそういって、寝台の上の比士を見る。
「どこまで聞いた?」
「大王が刺客に襲われたこと、我等もまた刺客に襲われたこと、遠大夫が病に倒れられたこと。以上のことしか知らぬゆえ、正直戸惑っておる次第です。」
岐峰の言葉に廉劫は困った調子で返す。なるほど、と思う。事の顛末を知らぬ廉劫には、何が起っているのか検討もつかないだろう。遠比士が病に倒れたと言う報に関しては羅子たちも詳細を知らない。
「例の書簡の件も、説明できておりません。」
説明を促すように羅子が言う。羅子の言葉にさらに困惑を催す廉劫に、岐峰は事の次第を説明した。廉劫の表情が困惑から驚愕に変わっていく。
「なんと…」
廉劫は再び寝台の比士を見る。
「なんと、浅ましきことを…」
「もう死んでいる。」
割って入った撥耶の声に、廉劫は振り返る。確かに、死者の冒涜は礼に反する。だが、この死者が呼び寄せた嵐が、今この蓬莱を飲み込もうとしている。
「とかく、事の次第を伊舎那の家臣に伝え、事後のことを計るべきです。遠家の処遇も含めた上で。」
羅子は、撥耶を睨みつけたまま言葉を発する。
「羅子。」
「ここは、羅子の言うとおりでしょう。」
諌めようとした岐峰の言葉を筑紫が遮る。
「漢軍はもはや洛陽に兵を集めているのでしょう?事態を正しく共有した上で準備を進めなければ。情報が漏れてからどれだけの日数が経っているのかはあの書簡からだけではわかりませんが、洛陽の軍備完了が済んでいれば、ふた月。ふた月で劉秀の軍は伊舎那に押し寄せます。」
筑紫の言っていることは確かなのだろう。ふた月でこの地を戦禍が襲う。戦うにせよ、降伏するにせよ、そのための準備を始めなければならない。しかし、と、岐峰はためらってしまう。その為の泥をすべて、比士にかぶせようというのか。
「俺も、賛成だ。」
最後に賛同したのは、撥耶だった。
「彼らの言うとおり、早急に皆を集め事態を伝えるべきだ。」
岐峰は、驚きと供に撥耶を見た。
「一つ、大王に願いがある。この遠撥耶と遠家の主だった重臣をその会合に参加させていただきたい。」
岐峰は、撥耶の真意を図りかねた。
「大王、よろしゅうございますね。」
重ねるように問うたのは羅子だった。岐峰は、頷く以外の選択肢を持たなかった。
「恩に着る。」
撥耶のその言葉を契機に、筑紫と羅子は部屋を出る。途中から物を言うことのなかった廉劫は、ふと、岐峰に問うた。
「大王、漢が、劉秀が憎うございますか。」
岐峰は、問うた廉劫の目を覗いた。怒りとも、悔しさとも、悲しさともつかぬものが浮かんでいる。
「私は、未だ、やはり憎い。劉秀の軍に殺された器稜殿のことを思うと、今でも身の焼かれる思いが致します。この身を焼く衝動に己を委ねていれば、私もこの男と同じことをしていたやも知れぬ。」
廉劫は、苦いものを吐き出すように呟いた。そして、苦い笑いと供に頭を振った。
「日時のご連絡をお待ち致します。」
そういって、廉劫も部屋を出た。部屋を沈黙が再び支配した。
「…撥耶、せめて比士の死に誇りを手向けたい。」
岐峰は、そういって撥耶を見た。裏切られた、ていよく利用されたことは間違いない。しかし、遠比士には、やはり河南漢水の大夫として死んで行ってほしかった。岐峰は、その死を包みこむ思い付きを、撥耶に話した。
「…甘い。」
撥耶の声は、沈黙に融けた。
「…俺が、決めた。ここは俺の国だ。」
これもまた、響くことなく融けていく。
「…好きにすればいい。」
撥耶は、そういって扉へ向かい、部屋を出た。
伊舎那を上げての会議は、翌日の夕刻と決まり、伝達の使者が走った。急な集合であったが、伊舎那各地の代表者が婚儀のために群島に到着していたために伊舎那家臣の大半が揃うこととなった。そして嵐の中、帥王が群島に到着したのは昼を過ぎた頃であった。
「伯父上。」
「岐峰。…!」
港に着いた帥牙比古は、声をかけた岐峰の後ろに控える撥耶と美君を見て、表情を堅くした。伊舎那の使者が知らせた遠比士の裏切りは、帥王にとっても衝撃であったのだろう。彼らにどう対したものかを決めかねているようでもあった。それに過敏に反応したのは美君であった。美君は帥王の前に額づいた。
「帥王、この度は、」
「美君。」
その謝罪の言葉を遮ったのは、撥耶であった。振り返る美君に撥耶は言葉を重ねる。
「でしゃばるな、美君。お前は、伊舎那に嫁ぐ身、半ば遠の人間ではない。」
そういって、美君を立ち上がらせると、撥耶は美君に代り、牙比古の前に額づいた。
「撥耶殿。」
「この度は、我らを匿い保護してくださった大恩を、仇で返す結果となり、真に申し訳のしようもありませぬ。」
額づいたまま言葉を重ねる撥耶に、牙比古も言葉を選んでいるように見えた。やがて、牙比古も心を決めたように口を開いた。
「そなたらは今、我ら一支国の客人ではなく、伊舎那の同盟者だ。わしと同じくな。その処罰に関しては伊舎那の王である岐峰の裁断に任せるべきであろうよ。とかく、表を上げられよ。」
そういって牙比古は岐峰に向き直り、さらに言葉を紡ぐ。
「悪い知らせだ。劉秀は楽浪郡に半島の兵を集め、4万の軍を用意しているらしい。劉秀自身が率いる洛陽からの2万が合流次第、出陣を予定しているようだ。旗の文言は“討倭”だそうだよ。」
楽浪郡は、前漢時代からの半島における帝国の拠点であった。そこに、既に4万が集っている。洛陽からの兵を合わせて6万の軍勢を、劉秀が率いて攻めて来る。岐峰の背中に、ゾクリと冷たいものが走った。
「岐峰、漢と、劉秀と戦うのか。」
牙比古は、ひたと岐峰の目を見つめながら問うた。
「そなたがそうすると言うのなら、わしも腹をくくろう。」
「伯父上…。」
「どうする、岐峰。」
「時間を、ください。いま少しだけ、時間を。」
悩む時間も、選択肢も残されていないことは分かっていた。それでも岐峰には、答えを出せなかった。ためらいながら、美君がそっと岐峰の手を握る。その暖かさに、岐峰はふと、目頭が熱くなった。
「本当ならば、そなたらの婚姻を祝う席であったろうにな…」
ポツリと呟いた牙比古の言葉に、撥耶が天を仰ぐのが見えた。
夕方。伊舎那の館、玉座の前には、伊舎那国の家臣たちが並んだ。その中に撥耶ら遠家の歴々、帥王らが加わり、誰もが不安な表情を隠せないままに、立っていた。美君の姿はそこには無い。撥耶が同席させないことを岐峰に頼み込んだためであった。その理由も、今わかった。比士の裏切り、突然の死、美君の疲れた心を、この刺さるような敵意にさらしたくは無かった。岐峰は、一同の不安に満ちた顔を見回しながら、言い含めるように言った。
「各々、風聞などによって事情を聞いたものも居るだろう。現在、劉秀文叔がこの蓬莱を目指して進軍している。」
ザワリと、一同の空気がよどんだ。察していた者の、やはり、と呟く声がその場に静かに響いた。やはり、そう、やはり事の次第は少しずつ漏れている。ならば、それを被い尽すものが必要になる。岐峰は、改めて気持ちを引き締めた。
「何故かと言えば、我等の同盟者である遠家の大夫、遠比士が我等の内部、及び敵対部族と共謀し、伊舎那を掌握し漢へ攻め入ろうとしていたため。そしてそれが、漢に漏れたためだ。」
ざわざわと、ざわめきが大きくなり、一同の目が撥耶らに向く。もう一息間をおけば、誰かが遠家を糾弾するだろう。その声を上げさせないために、岐峰は続けた。
「私は、この事を遠比士自身から聞いた。」
一瞬、ざわめきが止む。
「病に倒れた遠大夫は、己の行いを悔い、私に詫びながらこの事を告白した。」
これが、撥耶が甘いと吐き捨てた、遠比士の罪を包み込む思い付きだった。それは、岐峰の願望なのかもしれない。そうあってくれればと、思っているだけなのかもしれない。
「この上は、この続く嵐を鎮める人柱として、海へ行きたいと、言われた。長くないその命を、この蓬莱のために捧げたいと。」
廉劫が、羅子が、筑紫が、岐峰を見る。先にこの事を知っていた撥耶以外、比士謀殺を知るものは誰もが驚きの表情を浮かべている。
「それは、事実か。」
誰とも知れぬ声が、一同の中からあがる。場の集中が撥耶らに向いた。
“頷いてくれ”祈るような気持ちで、岐峰は撥耶を見た。おろおろと戸惑う遠家の重臣達の中、撥耶は目を閉じたまま動かなかった。永遠とも思える沈黙がその場を支配した。
「然り。」
その沈黙は、撥耶の肯定によって消えた。
ならば、遺恨を忘れ、劉秀に対する策を練ろう。そう言おうとした。
「なれど、罪は罪であろう。」
その言葉は、撥耶の言葉によって遮られた。
「兄上が各言うまで弱っているということは、遠家の当主としての判断も采配も振るえまい。その罪の責任は、次期、いや、現当主であるこの遠撥耶が負うべきであると考える。いかがか、大王。」
撥耶の目は、真っ直ぐに岐峰を貫いていた。
「いかにして、負う。」
岐峰はその目をそらしてはならない、と言う思いにかられながら、返す。
「此の場にて、我が首を落とされよ。」
今までで一番大きなざわめきが室内に走った。
「そして願わくば、この首を以って遠家臣下の命を購いたい。この件に関わった遠家の臣の処刑こそ正当な裁きと考える。だが、この遠家当主遠撥耶の命を差し出すゆえ、国外への追放に留めていただきたい。」
『そうだ、その通りだ。』
『いや、それすら手ぬるい。手心を加えず皆処刑にするべきだ。』
ざわめきの中から、その撥耶の意見を肯定する声が聞こえ始める。場が、遠家糾弾に流れてゆく。
『ならば、姫君は。』
『姫君をこそ伊舎那から追放せねば。裏切り者の娘ぞ。』
「今ひとつ、この場にて宣言したいことがある。」
撥屋の声が、ざわめきを鎮める。
「我が姪である遠美君は、大王と供に遠比士を陥れ、孝に悖る手段でその罪を暴いた。かくなる裏切りを受けたこと、我ら遠家はけして許せぬ。遠家は美君と縁を切る。」
もはや、岐峰は確かめる必要もなく判った。撥耶は、岐峰に遠を裁かせようとしている。美君を遠から切り離し守った上で、自らの首を差し出そうとしている。
そうやって、そうやって、己一人で泥をかぶろうと言うのか。岐峰の中にふつふつと、何かが沸いた。
「撥耶!!」
一瞬、岐峰はそれを自分の声と思えなかった。それほどに、怒りに満ちた声だった。己の中にある怒りが、そのまま形になったかのようだった。
真っ直ぐに睨みつける岐峰の目に、撥耶は平然と返す。
“いま、それが必要なのだ。”
その目が物語っていた。いつか選ばねばならぬ。撥耶自身がいつかそう言った。平等の楽土などと言う幻想は幼児の戯言だと、比士はいった。まさしく今、漢軍と言う押し寄せる嵐の前に、築き上げてきた伊舎那は夢と消えようとしている。
だが。そう、だが。これが答えではない。これが答えであっていいはずは無い。その思いが、ひたすらに岐峰の胸を叩いていた。
「遠家に裁きを!」
誰からかもわからぬその一声が、群集の勘気を刺激した。
「遠家に裁きを!」
群集が、その場に在った伊舎那の臣たちがその一言に雷同した。
「静まれ!御前だ、静まれ!」
宥めようとする筑紫の声もむなしく、その唱和は強さを増していく。
誰もが、己を誇れる楽土を。誰もが誰もを貶めること無い楽土。それは、このような形でなるものではない。
「今!真に考えるべきことは何ぞ!」
岐峰の一喝は、群集の唱和を吹き飛ばした。
「この伊舎那という国を守るため。ひいては、この国にある全ての民を守るために今一番すべきことは何か、それをこそ考えねばならぬ。まずは各自、今風前の灯となっている全ての民の命を考えてもらいたい。それを守るためにすべきことを、考えてもらいたい。」
誰もが、岐峰を見ていた。誰もが、己の王である岐峰に目を向けていた。己の双肩に、彼らの後ろにある数万の民、その命がのしかかっていた。それを、もう厭いはしない。
「遠比士殿の御柱の儀の折に、私自身の答えを出そう。遠家の処遇も、この事態への対処も。」
しかと、一同を見回す。それぞれの目を覗きこみながら、岐峰は続ける。
「儀式は、明朝執り行う。それまで、この嵐に身を投げ打つ遠大夫に免じ、遠家への責めを留めてくれ。」
一同からはもはや、反対の声は上がらなかった。ただ撥耶のみが、そらさずに岐峰を見ていた。